思考の踏み込み

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

ブッダ24

2014-05-28 00:13:54 | 
そこでD先生の研究が生きてくる。

D先生は、日本という国は達人、名人のたくさん生まれる国だった ー という。

なぜかはわからないが、日本の文化伝統におけるあらゆる技芸は高度な身体技法によっているからである。



D先生の研究の中心もここにある。

そしてD先生の研究は達人名人の内容を分析し、そこに至る道筋を凡人達にも照らしてみせる。

"悟り" を目指す必要などない。
ことさらに何かの分野で名を成す必要もない。

"生きる名人" を目指せばそれでよい。

そのためには立つ、歩く、座る、こうした日常の動作を研究し追求するだけでも広大な "道" が用意されている。

そしてそれは身体の統合へと繋がっているから、さらに奥に進みたい者にはブッダのいる場所へも進める可能性まで秘めている。

"聖人君子" という概念はすでにこんにち効力を失っている。
だがD先生の提示した "名人達人" というモデルケースは現代人にとって無理のない生きる指針とはなりえないだろうか?



それは日本人でなければ参入できないものとは限らない普遍性を持っている。

お茶をやるのもいいだろう、武道でもいいし、書でもいい。日常の包丁捌きでも十分だし、子供の抱き方一つでも追求すれば難しいものだ。

条件となるのは全身を使う動作である、ということ。
といっても飛んだり跳ねたりする事ではない。全身を一つにまとめて使う身体技術を追求できる要素を内包した動作が必要だというのである。
内的な動きが可能になれば、外的には静止している正座においてさえ、身体は鍛錬できる。

モノを持つ、運ぶ。それだけでも身体感覚の追求はできる。


ヨガや座禅などがただ座って瞑想を深めるだけのモノだと勘違いしている内はブッダはますます遠く、霞がかって捉え難い ー 。

(ちなみにパソコンの達人というのはよほどでないとなかなか成立しえないだろう。目と頭と腕に負荷がかかり過ぎるから、その偏りは容易には修正できないからだ。
筋量と反射神経が幅をきかすスポーツの世界も少し難しい。D先生曰く、 "筋肉は感覚を固まらせる" 。)


D先生は言う。 ー "少しだけ" 不便な社会の方が、人間にとっては理想だ。


なぜなら全身を使って身体感覚を磨く場が与えられるから。

そして人間の身体はどんなに文明が進歩しても、身体そのものは原始の頃と何一つ変わっていない。
原始的な身体は必ずある一定量の運動を必要としている。

医療がどんなに発展しようと、時代がどんなに利便性を獲得しようと、この身体が原始的であるということを忘れていると本当の健康も、本当に豊かな生活も ー 導き出せないことになかなか気付く者は少ない。