思考の踏み込み

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前田智徳31

2014-08-27 00:12:37 | 
ー この世における、我々人間の "感覚" の世界には二種類の "快" がある。


即ち、 "凝縮" の快と、"分散" の快である。

分散の快は我々のよく知るところであろう。
食もそうだし、お喋りや無駄遣いも分散の方向にあるものである。




セックスなどはその極地といえる。
特に男にとっては、いやオスにとっては性行為とは自然界においては "死" と繋がるものである。

死、それは分散の果ての現象であろう。
そして "生" とは凝縮力の発露である。

この世界に存在している "力" を丁寧に分析し分類していけば最後に残るのはこの凝縮と分散の二方向だけである。

それは "呼" と "吸" といってもいい。

生命と物質の違いもそこにある。

つまり ー 、どちらもある凝縮力によって存在しているものであるが、物質は一度その凝縮力が破れると、自ら修復し再び凝縮する構造を持たない。




生命は凝縮と分散を繰り返しながら、何度も ー いや、何千何万何億回も ー 毎日毎日、一呼吸一呼吸、破壊と再生を繰り返しながら、その生体を維持している。

ー やがて凝縮力が減退してくると老い、消滅した時に死を迎える。

逆に若い内はこの凝縮の "力" が余って皆持て余すものである。
だから皆分散的な行為をする。

若い者の嗜好する所はだいたいにおいてこの、分散の快を求めたものである。

激しくて音量の大きい音楽も、カロリーや塩分の高い食事も、派手な色彩や奇抜なデザインの衣服も、やたらと物を破壊し人を傷つけるアクション映画も、大酒もギャンブルも、全てその本質は分散の快が求めるところの欲求である。




それはごく自然な現象だし、システムに則っただけで誰も間違ってはいない。
だが、問題は分散の快には、その欲求が果たされた後に虚しさしか残らないという点である。

当然であろう。分散の本質は "死" なのだから。

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