思考の踏み込み

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前田智徳30

2014-08-26 06:02:48 | 
前田はまず何本かのバットを手に取り、握ってみてしっくりくるものがあったら叩いて音を聞くという。

そして気に入った音のバットをテーピングを巻いて練習で使ってみる。
そのバットを手塩にかけ、"育てていく" ー 前田はそう表現する ー 、そうして育ったバットをテーピングを外して試合で使う。




初めの段階で気に入らなかったモノは一切使わないという。

その分、育てるべきバットは割れてくれるな、頑張れよ ー そう言いながら使っていくのだという。

こんなバットの扱い方をする選手はプロでもいないらしい。


前田が打席に入り、バットを見つめるルーティーン。
それはこういう背景から来ているらしい。

この "感覚" は前田の天才性をよく表していると思う。
イチローもたしか同じような事を言っていた。




イチローは他人のバットを絶対に触らない。
なぜなら他人の "感覚" が手に付いてしまうのが嫌だからだそうだ。

超一流の寿司職人が寿司を握る時以外、日常生活で常に手袋をするといった話と同じ "感覚" であろう。

前田やイチローの感覚は寿司職人がその繊細な腕、手、指の感覚を極端に研ぎ澄ませて維持させておくという作業と質として変わらない。

彼らにとってバットはすでに道具ではなく、彼らの極限まで研ぎ澄まされた身体の一部にまでなっていたのではないか。



それは、侍が常に腰に両刀を帯び日常の内から身体の一部として扱った事に似ている。


そしてそれはひとたび "抜けば" 、相手の全てを絶つことのできる程の厳しい道具である。
日常から常にそれを携えているという緊張感は、それだけでサムライたちの精神性を高める役割を果たしていたことを現代人はどれほど想像できるだろうか。

銃が自分を安全圏において標的を狙える事と比べれば、"剣" を帯びるという生活様式は日本人の精神史にとって重要な要素であったことがみえてくる。


引退後、宮島清盛祭りで平清盛に扮する前田智徳。
(ハマり過ぎていて、一部ファンからは前田主演でもう一度大河で清盛をやれば視聴率30は固い、などの声も…。)


ちなみに平清盛は武士が政治に関わる先駆けをなした革命児だが、我々が "サムライ" といってイメージする内容ははるかな後年、江戸中期以降の知識階級となった武士像であろう。

前田は明確にこの武士像を、もしくはその精神性を意識していた。
"侍" より、"武士" の方が呼称として好きだとも語っているが、平成の世にそれを公言し、また周囲を納得させられる男というのは他になかなか見当たらない。





さて、以上の事をふまえてもう一度前田の求めていた "理想の打球" というものが何だったのか、考えてみることをしてみたいと思う。

それには ー だいぶ寄り道をしなければならないが、ご興味ある方にはお付き合い頂こう。

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