100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

VOL80  明治の三陸の産業4 「刈屋製糸場」 (下閉伊郡刈屋村)

2015-05-30 15:43:12 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「刈屋製糸場」下閉伊郡刈屋村/現宮古市刈屋)

製糸は明治の三陸の中山間地に新たな産業を興した

現在の宮古市刈屋地区にあった製糸場です。大きな建物が四棟見えますが、全ての建物が製糸工場ではなく、正面の二階建ての大きな建物や手前の二棟は、換気用の小屋根が見えるので蚕を育てる蚕室と思われます。もしかすると1階が製糸工場かもしれませんし、蚕の餌なる桑の葉の貯蔵庫もあったと考えられます。

刈屋地区は四方を山に囲まれて平地が少なく寒冷な気候で稲作には余り適しておらず、江戸時代や明治に入っても冷害による飢饉に何度も襲われた山里でした。これは刈屋村に限らず下閉伊・上閉伊・気仙・九戸の三陸地方の全てに通じることです。しかし製糸業は、生糸を繰り出す工場だけでなく、その原材料の繭を産み出す蚕の飼育すなわち養蚕しかり、さらに蚕を飼うための桑の葉の栽培と、裾野は広いものがあります。当時の農家にとって養蚕は貴重な現金収入源であり、製糸工場は農家の子女の大切な雇用の場でした。

三陸の養蚕及び製糸の歴史はさほど古くなく、明治の後半から急激に発展します。稲を育てられなかった荒れ地が桑畑となり、有力な農家は繭を作る蚕室付の居宅を建て始め、座繰式の中小の製糸工場が山あいの土地にも建てられ、近隣の子女が勤め工場に通い現金収入を得ました。工場で仕上げられた生糸は、三陸の港から横浜に向けて出荷され、さらに海外へ渡りました。製糸は、外貨獲得産業として日本の近代化を支えましたが、三陸の地では中山間地に新たな産業を興し、近代の経済サイクルが稼働する端緒となりました。


VOL79  明治の三陸の産業3 「中村生絲揚返所」 (下閉伊郡岩泉村)

2015-05-03 04:01:20 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「中村生絲揚返所」(下閉伊郡岩泉村/現岩泉町)

 

「揚返し」とは、座繰や機械繰で繰糸器に巻き取られた生糸を、大きな枠に巻き直して綛(かせ)を作る施設です。この工程は糸の太さのバラつきを整え、余分な水分を飛ばすことで湿気により糸がくっつくことを防ぎ強度を上げるなど、品質の向上に欠かせないものです。

写真の中村製糸揚返所のことは詳しく分かりませんが、揚返所があるほどですから、座繰か器械式か大きな製糸場であったと思われますし、多分周辺の小さな工場から集荷して品質を整えて、生糸として出荷したと推察します。

生糸は、岩泉からは盛岡へ馬車などで運びそれから汽車で、宮古では宮古港から船で、それぞれ横浜に運び、それから海外に輸出されていました。

因みに三陸各地で育てた生糸に製品化する前の「繭」も、宮古港を始め三陸各地の港から、信州・上州その他の製糸工場に送られていました。その金額は宮古港の場合(明治43年)、生糸32,500円に対して繭84,600円と、原料のまま送られる方が多かったようです。

 

 


VOL78  明治の三陸の産業2 「宮古足踏製糸場」 (下閉伊郡宮古町)

2015-04-30 16:58:03 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「宮古足踏製糸場」下閉伊郡宮古町/現宮古市)

 

明治末期の三陸は「座繰足踏式製糸」が主流

「座繰」の製糸は、江戸後期に普及した製糸の方法で、釜で煮た繭から糸を手で繰り出していた「手繰り」に代わり、釜から繰り出した糸を歯車仕掛けの糸巻き枠に掛けてハンドルを回して巻き取る方法です。最初の頃は手で回していましたが、改良を重ねて、明治初期に、足踏みにより車を回転させて糸枠を動かし、両手が自由に使えて作業効率が格段に上がる「足踏み式座繰器」が考案され、器械式は高価なことから、昭和初期まで地方の小規模な工場などで活躍しました。

写真は、宮古町にあった製糸場の風景ですが、小規模とはいえざっと60人を超す女工さんが働いていたようです。場所は残念ながら特定できていません。

因みに当写真帖の付属資料によれば、明治44年当時下閉伊郡には、足踏式座繰の工場は20カ所あり、台数は475台、生産量は1200貫(1貫=3.75㎏)≒4,500㎏とあります。

 

 


VOL77  明治の三陸の産業1 「盛榮社製糸場」 (気仙郡猪川村)

2015-04-10 17:50:29 | 明治の気仙郡(大船渡市・陸前高田市他)

「盛栄社製糸場」(気仙郡猪川村/現大船渡市猪川町)

 

しばらく「明治の三陸名勝」を紹介してきましたが、少し厭いたので一時中断して、今月から写真帖掲載の各種産業(農林漁業及び工業他)を中心に紹介します。

生糸は、明治期の日本において最大の輸出商品で、製糸業は富国強兵策を支える重要な産業の一つでした(と中学校時代に習った記憶があります)。先年富岡製糸場が世界遺産に認定され一躍脚光を浴びています。官営工場であった富岡には明治5年(1872)に既に最新の器械が導入されていましたが、三陸では明治末期になっても大規模な器械製糸の工場は少なかったようです。(本写真帳の付属資料集に、明治末期の三陸地域の製糸業の貴重な統計が多数ありますので後日掲載します)

「女工さんによる器械式製糸」

製糸は、繭を解いて生糸にすることをいいますが、「手繰り」「座繰り」「器械式」と大きく3つの方法があります。写真は、現在の大船渡市猪川地区にあった「盛栄社」という製糸場の光景です。大勢の女工さんが手前においた「煮繭鍋」の中にある繭から出た糸口を一つ一つ手で取り出して撚り合わせ、頭上にある集積器が巻き取っている様子が分かります。私は当初これが「手繰り」と思っていましたが、富岡製糸工場の案内に良く似た器械があり、どうやら外国製の製糸器械を改良した和式木製「器械製糸」のようです。器械といっても現在の自動化されたものではなく、大勢の女工さんの手が必要な代物です。動力は何を使っていたかは分かりません。

本写真帖の統計資料によると明治43年の気仙郡には器械式製糸工場が10以上が5箇所、50人以上が11箇所計16箇所もあったと記録されています。なお10人未満の小規模な座繰製糸の工場は650箇所あり、気仙郡は4郡の中で最も製糸業が盛んであったようです。

当時の製糸工場の担い手は、この工場に限らず若年の女子に拠っていたようです。女工さんによる製糸と云えば小説「野麦峠」に代表される女工哀史が連想されますが、当地の工場には近郷の農家の子女が通ったと思われ、小説ほどの過酷な労働を強いられてはいないと推量しますが…でも羽織を着た監督官らしき女性は厳しそうです。

 

出典 https://kinarino.jp/cat8


VOL76  明治の三陸名勝29 「タグリガ瀧」 (下閉伊郡豊間根村荒川)

2015-03-28 14:55:50 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「タグリガ瀧」(下閉伊郡豊間根村荒川/現山田町荒川)

 

この滝は宮古湾に河口のある鮭で有名な津軽石川から遡ること約10㎞、支流豊間根川のさらに支流荒川に注ぐタグリ沢にあります。私も数度訪ねたことがありますが、林道がすぐ傍まで通じていて誰でも行きやすい処にある落差10m程の滝です。本写真帖には「タグリガ瀧」とカタカナ名の表記となっていますが、今は「多久里滝」の漢字が付されているようです。中には括弧書きで「手繰り滝」の表記がありました。名の由来は定かではありませんが、明治の頃から景勝地として知られていたようです。但し現在は周囲の森林伐採が進み、残念ながら深山幽谷の趣は失われています。

「森は海の恋人」の言葉のように、「森で培われる豊かな滋養分が水を通じて川から海に流れこみ、海の豊かさとなって海の生き物を育てる」(畠山重篤氏)と云われています。森林資源の活用と自然保護の両立は難しいものがあり、年を経れば豊かな森が回復するのでしょうが、皆伐は自然体系の破壊をまねきかねません。

今回も「ゆーし」様の「岩手の滝」掲載の写真を下記に転載します。

 

※上記写真の著作権は「The Great Nature of Iwate」の「ゆーし」様に全て帰属します。

 


VOL75  明治の三陸名勝28 「一の瀧(又一ノ滝)」 (上閉伊郡附馬牛村)

2015-03-25 17:14:14 | 明治の上閉伊郡(現釜石市・遠野市他)

一の瀧(又一ノ滝)」(上閉伊郡附馬牛村/現遠野市附馬牛)

  

この滝は本写真帖に「一の瀧」の名称で記載されています。私はまだこの滝は見たことがなかったのでネットで画像検索をしたら遠野市宮守の寺沢川にある「一ノ滝」が見つかりましたが、どうも形状が異なり別物と思いましたので、前回紹介した「ゆーし」様の「岩手の滝」を拝見したら、下記の「又一ノ滝」の画像を見つけました。水流や岩の形状から、本写真帳の「一の瀧」は遠野市附馬牛地区の薬師岳の麓にある「又一ノ滝」と呼称されている滝と思われます。

この地区には、昔この滝を訪れた諸国行脚の僧が『紀州の那智の滝は日本一といわれるが、この滝は二番目だ』といったら、滝が怒って水を止めてしまい、あわてた僧は『この滝も又、(日本)一の滝だ』と言い直したら水が流れ始めた。それで『又一ノ滝』というのだ」という伝承があります。それから云えば明治の頃もそう呼称されていた筈で写真帖の「一の瀧」は誤記となります。

さて「那智の滝」は落差133mの日本一の名瀑ですが、こちらの「又一ノ滝」は残念ながら遠く及ばない幅5m落差20m程の滝です。しかし林道終点からブナなどが生い茂る道を徒歩で約30分、鬱蒼とした木立の中の巨大な一枚岩を滑るように流れ落ちる滝は十分に見ごたえがあります。

 

※上記写真の著作権は「The Great Nature of Iwate」の「ゆーし」様に全て帰属します。


VOL74  明治の三陸名勝27 「大瀧」 (下閉伊郡岩泉町)

2015-03-21 18:11:39 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「大瀧 (下閉伊郡小川村字門/現岩泉町小川字門)

  

「大瀧」の名を冠する滝は岩泉町内に数カ所あり、当初は前回紹介した岩泉町大川地区の「七瀧」の約1㎞下流にある滝とばかり思っていたのですが、写真帖をよく見ると(小川村字門)とありましたので、小本川の本流を約40㎞遡り、小川中学校手前の石畑地区にある岩泉町の三十景の一つ「門の大滝」と思われます。

 大滝と云いながらも落差は5m足らずの滝ですが、淵は広く深く、現在はこの写真とは周囲の様相が異なり、滝の周囲を緑豊かな木々が覆い、小さいながらも春夏秋冬の季節を問わずとても風情があります。 (残念ながら写真からは今の景観が伝わりませんので、岩手の滝めぐりと云うブログの写真を下記にご紹介します)

 伝承では、乙女が毎朝この滝の淵の水面を鏡代わりに髪をとかし化粧をしたと謂われ、「化粧滝」も別名もあります。

 

※上記写真の著作権は「The Great Nature of Iwate」の「ゆーし」様に全て帰属します。


VOL73  明治の三陸名勝26 「七瀧」 (下閉伊郡岩泉町)

2015-03-18 18:13:28 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

(石館銅山より望む)七瀧」下閉伊郡大川村/現岩泉町大川)

 

「七瀧」は、Vol69に紹介した龍甲岩のある小本川河口を遡ること約40km奥の北上山地北部の中央に位置する岩泉町大川地区にあります。深山幽谷とまでは云いませんが、豊かな自然に囲まれた清らかな渓流が、約100mの川筋の間に大小七段の滝となって流れ落ちています。(残念ながら写真からは景観がよく伝わりませんので、東北観光スポットめぐり をご覧ください)

 大川は、秋の紅葉や冬の雪景色も大変素晴らしいものがありますが、私は新緑の時季をお薦めします。若葉の間にピンクの山桜や赤いツツジやが水面に映えます。また大川は、渓流釣りの名所で、シーズンともなるとたくさんの釣り人が竿を並べています。さらに最近ではカヌーで急流下りを楽しむ好ポイントともなっているようです。

 さて題の「石館銅山」とは、どのような鉱山であったのか?残念ながら調べが及びませんでした。写真の撮影場所は、下流の北側の山腹からと思えるのですが、国土地理院の地図にはそれらしき鉱山跡の記載もなく、ネット検索でも該当する鉱山名を見つけることはできませんでした。隣りの岩泉町小川地区には本銅という地名が残り本銅鉱山という名の鉱山があったことや、宮古市の田老地区には田老鉱山と云う大きな銅山が40年程前まで稼働していたので、この地区で銅の産出があっても不思議ではないので記載は確かと思えますが…。


VOL72  明治の三陸名勝25 「湧窟(龍泉洞)」 (下閉伊郡岩泉町)

2015-03-11 15:57:15 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「湧窟(龍泉洞)」下閉伊郡岩泉町)

 

 水が湧き出る岩窟なので「湧窟」とはこれまた直截的なネーミングです。写真が撮影された当時はそのように呼称されていました。実は私の岩泉の義父(大正生まれ)も以前はそのように呼んでいたそうです。また昭和13年(1938年)に国の天然記念物に指定されていますが、登録名は「岩泉湧窟及びコウモリ」のままなそうです。勿論現在は「龍泉洞」の名で広く知れ渡っていますが、はたしてこの名称はいつどのような経緯で付けられたのでしょうか?(ネット検索しましたが分かりませんでした)

 さて「龍泉洞」は、山口県の秋芳洞と高知県の龍河洞とともに「日本三大鍾乳洞」の一つに数えられており、現在まで確認された距離は3631mで、中に世界一と云われる透明度41.5mの水深98mの第3地底湖や、水深120mの第4地底湖を始めとして7つの地底湖があるとても大きな洞窟です。

 北上山地の広大な森に降った雨や雪は、地下の石灰岩層を通り、この地底湖に湧き出します。この天然ミネラルを多く含んだ水は、昭和60年(1985年)に日本の名水百選に選定され、岩泉町産業開発公社が製造する「龍泉洞の水」は私の愛飲のミネラルウォーです。

「酸素一番宣言」と「水と緑のシンフォニー」

 岩泉町は、約993㎢と町では本州一の広大な面積を誇り、殆どが緑豊かな森林に覆われています。そして森林が産み出す酸素は、年間約107万トンと約400万人分の酸素呼吸量があると云われて、平成4年に「酸素一番の町」を宣言しています(その後平成の大合併で岐阜県高山市が岩泉の2倍以上、同じく宮古市も20%以上の面積を有することになったので、もしかすると現在は2.3番目かもしれませんが・・・ 年々過疎化が進み、人口は昭和45年(1970年)の約2.2万人から、現在約9,700人と激減しています。人と金は大都市に集中してどんどん二酸化炭素を排出し、片や岩泉や宮古は広大な林野から酸素を生み出しながら、地域から人が流出して衰退する一方です。少しは酸素排出交付金などの恩恵があっても良いのでは…)


VOL71  明治の三陸名勝24 「普代海岸1.2」 (下閉伊郡普代村)

2015-03-03 18:04:42 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「普代海岸1.2」下閉伊郡普代村)

   

 上の写真は、普代村の北部にある堀内海岸の岬です。この周辺には北山崎をはじめ北部陸中海岸の男性的景観が続いていますが、この岬の先端にある「沖松磯島・丘松磯島」も海岸美が堪能できる穴場の一つです。本写真撮影当時は、名前も付けられていませんでしたが、現在は二つ合わせて「夫婦岩」の名がも付けられ、長さ424メートルのしめ縄で繋がれています。

 下の写真は普代浜と南端の岩礁です。今回の東日本大震災でこの岩礁も大津波を丸ごと被ったと思いますが、岩の松は今でも緑の枝を茂らせています。

大津波被害を最小限に食い止めた。

さて普代村は、東日本大震災により15mを超える巨大津波に襲われたものの、死者は無く(船の様子を見るため防潮堤の外に出た行方不明者1名)、被災民家もありませんでした。これは、この浜に流れ込む普代川の上流300mに設置された「普代水門」と、南隣の太田名部地区の「太田名部防潮堤」が津波を防せいだ故です。三陸沿岸各地の殆どの防潮施設が破壊された中で、津波から街と人を守った数少ない事例です。「現代の万里の長城」と云われた宮古市田老の高さ10mの長大な防潮堤でさえ、今回の津波にはひとたまりもなかったのに、先人の遺訓に従い、明治の津波は高さ15mあったので、それより高い15.5mの水門と堤防を造った当時の村長の英断により、普代は守られました。

 但し、普代村を襲った津波は田老地区より若干弱く、もしより高くより長時間に亘って強い圧力を加えられていたら、耐えきれずに決壊した可能性もありました。三陸沿岸各地で復興工事が進められていますが、海岸線をコンクリートで全て覆つくすのは良策ではありません。因みに普代村の水門は幅205m、堤防は155mと決して長くありません。河口及び海岸部は狭く、住家は広い後背地にあったので、地形的にピンポイント防災が可能な優位性がありました。ただそれがあったとしても、先人の遺訓を守り、海岸部に住家を造らず、襲った波高より高い堤防を造ったおかけで被害を免れたことは間違いありません。

 

 


VOL70  明治の三陸名勝23 「茂市(師)附近の眺望」 (下閉伊郡小本村)

2015-02-13 18:00:50 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「茂市()附近の眺望」 (現下閉伊郡岩泉町小本)

 元の明治の写真帖のタイトルは「茂市附近の眺望」とありますが、音は同じでも、「市」ではなく、「師」の誤植と思います。(モシと読みます)

 さて茂師海岸と云えば、先のVOL67で紹介した「宮古層」と呼ばれる前期白亜紀(約1億1千万年前)の地層から日本で最初の恐竜化石が発見されたことで知られています。昭和53年(1978)の夏、旧国道45号線の道路脇の崖(宮古層群の礫岩)に露出していた脊椎動物の化石が見つかりました。その後のこの化石は、史上最大の陸生脊椎動物といわれる全長20mを超す竜脚類という大型草食恐竜の上腕骨(前足)の一部であることが判明し、発見地に因み「モリリュウ」と名付けられました。但し、化石は状態が悪く詳細な分類ができないことから正式な学名は付けられていません。

 なお宮古層から発見される化石はアンモナイトなどの海中に棲む動物が主で、陸生の恐竜が同じ地層から発見されることは不思議に思いますが、当時の陸地から海に運ばれ海中動物と一緒に堆積したものと考えられています。すると現在は山ばかりの同地域に、モシリュウが生息していた当時は、恐竜が生息できるような広々とした草原があったのでしょうか… 夢が広がります。

 それまで中生代の日本列島は、大部分が海の底にあったので、恐竜は生息していなかったと考えられていましたので、定説を覆す大発見でした。その後恐竜の化石は日本各地で発見され、中生代(ジュラ紀後期~白亜紀後期)、数多くの恐竜が生活していたことが明らかになりました。

※いわいずみブログ「わが国で初めて発見された白亜紀の巨大恐竜

 さて本ブログには、宮沢賢治が度々登場しますが(Vol18.67.68)、この大発見の34年前に発表された「楢ノ木大学士の野宿」では、主人公が岩手県の海岸で白亜紀の爬虫類の骨格化石を探すうちに、大きな恐竜に出会う夢を見ています。賢治は当時から三陸に恐竜化石が眠っていると考えていたのかもしれません。

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL69  明治の三陸名勝22 「龍甲巖(岩)島」 (下閉伊郡田野畑村小本村)

2015-02-09 16:09:57 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「龍甲巖(岩)島」 (下閉伊郡岩泉町小本)

 

 龍甲巖(岩)は、岩泉町尾本地区の小本川の河口にある、三角形の巨岩です。この珍しい名前の由来には、アイヌ語のタッコ(小高い丘)に、龍神の甲(かぶと)に似ているのをダブらせて龍甲(たっこう)を当てたという説があるそうです。三陸沿岸にはこの他にもアイヌ語に由来すると云われる地名が各地にあります。

 さて写真帖撮影の当時から、景勝の地として知られていたようですが、現在の龍甲岩は頂きに松が大きく育ち、更に趣きが増して小本川河口のシンボル的存在となっています。但し撮影当時と違い、前回の島越松島同様に、陸から島まで防波堤を伸ばして、河川港を造成したので今では陸続きとなっています。この一帯も東日本大震災の大津波で防潮堤が壊れるなど甚大な被害を蒙り、現在復興工事が盛んに行われています。

龍甲岩でネット検索していたら、「水彩画fromいわて」というブログでこの龍甲岩を描いた水彩画を見つけ、作者工藤哲郎様からご了解を頂きましたので下記に掲載します。

 

 また本ブログの明治の学校シリーズ「VOL41小川尋常高等小学校」に、工藤様のモミジの水彩画もアップしました。

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL68  明治の三陸名勝21 「島の越松島」 (下閉伊郡田野畑村)

2015-02-06 12:59:06 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「島の越松島」 (下閉伊郡田野畑村)

 松島と云えば日本三景の一つ宮城県の松島が有名ですが、松が生えている島だからと名付けられた同じ名を持つ島は全国各地に100を超す数があると思います。この写真は前回紹介した島越海岸近くにある小島です。明治の頃よりちゃんとした名が付けられ写真帖に掲載れているので当時から北三陸を代表する景勝の地として知られていたのでしょう。但し、現在の景観は本写真撮影の頃とは大分異なっています。頂きに松が生えている姿は変わりませんが、港の整備に伴い、島を利用して左右に防波堤が作られ、また海面が埋め立てられ島とは陸続きになってしまいました。

 しかし今回の東日本大震災の大津波は、その防波堤も楽々と乗り越えて島越の集落の殆どをなぎ倒してしまいました。田野畑村には、NHKの朝ドラ「あまちゃん」で一躍有名になった「三陸鉄道北りあす線」が走っており、島越地区には瀟洒な洋風の「島越駅」がありましたが、大津波は土台の一部を残して、駅舎・ホーム・線路等の全てを押し流してしまいました(先の「あまちゃん」で線路が津波に流されたシーンはこの駅付近で撮影されています)。その後三陸鉄道は、国や全国の皆様方からの支援を受けて、会社と地域が一体となって復旧活動を進め、震災から3年半後に新駅舎が完成しました。

 なお震災前の瀟洒な島越駅舎には「カルボナード」の愛称が付けられていました。これは前回紹介した宮沢賢治に因んでおり、童話「グスコーブドリの伝記」の舞台が由来となっています。隣りの田野畑駅の愛称「カンパネルラ」は童話「銀河鉄道の夜」の登場人物に由来しています。またこの駅舎前に設置されていた賢治の詩碑は、奇跡的に流されずに残りました

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL67  明治の三陸名勝20 「海岸(島越)」 (下閉伊郡田野畑村)

2015-02-04 12:08:50 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

海岸(島越)下閉伊郡田野畑村)

 

 これもまたザックリしたタイトルですが、当時は土地の人にとっては景観/観光という概念は無く、その種の価値を持ちない名もない海岸であったので仕方がないのかもしれません。

 近年この「海岸」一帯は、その自然景観が高く評価されて、大震災後は三陸復興国立公園、その前は陸中海岸国立公園に指定され、多くの観光客が訪れています。また最近は景観のみならず、地質学・地理学といった地球科学的な視点から注目を集めています。それが「ジオパーク」です。三陸沿岸には地球の歴史に実際に触れることができる場所(ジオサイト)に恵まれており、平成25年9月に「日本ジオパーク」に認定されました。 ※三陸ジオパークオフシャルサイト

 さてこの写真にもジオパークの代表的なものが写り込んでいます。写真左上から斜めに海に入り込んでいる縞模様の層理が「宮古層」と呼ばれる前期白亜紀(約1億1千万年前)の地層がそれです。この地層は田野畑村から宮古市にかけての太平洋沿岸にかけて広く分布し、アンモナイトから恐竜まで豊富な種類と量の化石が産出していることで知られています。

 写真は現在の島越港から付近から北に向かって撮られたものと思われます。三陸海岸有数の景勝地北山崎はここから北に約10㎞、200mの断崖が続く鵜巣断崖は南に約5㎞の地点にあります

 此の地には、あの宮沢賢治も訪ねています。詩集「春と修羅」には、大正14年(1925)に近くの羅賀港から宮古に三陸汽船(前掲VOL18「明治の鍬ケ崎湊其の2」参照)に乗船して宮古に向った折に詠んだとされる詩「発動機船1.2.3」があり、3基の詩碑が建てられていました。地質学に造詣の深かった賢治は、既にこの地層の存在を知っていたのでしょうか? なお賢治は、この写真帖発刊の契機となった明治三陸大津波があった明治29年(1896)に生まれ、昭和三陸大津波の年(昭和8年/1933)にその短い生涯を閉じています。そして今回の東日本大震災の大津波で詩碑3基の内1基が流出してしまいました。

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


VOL66  明治の三陸名勝19 「(高田)松原」 (気仙郡高田町)

2015-02-02 17:43:27 | 明治の気仙郡(大船渡市・陸前高田市他)

「松原」 (気仙郡高田町/現陸前高田市)

 

 前掲の浄土ヶ浜の写真もがっかりでしたが、それ以上にはこの写真はガッカリしました。

 残念ながらこの写真からは、大震災前には長さ2キロその数7万本を超すと云われた白砂青松の姿が浮かんできません。また写真のタイトルですが、単に「松原」とのみあります。確かに当時は地元の人は単に松原とのみ呼称していたのでしょうが、高田町以外の人は、三保にあるから「三保の松原」の如く、高田にある松原として「高田の松原」なとど呼称し、既に景勝の地として広く知られていました。

 さてこの松原は、最初江戸時代の寛文7年(1667年)に土地の豪商菅野杢之助によって植栽され、その後、松坂新右衛門といった地域の住人や仙台藩などによる増林が続けられ、防風・防潮の役目を果たすとともに、岩手県を代表する景勝の一つとなりました。しかしこの写真撮影から約100年後の平成23年(2011年)3月11日、あの東日本大震災の10mを超す大津波に、ほぼ全ての松が呑み込まれて松原は壊滅しました。その中で奇跡的に残った松は、「奇跡の一本松」として復興のシンボルとなっていましたが、それも地盤沈下により海水が浸み込み翌年ついに枯れてしまいました。

 現在陸前高田の町では、先人の遺志を引き継いで100年かけて松原を取り戻す活動を始めているとお聞きします。長い年月と幾多の困難が伴うと存じますが、松原が再生され次の世代に引き継がれることを心より祈念します。

余りにも味気ない写真なので、東日本大震災前の「高田松原」の白砂青松の見事な景観と、震災後の「奇跡の一本松」カラー写真を添えます。但しこの2葉は私が撮影したものではなく、高田松原の再生活動をしている「復興アクション 森のチカラで、日本を元気に」のHPより転載しました。

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?