思考の踏み込み

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ブッダ19

2014-05-23 00:29:58 | 
私は "天才" と呼ばれる人々をさほどに評価しない。

なぜなら、彼らはあくまでも天分に恵まれた者であって、自己の内容を分析し表現できるものがほとんどいないからだ。(彼らの成し遂げた内容そのものへの評価は別である。)



天才達は人間の可能性の無限であることを我々に提示してみせるという点で、人間社会に対して功績を果たしはするが、その一方で天分に恵まれない圧倒的大多数の者たちの意識から可能性を奪う罪も犯している、といったらいい過ぎだろうか?

人間の身体はもっと開発できるはずである。
例え五体不満足だろうと、寝たきりの体だろうと、"生きている" といういのちの力は計り知れない。

片腕の大リーガー ピート・グレイ。


呼吸を深くし、身体の微細な変化を追求してゆけばどんな状況であれ統一感に向かえるはずである。

まして健康な者がどうして、自らの可能性を狭めてしまう必要があろうか。

D先生の研究はこの問題を解決することのできる、現状では唯一のモノだと思う。

それ故にD先生の下に集う人の中には、オリンピックメダリストもいれば、古武道の研究家もいるし、著名な心理学者もいる。
だが、ほとんどの人は一般のごく普通の人達である。

D先生から何かを掴み、それぞれの人生に活かそうとする人達である。

何も悟りを開こうとか、天才になろうとかする必要などない。
"佳く" ー (この言葉をD先生は好む。よく、と読む。) 佳く生きるには身体をもっと上手に使ってあげることが、絶対条件となることは説明する必要もないことだろう。



車でさえ ー 免許を取らねば乗れないことを考えれば、我々は車などよりはるかに複雑な構造をしているこの、人体というモノを随分と雑に扱ってきたことにそろそろ気付く必要がある。


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