古代中国世界は "聖" と "俗" という言葉を造り分業させた。
生きるということはなかなか簡単ではない。綺麗事ばかりいっていられない。俗に染まり、自らの手を汚してようやく "生" を維持しなければならないことなどいくらでもある。
そこで聖と俗をわけ、聖を目指す者はそれに専念させる。俗にあるものは時に経済面から彼らを支援する。
聖に専念したら、生活力など霞を食って生きられる仙人でもなければ、極めて脆い。
こうしたシステムは世界各地で行われた。インド世界の思想階級を尊敬する風潮などはそのいい例だろう。
それは芸術家とパトロンの関係と似ている。
この観点からいくと聖と俗はきわめて対等な関係にあることがわかる。
ところがそれがいつのころからか、聖が俗を卑しみはじめた。
近世までの儒教世界などは肉体労働をする者は知識階級から蔑まれたほどだ。
いつしか聖などは、高みから俗を見下ろして一人悦にひたる存在として俗と隔絶し、聖を志向する者を「聖人面するな」などと揶揄し、聖に向かうことすら困難な状況が出来上がる。
ここで "ブッダ" というタイトルで書いてきたところで多くの者は、自分には関係のないことだと感じているだろう。
聖と俗のシステムはインド世界を除いてこんにち完全に破綻している。
だが、人間の魂は本来 "聖" を求めている。それは止むことがない。
ではどうしたらよいだろうか ー 。
生きるということはなかなか簡単ではない。綺麗事ばかりいっていられない。俗に染まり、自らの手を汚してようやく "生" を維持しなければならないことなどいくらでもある。
そこで聖と俗をわけ、聖を目指す者はそれに専念させる。俗にあるものは時に経済面から彼らを支援する。
聖に専念したら、生活力など霞を食って生きられる仙人でもなければ、極めて脆い。
こうしたシステムは世界各地で行われた。インド世界の思想階級を尊敬する風潮などはそのいい例だろう。
それは芸術家とパトロンの関係と似ている。
この観点からいくと聖と俗はきわめて対等な関係にあることがわかる。
ところがそれがいつのころからか、聖が俗を卑しみはじめた。
近世までの儒教世界などは肉体労働をする者は知識階級から蔑まれたほどだ。
いつしか聖などは、高みから俗を見下ろして一人悦にひたる存在として俗と隔絶し、聖を志向する者を「聖人面するな」などと揶揄し、聖に向かうことすら困難な状況が出来上がる。
ここで "ブッダ" というタイトルで書いてきたところで多くの者は、自分には関係のないことだと感じているだろう。
聖と俗のシステムはインド世界を除いてこんにち完全に破綻している。
だが、人間の魂は本来 "聖" を求めている。それは止むことがない。
ではどうしたらよいだろうか ー 。