思考の踏み込み

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ブッダ16

2014-05-21 01:02:04 | 
ー 人体は非構造で分裂的だとD先生は語る。

分裂的とは、手は手で、足は足で勝手に働いていて統合的に連携していないという事のようだ。

だがそれが統一されて、構造的になる "瞬間" がある。
それはどんなときか?
D先生は言う。


ー 花を観たとき。




つまり "美" に触れたとき、分散的な身体は美という一点、即ち他者を含む関係の中で初めて一つの統合を果たす、という。

人間の生活と歴史の中で、芸術が必ずついてまわったのはなぜだったのか?

百花は誰が為に咲いているのか!


そしてその統合を果たしている状態はどんな状態かというと、これは集注している状態であろう。

そこから正しい集注の質の在り方と、そのいくつかの方法を身体技法としてD先生は説きはじめるのだが、そこまではここで記すつもりはない。
(だが少なくとも "集注" というと無駄に力む事と誤認している二流のアスリートあたりには垂涎の理論たるものである。)

ここで仮に ー ブッダの果たした高次元の統合を以上の様な考えから見てみると ー その奥の方に "悟り" という段階があるかもしれない、と予測することはできないだろうか?
(悟りというよりも、身体変化である以上、"目覚め" あるいは "覚醒" と表現する方が正しいだろう。)



問題は他者との関係で一時的に生じる統合を、いかに自己の内で成し遂げ、なおかつ持続させるのかということになるが、そこから先はD先生はまだ語っていない。

というより私はD先生の弟子ではないし、ただの一般聴講者だから耳にしていないだけかもしれない。

それと念の為だが、D先生の研究とブッダを結びつけているのも私のまったく個人的見解で、D先生は一言もブッダについてなど語っていない。

いないが、それは間違いなく繋がるものであるといって差し支えないと思う。それだけの深淵な内容を有しているからだ。