「刈屋製糸場」(下閉伊郡刈屋村/現宮古市刈屋)
製糸は明治の三陸の中山間地に新たな産業を興した
現在の宮古市刈屋地区にあった製糸場です。大きな建物が四棟見えますが、全ての建物が製糸工場ではなく、正面の二階建ての大きな建物や手前の二棟は、換気用の小屋根が見えるので蚕を育てる蚕室と思われます。もしかすると1階が製糸工場かもしれませんし、蚕の餌なる桑の葉の貯蔵庫もあったと考えられます。
刈屋地区は四方を山に囲まれて平地が少なく寒冷な気候で稲作には余り適しておらず、江戸時代や明治に入っても冷害による飢饉に何度も襲われた山里でした。これは刈屋村に限らず下閉伊・上閉伊・気仙・九戸の三陸地方の全てに通じることです。しかし製糸業は、生糸を繰り出す工場だけでなく、その原材料の繭を産み出す蚕の飼育すなわち養蚕しかり、さらに蚕を飼うための桑の葉の栽培と、裾野は広いものがあります。当時の農家にとって養蚕は貴重な現金収入源であり、製糸工場は農家の子女の大切な雇用の場でした。
三陸の養蚕及び製糸の歴史はさほど古くなく、明治の後半から急激に発展します。稲を育てられなかった荒れ地が桑畑となり、有力な農家は繭を作る蚕室付の居宅を建て始め、座繰式の中小の製糸工場が山あいの土地にも建てられ、近隣の子女が勤め工場に通い現金収入を得ました。工場で仕上げられた生糸は、三陸の港から横浜に向けて出荷され、さらに海外へ渡りました。製糸は、外貨獲得産業として日本の近代化を支えましたが、三陸の地では中山間地に新たな産業を興し、近代の経済サイクルが稼働する端緒となりました。