下閉伊郡役所(宮古町)
この写真は、今から約100年前の明治45年(1912年)当時の下閉伊郡役所です。現在は宮古市役所分庁舎が建っていますが、江戸期にはここに南部藩の宮古代官所があったと云われています。因みに歴代の代官にはかの平民宰相「原敬」総理大臣の先祖の名もあるそうです。
下閉伊郡役所は、明治12年(1879年)当時の閉伊地方を東西南北中の5郡に分け、宮古村に東閉伊郡の郡役所を置いたのが始まりで、その後明治30年(1888年)に中閉伊郡(川井)と北閉伊郡(岩泉)が統合し下閉伊郡となり、爾来100有余年宮古は下閉伊の政治経済の拠点となっています。明治45年当時の下閉伊郡(宮古町・鍬ケ崎町・山田町外25村)の人口は69,867人(現在の旧下閉伊郡全体計人口は1市2町3村計96,509人)でした。
さて写真を見ると、冠木門が何やら時代めいて見えますが、後程お見せする九戸郡役所の門も冠木門で、城の外門などに見られるような簡易な作りですが威圧感があります。右の門柱には墨痕鮮やかに「下閉伊郡役所」の字が見えますが、左の柱の文字は残念ながら判別できません。木柵の外側には電信柱(宮古に初めて電燈が灯ったのはこの明治45年のことです。出来立ての割合には柱が傾いているのが残念です)とその横に大きな掲示板が見えます。柵の内側には広場があり、中央の広い石段を登り板塀を抜けたところに、これも時代がかった鯱を乗せた大屋根と中央に採光用のガラス窓の破風を設えた間口15.6間の大きな建物と、左側に白壁の蔵が見えます。
ここで建物以外で私の興味を引いたのは、石垣を組んで嵩上げされた役所の土台です。宮古には有史以前から何度も大津波が襲来しています。約1150年前の貞観の津波(869年)当時は当地方には民家集落も少なく残された記録はありませんが、400年前の慶長の津波(慶長16年/1611年)では、鍬ケ崎では今回と同じく激浪が蛸ノ浜を越え、宮古では当時八幡山麓にあった常安寺を押し流し、宮古村は戸数200余戸の内僅かに数軒を残すのみで壊滅的な被害を蒙ったと記録にあります。代官所はその後に設置されていますので、慶長の大津波の浸水域より高く盛り土して建てられたと思われます。因みに今回の東日本大震災の津波でもこの土台の高さより上に波は届きませんでした。また江戸以前からあった横町から小沢方面に抜ける山沿いの古道から上には、津波は押し寄せてしていません。私達が父祖から伝えられてきた故事は、間違いなく確実に次の時代に残し伝え続けていかなければなりません。今回の大震災で改めて思い知らされました。
※追記(残念なお知らせ)
宮古の歴史を秘めた此の地が大きく変貌するようです。実は上記のとおり、下閉伊郡役所跡地には宮古市市庁舎分庁舎が建てられていますが、今般の宮古市庁舎の移転新築工事に伴い市分庁舎は解体され、「石垣を組んで嵩上げされた土台」も崩して土地を平たんにして公園化するそうです。此の土地には確かに歴史的な建造物は残っていませんが、分庁舎の土台は400年前に津波を避ける為に嵩上げされたものであり、もしかすると土台の中には慶長の石垣の一部が残されているかもしれません。大事に保存するほどの史跡ではないかもしれませんが、慶長から明治と続く三陸大津波の歴史を潜めた「土台」が、何ら顧みられることなく消されてしまうのは残念でなりません。土台の一部を残して三陸大津波の歴史を伝えるモニュメントを建立できないものでしょうか…
大変お疲れ様でした。
私も始めてみましたが、続くかどうか??
無理なく楽しく続けられると良いですね。
今後ともよろしくお願いします。