思考の踏み込み

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ブッダ23

2014-05-27 00:55:08 | 
古代中国世界は "聖" と "俗" という言葉を造り分業させた。



生きるということはなかなか簡単ではない。綺麗事ばかりいっていられない。俗に染まり、自らの手を汚してようやく "生" を維持しなければならないことなどいくらでもある。

そこで聖と俗をわけ、聖を目指す者はそれに専念させる。俗にあるものは時に経済面から彼らを支援する。

聖に専念したら、生活力など霞を食って生きられる仙人でもなければ、極めて脆い。

こうしたシステムは世界各地で行われた。インド世界の思想階級を尊敬する風潮などはそのいい例だろう。

それは芸術家とパトロンの関係と似ている。

この観点からいくと聖と俗はきわめて対等な関係にあることがわかる。

ところがそれがいつのころからか、聖が俗を卑しみはじめた。
近世までの儒教世界などは肉体労働をする者は知識階級から蔑まれたほどだ。



いつしか聖などは、高みから俗を見下ろして一人悦にひたる存在として俗と隔絶し、聖を志向する者を「聖人面するな」などと揶揄し、聖に向かうことすら困難な状況が出来上がる。

ここで "ブッダ" というタイトルで書いてきたところで多くの者は、自分には関係のないことだと感じているだろう。

聖と俗のシステムはインド世界を除いてこんにち完全に破綻している。
だが、人間の魂は本来 "聖" を求めている。それは止むことがない。

ではどうしたらよいだろうか ー 。



ブッダ22

2014-05-26 00:26:57 | 
しかしそんなに大袈裟に考えることもない。

大事なことはいかに有意義に人生を送るかということだろう。



そのための指針としてもD先生の研究は有効である。

例えば子供になぜ人を殺してはいけないの?と尋ねられたら、なんとこたえるだろうか。

いろいろな理屈や倫理観を説いたところで子供の腑に落ちることはない。
(この腑に落ちる、という慣用語も身体感覚の優れた表現であることにお気づきだろうかー 。)


そうではなくて、正しい身体感覚を持っていれば、人間は人間を殺せる様にできてなどいない、ということに気づかせるだけでいい。
誰も不快な事は普通したくはないからだ。

だからまず子供の教育で一番初めに教えなければならない事は、正しい快と不快なのであるという。
倫理や道徳などは "正しい快" に従えば、自然とついてくるものだから。

従って必要に迫られない限り、人間どころか、食の対象となる動物のすら自ら行うことができる者は少ない。




なのになぜ殺人がおこるのかなどは説明するまでもないが、そこまで追い詰められた者の苦しみを想像できる者なら、人間の本来無垢な姿を知っている者ならば、殺人を犯してしまうほどに闇に追いやられた者の悲しみが見えてくるだろう。

だが中には、ごく普通の者が思想や狂信的なオカルト宗教によって人を殺めてしまうこともある。

その理由をD先生はこう語る。

ー 身体感覚を伴わない思考は "邪悪性" を生む。

おわかりだろうか。

引きこもりの男がある日突然通り魔になる。
部屋で頭ばかり働かせ、気血は上がり身体を使わない。想像しなくともまともな精神を保ち難いことはよくわかる。
その先に邪悪性が芽生えてくるのも必然だろう。

(邪悪性までゆかずとも、例えば本だけの知識や経験の無い内容についてどれだけ素晴らしい事を他者に語っても、ほとんど影響力を持たないという理由も身体感覚という一点から理解することができる。)



この意味で今日の機械文明の利便性に過ぎる傾向は危険である。ボタン一つで事足りるというのは、身体を置き去りにしているからだ。本当に進んだ文明ならばそろそろここに着目していかなければならない。


こうした感覚の狂いを修正する方法としD先生は "禁糖" が有効だと説く。

調味料も含めてあらゆる糖分を断つのである。(味醂は可だそうだ。)
それを数週間続けると正しい感覚が身に付くというが、これはかなり辛いらしい。

それはともかく、いかに正しく生きるか、そもそも何が正しいのか。
それは生き生きと生命を輝かす方向へ向いているか ー 。
そうした基準や手段までD先生の世界観には内包されている。



ブッダ21

2014-05-25 05:05:38 | 
さらにD先生の身体技法を追求していけば、例えば母音を発したとき身体の何処に響くのか、子音ではどうか。
開口音、合口音、半開口音の作用の違いはどうなるか ー 。



こうした研究から言霊学の研究も可能になってくるとおもわれる。

栄養学も身体感覚と結びつければもっと有効な学問になり得るし、閨房術さえ、身体感覚によって研究すれば人生を豊かにし、家庭を円満にする内容を本来持った重要なものであることが見えてくる。
(インドにおけるカーマスートラの研究、チベット仏教における歓喜仏の信仰などはその源泉でもあるが、ブッダの境地からは逸れたものでもある。)


そして15で途中になったままだった、なぜ誰一人二足歩行をやめなかったのか、という問題の答えもおそらくそこにある。

人間が二足歩行によって得たものは、大脳の発達などよりも、おそらく二足歩行による身体の変化にあるのではないだろうか。
(大脳新皮質の発達などはオマケみたいなものだと思う。また厳密には鳥も二足歩行しているから、人間のそれは垂直で中心の出た "立姿" と言うべきだろう。垂直であることは単純に重力もしくは引力の支配ももっとも受けにくい。)



そして四つ足に戻ることが人間性の喪失をもたらすことから逆算すれば、立姿が人間性の獲得だったことは容易に想像できる。

立姿によって得た感覚は高次元の霊的統合を促し、知性を生み、構造的であることから抜け出すことで自我が芽生え、自由という概念も生じた。
(構造的であるということは、ある意味被支配的であるともいえるから。)

その代償として、非構造としての苦を背負ったが、自我の芽生えはそんなことよりもはるかに素晴らしいことであったのだろう。
だから誰一人として、再び地を這う生活には戻らなかったのだ。

こうして考えれば、我々はまだ道半ばであることが分かる。
立姿を獲得した代償への解決をまだ果たしていない。



すでにはるか昔にブッダがその解決例を提示してくれていたにもかかわらず、その手段が誰にもわからなかった。

それがようやく解き明かされはじめている。
限られた天才達だけに独占されるものではなく、誰もが道を求めれば到達できる可能性が開示されはじめた。

D先生の行っている作業はそれほどに価値があると私は思う。
大袈裟でなく、この研究が広まれば人類全体のレベルは一段階上がるだろう。

ブッダ20

2014-05-24 00:26:50 | 
車の免許を取るとき、一応その構造も学ぶ。



しかし医者でもない限り人体の構造など頭に入っている者はいない。
なおかつ医者の知識などは、死者の解剖による物質的知識に過ぎず、生きた人間のものではない。

生きている身体には感情がくっついているし、意志もあるし、悩みも現れている。

生きた人間の身体論を構築し、認識していくというD先生の身体論はこの意味できわめて革新的といえる。



せっかくだから、その一例をもう少し挙げてみよう。

たとえばD先生のいう機能類似性と骨格類似性。

肘が強張ってなかなか緩まない者は、まず膝を緩める。
そうすると、肘が緩む。
これが機能類似性。

或いは、骨盤と後頭骨の骨格類似性。
骨盤を変えるには後頭骨から働きかける方が上手くいくというケースに用いられる。

または指の働き。
小指の線というものは、肘の内側を通って肩を通過し背中から腰と繋がっているが、ここが分断していると手首が締まらない。
手首が決まっていないと、腰が定まらない。

さらに薬指は特殊だとD先生はいう。
薬指に集注すると無駄な力や思考が抜けるという。やってみれば感覚の良い者ならすぐわかる。

こうした指の研究から、密教世界における "印相" の意味が見えてくるだろう。



手は脳の延長だという。
古代インド世界がこの印相をかなり発展させたことに我々はもっと注目すべきだろう。
それは手話の様に何らかの意味を表す形などではなくて、どちらかといえばヨガの多様なポーズの様に、身体に変化をもたらす形であるというのが本来の内容としては近いはずである。

ブッダ19

2014-05-23 00:29:58 | 
私は "天才" と呼ばれる人々をさほどに評価しない。

なぜなら、彼らはあくまでも天分に恵まれた者であって、自己の内容を分析し表現できるものがほとんどいないからだ。(彼らの成し遂げた内容そのものへの評価は別である。)



天才達は人間の可能性の無限であることを我々に提示してみせるという点で、人間社会に対して功績を果たしはするが、その一方で天分に恵まれない圧倒的大多数の者たちの意識から可能性を奪う罪も犯している、といったらいい過ぎだろうか?

人間の身体はもっと開発できるはずである。
例え五体不満足だろうと、寝たきりの体だろうと、"生きている" といういのちの力は計り知れない。

片腕の大リーガー ピート・グレイ。


呼吸を深くし、身体の微細な変化を追求してゆけばどんな状況であれ統一感に向かえるはずである。

まして健康な者がどうして、自らの可能性を狭めてしまう必要があろうか。

D先生の研究はこの問題を解決することのできる、現状では唯一のモノだと思う。

それ故にD先生の下に集う人の中には、オリンピックメダリストもいれば、古武道の研究家もいるし、著名な心理学者もいる。
だが、ほとんどの人は一般のごく普通の人達である。

D先生から何かを掴み、それぞれの人生に活かそうとする人達である。

何も悟りを開こうとか、天才になろうとかする必要などない。
"佳く" ー (この言葉をD先生は好む。よく、と読む。) 佳く生きるには身体をもっと上手に使ってあげることが、絶対条件となることは説明する必要もないことだろう。



車でさえ ー 免許を取らねば乗れないことを考えれば、我々は車などよりはるかに複雑な構造をしているこの、人体というモノを随分と雑に扱ってきたことにそろそろ気付く必要がある。