読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

太田光・中沢新一「憲法九条を世界遺産に」

2007-11-09 23:31:18 | 本の感想
 昨夜変な夢を見た。人と会うために町のホテルに行かなくてはならないのだけど、私のいるところからはそこには絶対行きつけないようになっている。困っていたら、お隣の奥さんが通りかかり、「私はね、いつもこの道を行くのよ」と路地をすいすいと抜けて行ったので、私もあわててついて行く。そこはどこか大きな旅館の裏庭みたいなところで細い石畳の小道が築山を抜けて向こうの石段までつづいている。「これは住居不法侵入になるんじゃないかなあ」とおどおどしながら突っ切ると、出たところはなんと、私が行くはずだったホテルのまん前の大通りであった。そこで待っていた奥さんは「ここと、あともう一つ抜け道があるんだけどね、その他からは絶対うちの方からここへは来られないのよ。じゃ、帰りは間違えないでね」と言うと、自分の用事を済ませにスタスタと行ってしまった。なんだ、人んちを経由しないと目的地にたどり着けないようになっていたのか。私がいつも迷っていたのはそれでなのか・・・。なんだかおかしいような感心したような妙な心持で、それから向かいの瀟<洒なホテルに入って、ラウンジでとびきりおいしいケーキをたらふく食ったのだった。

 そこで今日は「憲法九条を世界遺産に」(集英社新書)
 「そこで」って何が「そこで」なのかよくわからないが、ともかく私はこの本を読んでもあまり感心しなかった。「たわごと」だと思った。なぜ「たわごと」かって、内田樹/小田嶋隆/平川克美/町山智浩「9条どうでしょう」(毎日新聞社)で映画評論家の町山智浩氏が書いている「改憲したら僕と一緒に兵隊になろう」を読むとわかる。
 まず、「平和憲法を持ちながら自衛隊という軍備を持っていることは矛盾している。この『ねじれ』を正す必要がある。」という主張。その欺瞞があるために憲法は威信を失っていると改憲派は言うが、実は平和憲法と軍備の両方を持っている国は日本だけではない。「平和憲法があるのは世界中で日本だけだ」と護憲派は誇り、改憲派は憤るが、そんなことはない。「平和」や「不戦」を憲法に謳った国は世界中に百二十カ国以上ある。
 たとえば、「国際紛争解決の手段としての戦争放棄」を謳った憲法は1931年のスペイン憲法や1935年のフィリピン憲法のほうが日本よりも古くて、それが日本国憲法の下敷きだとも言われている。
 日本と同じく第二次大戦の敗戦国ドイツも「ドイツ基本法」第26条1項で「諸国民の平和的共存を阻害するおそれがあり、その意図でなされた行為、特に侵略戦争の遂行を準備する行為は違憲である」という文面で戦争を禁じている。
 イタリア共和国憲法では第11条で「他国民の自由を妨害する手段として、または国際紛争を解決する方法としての戦争を否認する」とある。
 お隣の韓国の大韓民国憲法でも第5条で「国策の手段としての戦争を放棄」している。その他、永世中立国のオーストラリアやら、インドやパキスタンや、とにかく平和憲法国家は今や珍しくも何ともない、むしろ常識だ。
 そして、平和憲法を持つ国のほとんどが自衛のための軍隊を持っているが、ねじれや矛盾が日本のように問題になっているという話は聞いたことがない。

 これじゃ、「世界遺産」って絶対無理無理。
 で、町山氏はこう続ける
 ところが、歴史を見れば、侵略戦争はいつも「自衛」の名前で行われてきた。あのナチスドイツの軍隊さえ「国防軍」という名で「生存権の確保」を口実に諸外国を侵略したように。そこで日本国憲法は9条2項ですべての戦力の保有を否定してしまった。そこまでやったのは世界中でも日本国憲法だけだ。
 従って9条2項こそは日本国憲法のアイデンティティーである。憲法前文の「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」「恒久の平和を念願し」「全世界の国民が・・・・平和のうちに生存する権利を有することを確認」し、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目標を達成することを誓う」を条文化したものだともいえる。だから9条2項の変更は、自民党などが試案を出している日本国憲法の前文の書き換えとセットになっている。
 改正は9条だけだと思っている人も多いと思うがそれだけでは終わらない。なぜなら、日本国憲法には改正への歯止めがないからだ。

 そのあと町山氏は、「そもそも憲法というものは国際情勢や時代に合わせてホイホイ書き換えるべきではない『硬い』ものなのだ。」アメリカ合衆国憲法だって「修正条項」で書き加えられてはいるがそれは「憲法がうまく機能するように補強する条項」であるし、「日本国憲法の前文にあたる、アメリカ憲法の基本理念であるアメリカ独立宣言は、独立宣言であるからして未来永劫、決して書き換えられない。」日本国憲法は占領軍の押し付けであるという人がいるが、アメリカの憲法だってそもそもその成立当初は一部の市民権を持つ土地持ちの白人成人男性のためのものだった。だけど国民がその「自由」「平等」の理念をすばらしいと思い、それを実現するための努力が続けられてきたことがアメリカの歴史を形成してきたのだ、と言っている。
 私の引用がまずくてよくわからないという人は、軍事おたくで自衛隊に体験入隊もしたことがある町山氏が、なぜ憲法改正に反対するのか、「9条どうでしょう」をじかに読んでみてください。
 
 太田光がなぜこのような「たわごと」を言うかといえば、多分「是か非か」「AかBか」みたいな二項対立的な議論から逃れるためには思いっきりアクロバティックなことを言わなくてはならないと思ったからなんだろう。えーと、そういう二項対立的な議論を嫌う内田樹氏が確かそういうのを「縄抜けの術」と言っていたような気がする。たぶん「ためらいの倫理学」(角川文庫)で。

 宮台真司×宮崎哲弥「M2:ナショナリズムの作法」(インフォバーン)に太田光とM2との特別対談が載っている。
太田 僕はもっと「日本人の方がすごい」って言っちゃっていいと思うんです。安倍さんなんかも「日本に誇りを持とう」って言うけど、俺は誇りを持つ部分ってそこじゃないと思う。要するに「アメリカと同じようにすごいんだ」じゃダメで。
宮崎 確かに、安倍さんが誇らしさを感じている国のコアとは一体何なのか。もう一つよくわかんないね。
太田 わからない。「国際的にバカにされないように」ってよく言うけど、そうじゃなくて、最初はバカにされるかもしれないけど、“これが日本人なんだ”っていうのをもっと打ち出しちゃっていいんじゃないかと。欧米に合わせていくんじゃなくて。
宮崎 そうですね。ただ、国際政治に各国の文化的アイデンティティや独自の価値観を剥き出しのかたちで持ち込むことは、一般的にあまり歓迎されないんです。国際政治社会は、アイデンティティや価値観を各国の利害の一つとして主張することは許されているけど、それを普遍的な価値として他に押し付けることはできない、という建前で動いていますから。もし、あらゆる国が独自の価値観を主張しはじめたら収拾がつきません。だから、アメリカもヨーロッパも、参加国のどこもが認めるルールを設定し、そこの上でゲームをやる。そのルール設定そのものに、実は西洋的な価値が忍ばせてあるのですが、なかなか気づかれないように隠されている。
 商業捕鯨解禁をめぐる国際会議などでは、そういうところが露骨に出ていて面白いですよ。
(中略)
宮崎 じゃあ、日本はこのままアメリカの属国のままでいいのかな?アメリカはもはや日本は無理して憲法を変えなくてもいいと考えているようです。政治的なコストが高すぎるし、下手に自主防衛路線に火を付けると日本がアメリカに刃向かってくる危険性も否定できないという判断に立ってね。軍事的な協力なら、現行憲法下でもかなりのことが可能であることを小泉政権が証明してみせた。では、このまま憲法でいいじゃないか。元々、日本の牙を抜くためにアメリカが制定させた憲法だったわけだ・・・・。
 これがまことにアメリカらしい、実にリアルな現状認識です。
太田 それこそ、俺なんかはそういう話を「太田総理」でやるわけですよね。“僕は平和主義者だ”と言いつつ、石破茂さんやなんかと話していくわけですけど、自分がファシストみたいなことを言っているときがある(笑)ちょっと過激に言うと、俺は日本が世界を征服しちゃえばいい、と思うこともあるんですよ。「日本の価値観で全部決まり」っていうふうに、世界に押し付けちゃえよ、って。(中略)俺は「九条を守ろう」というのがそれほど大事かっていうと、実はそうじゃなくて、日本人が言いたいことを言える世界にしたい、という気持ちが強いかもしれない。だから「俺たちのルールに従え」と。そこまでいくなら戦争もしようじゃないかっていう気持ちなんです。だから、憲法九条を守るためなら戦争してもいいや、っていうヘンな考え方かも(笑)。
(下線は私)ほら、やっぱり「たわごと」だー。その後、遅れて来たらしい宮台氏が加わって議論は急に難しくなってる。
太田 「憲法九条を世界遺産に」って言ってるほど、憲法に縛られるもんじゃないとは思ってます。
宮台 太田さんの感受性は正しい。憲法は国民の総意でしょ。ルソーの言う一般意志です。一般意志とは「皆が思うこと」じゃなく「皆が思うことだと皆が思うもの」。象徴操作によって生まれるもので基本的にインチキです。吉田茂的な保守本流はインテリだから、それをよく知っています。インチキだろうと本物であるようなフリをすることが国益になるから、本物のフリをした。具体的には、平和憲法をくれた後、アメリカは1948年から「再軍備しろ」と言い出す。吉田はすかさず「憲法上できません」と拒絶した。でもアメリカが怒っちゃいけないから「核の傘に入れてくれるなら基地をレンタルできます」と取り引きし、安保条約ができた。これが敢えてする「軽武装・依存」の選択で、「平和護憲」じゃなく「取り引き護憲」です。でも、国民のオツムじゃ理解が難しいから、「平和護憲=非武装中立」なる“あり得ない立場”があり得ると信じ込む社会党を育て、アメリカが無体な要求をする場合には「平和護憲」運動を熱狂させる、という戦略をとりました。結局「平和護憲」は「核の傘」に守られるがゆえの、吉田演出のママゴトだったわけですね。
その「ネタ」が今「ベタ」になってしまったというのが宮台氏がいつも言っていることですね。
宮台 憲法改正で、反撃能力=対地攻撃能力が許容され、「重武装・中立」への道が開かれたとします。実際に政治家や官僚の能力が高くないと国益を失います。具体的には、アジア周辺国の感情の手当をする能力が必要だし、中立を保つべくアメリカ相手に切るカードを絶えず手元に用意する能力も必要です。
 かつて土井たか子と論争した際、僕が「今の護憲は健忘症のバカが掲げる旗だ」と言ったら、彼女が「いいことをおっしゃった。だったら宮台さんの言うように憲法を変えても、日本人は健忘症のバカなので、やがてバカの旗になる。だったらバカの旗になった時に人畜無害な方が良いんです。」と答えました。僕はこう返しました。「僕も実はそう思います。でも憲法が議論になった際に本筋を通す訓練をしないと、僕らは永遠にバカのままです」と。
宮崎 そのことについては、「すばる」(2007年1月号)で哲学者の内田樹氏と作家の矢作俊彦氏が大論争をしています。内田さんが「憲法はいい加減な方がいい」という立場を表明したら、矢作さんが激怒して、「このあいまいさを排除しないと、もう一回戦前と同じことが起こる」ということです」「たとえばノモンハン事件ね。あれだってそうなんです。関東軍には交戦規定がない。法務官がいない。軍隊を法的に組織として統制するものがない」「自衛隊もちゃんと法律の中でがんじがらめにして、仕事はさせる、仕事じゃないことはさせない。そういうふうにしろと、ぼくは言ってるの」と責め立てた。
 私には矢作さんの気持ちがよくわかります。ズルズルベッタリではこの国はまた同じ過ちを繰り返すと思う。
宮台 衆目の予想に反し(笑)僕は内田樹の意見に近い。憲法は国民の覚え書です。覚え書を読んで思い出すべき記憶がない限り機能しません。ゆえに本体は覚え書ではなく記憶の方です。でも僕らに記憶力がないのなら覚え書を厳密に書いても「そんなんだったかなあ」で終わり(笑)。ただ覚え書を厳密に書こうとすることは訓練になります。筋の通った議論をした記録を残すことは後代の人々のリソースになります。それで世の中がよくなるか否かよりも、後代に賢い人が増えるか否かを問題にしています。気の長い話ですよ。

 その「すばる」の対談、私も読んだ。
矢作 (前略)朝鮮半島で戦争が起きたら、その総司令部はGHQの時代と同じ、日本にあるわけですよ。それで同じ場所には陸自の司令部もあっていろんなことが共有されている。
 でも日本で議論されている米軍再編はそういう肝心の部分がぜんぜん俎上にのぼらないじゃない。いかに米軍を圏外に出して地元負担を減らすかという話でしょう。戦争とは何かを何ひとつ学ばずに反戦、反戦と言っている。たとえば敵基地攻撃能力。攻撃する能力を持とうと言っている人間も、持つべきでないと言っている人間も、その後に何が起こるか、起こったらどうするかということを何ひとつ考えていない。敵地を叩けば本当に国内では戦争の被害者が少なく済むのか、実は拡大するんじゃないかというそんな観点では話をしないでしょ。それ以前、たとえば周辺事態法なんてザルだもの。だいたいROE(交戦規程)がないんだよ、この国の軍隊には。どこがどうなったら、鉄砲の弾撃っていいかなんて規程も、曖昧模糊なんだから。今の自衛隊関連法では、少なくとも、二、三人こっちの兵士が死なないと戦争が始められない。つまり戦場は確実に日本国内になるということです。平和憲法というのは国内で戦争を始めること、戦争を国内に引き寄せることなのね。ぼくはそれも仕方ないと思うが、覚悟もないままそうなったら、とんでもないことになる。実は戦前からこの国には仕事としての戦争を理解する人が、ごく一部の軍人以外、いなかったんじゃないかって最近思うんですよ。その軍人たちは、決して主流じゃないから、つまりその点では戦前も戦後も大して違わないんじゃないかと思う。旧日本軍の戦死者って、七割以上が病死餓死なんですよ。こんなマネジメントのなってない軍隊って他にないでしょう?

 うーん、すごい剣幕です。で、「9条どうでしょう」を読んでいたく共鳴したという高橋源一郎氏が、こう発言する。
高橋 以前の僕のアイデアは、こうです。今、二十三万人いる自衛隊をそのまま国連に国連軍として進呈する。国連本部も広島に持ってくればいい。
矢作 日本は常任理事国でも何でもないよ。
高橋 だからもちろんバーターで常任理事国にしてもらう。これだけ国連にお金を出している国はないんだから。
矢作 でも国連で日本は今もただの敗戦国ですよ。金持ってるだけの。元々機能しないもの、広島へ来たら牡蠣食いすぎてますます動かない。

 うん、うん、確かに牡蠣はまずいかもしれない。私もつい先日あたって腹下した。
 そんなこんなで最後まで議論は平行線だ。
内田 たしかにおっしゃる通りおかしいんですけど、日本のシステムというのはもともと法律で縛って、原理原則で詰めるという質のものではないでしょう。日本の政策決定要因って、最後はいつだって人情じゃないですか。
矢作 あなたは間違っているよ。自衛隊に限らず日本人は法的にがんじがらめにしない限り危険ですよ。それなのに重武装した役人を統べる法律がザルなんだから。

 私は、ときどきアクロバティックな表現をしてしまうけど、ほんとはそういうことには価値を認めない人間だ。だけど、内田樹氏が「疲れすぎて眠れぬ夜のために」(角川文庫)で書いていたこんな文章を読むと深く納得してしまう。
 みんなが忘れているのは、戦後の奇跡的復興の事業をまず担ったのは、漱石が日本の未来を託したあの「坊ちゃん」や「三四郎」の世代だということです。この人たちは日清日露戦争と二つの世界大戦を生き延び、大恐慌と辛亥革命とロシア革命を経験し、ほとんど江戸時代と地続きの幼年時代からスタートして高度成長の時代まで生きたのです。
 そういう波瀾万丈の世代ですから彼らは根っからのリアリストです。あまりに多くの幻滅ゆえに、簡単には幻想を信じることのないその世代があえて確信犯的に有り金を賭けて日本に根づかせようとした「幻想」、それが、「戦後民主主義」だとぼくは思っています。
(中略)
 それは、さまざまな政治的幻想の脆さと陰惨さを経験した人たちが、その「トラウマ」から癒えようとして必死に作り出したものです。だからそこには現実的な経験の裏打ちがあります。貧困や、苦痛や、人間の尊厳の崩壊や、生き死にの極限を生き抜き、さまざまな価値観や体制の崩壊という経験をしてきた人たちですから、人間について基本的なことがおそらく、私たちよりはずっとよく分かっているのです。
 人間がどれくらいプレッシャーに弱いか、どれくらい付和雷同するか、どれくらい思考停止するか、どれくらい未来予測を誤るか、そういうことを経験的に熟知しているのです。
 戦後日本の基本のルールを制定したのは、その世代の人たちです。
(中略)
 「戦後民主主義」というのは、すごく甘い幻想のように言われますけど、人間の真の暗部を見てきた人たちが造型したものです。ただの「きれいごと」だとは思いません。誰にも言えないような凄惨な経験をくぐり抜けてきた人たちが、その「償い」のような気持で、後に続く世代だけは、そういう思いをさせまいとして作り上げた「夢」なんだと思います。

 最近ときどき感じるのだけど、ものごとがうまくいくかいかないかは、同じ条件でも、あとはそれを主張する人間の熱意次第だってことがよくある。どっちに転がるか五分五分かあるいは不利なときでも、なんとかうまくいくようにとありとあらゆる手を尽くすことで逆転成功してしまうのだ。戦後民主主義が、憲法に守られてこれだけうまくいったっていうのも、きっと先の戦争で亡くなった人たちや戦禍をくぐり抜けて生き延びてきた人たちが、ものすごくそれを望んで頑張ったからだと思う。そのことを考えると、やっぱり古くなったからってむやみに憲法を変えていいとは思えないのだ。
(つづく)

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