思考の踏み込み

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ブッダ14

2014-05-19 01:08:25 | 
ブッダは明言している。

「一切皆苦」。





ー この世は "苦" であるという。

ブッダが一番初めに人々に説いた初転法輪という話は "苦諦" ー 苦という真実について説くことから始まっている。

インド世界について前半で触れたが、インドの気候風土について記すことを忘れていた。

インド世界がなぜ深淵な思想世界であることを持続できているのか、という謎の根底に迫ると、単純にこの気候に辿り着くのかもしれない。

最高で50度という気温にも達することがあるというほどに過酷な暑さ。

極端な乾期と雨季。

人が棲息するにはどうにも厳しい環境と言わざるを得ない。
そこで暮らすにはヨガの様な、呼吸法を主とした身体技法によって身体を鍛える以外に無かったのではないか?

その意味でヨガはインド世界ではごく自然発生しただろうと考えられるし、様々な思想、宗教はその過程で附随してきたモノだとみる方が本当かもしれない。

呼吸法による瞑想は、当然人を思索へと深く向かわせるから、インド世界がその方面で突出したのもこう考えればごく必然的なことにも思える。

ただここでインド世界のこうした特殊性の考察に戻るつもりはない。

ここで触れたいのは、インドの風土の過酷さを、どこまで想像できるかということである。

旅行で素通りした程度ではその実態はわかるまい。何事もそこで暮らしてみてはじめてわかることが多い。

ましてブッダの時代は、現代よりさらに衛生状態、医療環境、文化度、食糧生産率、、とあらゆる面で劣悪だったことは簡単に想像できる。

それはやはり ー 人生は苦である、と容認するところからスタートしなければならない程であっただろうことは想像にかたくない。



だが、人間の根本的な "苦" とはそんな環境的な問題だろうか?

温帯で穏やかな気候の、先進国としてモノに溢れた生活をしているはずの現代日本人には "苦" はないなどと誰がいったいいえるのか。

もちろん苛烈なインドの環境よりは恵まれている部分は多いであろう。
だがブッダの説く "苦" とはそんなものではない。

もっと本質的で根源的な問題であると思う ー 。



ブッダ13

2014-05-19 01:07:23 | 
ー ならばお前も何も書かなければいいではないか。
中途半端な情報の出し惜しみなどするな、という批判は甘んじて受けよう。

その理由はすでに10で述べた。
だが、それも言い訳かもしれない。
D先生の事について書きたい衝動を抑えきれなかったというのが本当のところである。

だがこうしたことは繰り返されてきた事でもある。

ブッダも文字に何も残しはしなかった。それは本当の真理は口から伝えなければ伝わらないということを識っていたからだ。
(拈華微笑の逸話はそうした底流から生まれたのだろう ー 。)



言葉と文字は同じ内容でも、必ずしも同じ働きをしない。賢い者はそのことを識っていて昔から日本でもあらゆる技芸において最高の奥義は不立文字、口伝で行われた。

神道における "言挙げせず" という教理などはその極地であり、深い叡智の顕れといえる。

孔子もこの点で同じことが解っていた。だから「論語」は "子曰く~" (孔子先生はこう語られた…) で始まる。

仏典における "如是我聞" も同じである。
「私はかくの如く聞いた…」から始まるブッダの言葉の記憶の収集、それが初期仏典の姿であった。

それはそう語った人々が、意図して文字に残さなかった証だろう。
マニ教の開祖マニは、シャカが著作を残さなかったから、正しい教えが残らず仏教はインドで衰退した、と批評したようだが、いずれが賢明だったかは歴史が証明している。

マニ。

仏教はインドではともかく世界中に広まっている。が、マニ教はこんにちほぼ消え去っている。

D先生の態度もこの系譜と同じであろう。
であるならば我々の様な普通人が、Dの曰く…と少しくらい書くことは許されてもいいのではないかと、勝手に思っているが、できる限りその態度に沿う様にありたいとも思う。

今回はその範囲内で許す限りを書いて見たいが、以上の理由で "D先生" で通させて貰う。
それに、本当に求める人はここでなくとも、D先生に辿り着くことはできるだろうと思うからでもある。