思考の踏み込み

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祈り6

2014-03-03 00:13:45 | 
祈り、願う。

その行為の美について書いてきたが、そもそも人は誰に対して祈り願うのか?

やはり "神" だろうか?

"神" にもいろいろあって、祈りに対して戒律を要求したり、貢ぎ物を必要としたり、いろいろである。

ましてカルト宗教における教祖に対する "信" の強要などは問題にならない。

祈りや願いの本質は実は宗教とはあまり関係がないと思う。( ここで、世界の各宗教ごとの人間との "距離感" の違いというテーマが出てきてそっちに話が飛びそうになるが、それは後の機会に譲ろうと思う。)

我々はこの世に "生" を受け、肉体を授かり、息して棲んでいる。

そこはきわめて物質的な世界であり、いろんな条件に護られることでようやく "生" を維持できる世界であろう。

その中の一つが崩れるだけで人間なんてあっという間に滅びてしまう。

モノが溢れ、利便性に浸り、ふやけ切った現代人は "死" の影に直面するまでこのことを忘れているが、本来 "生" などは極めて儚いものである。

その "生" がその存在を掛けて生きようと "願う" とき、最後の最後でできることは "祈る" ことしかできない。
それは誰に対して、でも何の為に、でもない。そうせざるをえないというきわめて自然な行為である。
従って "祈り" とは "願い" をより先鋭化した感情なのだろう。

宗教などはその後に形として表れたものではないだろうか?

人間の本質における極めて純粋な行為、そういうものに私はどうにも弱いようだ。これは個人的な価値観に過ぎないかもしれない。



だが個人的な話のついでに記させて頂くと、私事ながら過日恩師が88歳で亡くなられた。



その最期は見事であった。
死の十日前に全ての整理をし、静かに世を去られた。
医師に余命一ヶ月と告げられてから気力だけで一年生き、我々に教えを残そうと執念を見せてもくれた。

いまはただ ー ひたすらにそのご冥福を
"祈り" たい。






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