つづき
この本の中で中沢新一は、
と言っているから、やっぱり太田光の表現はアクロバティックであると思っているんだな。対談の前書きにこうある。
私は中沢新一ファンなので、この人が援護するならもちろん賛成する。
ところで、私の興味はなぜお笑い芸人の太田光と宗教学者の中沢新一が「メル友」なのかってところだ。二人はそれ以前に接点があったらしい。そこで、図書館に行って爆笑問題の本を調べてみたところ、「爆笑問題のピープル」(幻冬舎)1998年に対談が載っていた。(1997年9月23、30 日O.A.)
とおっしゃっている。
いやー、それが最後のテレビ出演にならなくってよかったよかった。NHK教育テレビ「知るを楽しむ 私のこだわり人物伝」で、2006年11月に「折口信夫 古代から来た未来人」という講座を担当されていたし、NHK総合「爆笑問題のニッポンの教養」にも出ておられたし。
「爆笑問題のニッポンの教養」は、普段テレビにお出にならないが実はその道では有名な研究者を引っ張り出し、無理やり対談してるのがすごくおもしろくてスリリングだ。(どこらへんがスリリングかは省略)でも、太田光が「俺はこう思うんだ」とよくわかんない自説を主張しまくって時間がどんどんなくなっちゃうのがもったいない。もっと対談相手の研究内容について知りたいと思う。NHKなんだからさ。
「ニッポンの教養」に出てきた中沢新一「アースダイバー」(講談社)も読んだけど、これもある種の「たわごと」だなあと思った。「週刊現代」に連載したものだからか、ある種の傾向の話が多くて、もちょっと簡潔でもいいんじゃないかなあとも思った。だけど私も想像してみないではいられなかった。自分が今住んでいるあたりが縄文時代にどんなところだったかを。そして愕然とした。
このあたりは江戸時代には、見渡す限り一面の田んぼだった。新田開発、ため池、用水路の造成は江戸時代に入ってから行われた。しかしそれ以前はというと、ひどい湿地だったはずだ。戦後でも大雨が降ると道路が冠水し、この家のなくなったおばあちゃんは雨が降ると小舟を漕いで家の前の水路を下り実家に里帰りをしていたという話だ。十三軒屋とか十九軒屋とかいう地名があって、そこは昔、その名の通りの数の民家しかなかったのだが、そこに戦前から残っている民家はみんなまるでお城の城壁のように石垣を高く積んだ上に建てられているのだ。大雨が降るとその石垣の上まで浸水してしまうというわけだ。並大抵のことではない。昭和に入ってからさえそうなのだから、江戸時代以前にはこのあたりはぐちゅぐちゅの湿地や沼地だったと思う。人はほとんどいなくて蘆がさわさわと風に鳴っていただけだろう。それでわかった。なぜ神社が小高い丘の上にあるのか、なぜその丘の上部が同時に偉い人の古墳でもあったのか、なぜ丘の北側に墓地があるのか。場所が神聖なのではない。大雨が降った時に浸水しないところはそこしかなかったのだ。きっと縄文時代には丘の中腹に穴を掘って数軒の村人が暮らし、秋の収穫時期には丘の上で祭りを開き、人が死んだら北側に穴を掘って埋めたのだ。丘の下に埋めると洪水のときに出てきてしまうから。
そんなふうに、この本は大昔のことを想像してみる契機を与えてくれる貴重な本だから「たわごと」でもよいのだ。
あと「憲法九条を・・・」で記憶に残ってるとこは
ってとこだけど・・・・。うーん、太田光はどうかなあ。いや、その、フェロモンじゃなくって、人を自分のペースに巻き込むカリスマ性みたいなもの。中沢新一には確かにあるけど。
この本の中で中沢新一は、
中沢 「憲法九条を世界遺産にしよう」という太田君の表現を聞いたとき、これはさすがお笑い芸人だと思いましたね。この表現自体がもはや芸術でしょう。ピカソのゲルニカぐらい?
と言っているから、やっぱり太田光の表現はアクロバティックであると思っているんだな。対談の前書きにこうある。
ところがこのところ、テレビの中の太田君が、眞っ正面から日本人の直面している深刻な諸問題を取り上げて、それにラジカルな論評を加えている姿を、よく見かけるようになった。ここまでテレビでやって大丈夫なのかな、お笑いの立場でこんなことを発言すると、またぞろ面倒なことを言い出したがっている人たちの格好の標的になっちゃうぞ、とときどき心配にもなった。しかしそれ以上に、いま僕たちがそれをことばに出して語らなければならないはずなのに、億病のためか怠惰なためか声高に語るのを避けている重大な事柄を、彼が必死になって語ろうとしている姿に、僕は深く心を打たれたのである。
私は中沢新一ファンなので、この人が援護するならもちろん賛成する。
ところで、私の興味はなぜお笑い芸人の太田光と宗教学者の中沢新一が「メル友」なのかってところだ。二人はそれ以前に接点があったらしい。そこで、図書館に行って爆笑問題の本を調べてみたところ、「爆笑問題のピープル」(幻冬舎)1998年に対談が載っていた。(1997年9月23、30 日O.A.)
僕はここんとこテレビが大嫌いで、頼まれても出ないようにしてたんですけど、今日はお相手が爆笑問題で、おまけにメディアが「パーフェクTV!」ということで、グッと気を楽にして(笑)、好きなことは話させていただこうと思います。ひょっとするとこれが最後のテレビ出演かもしれません。
とおっしゃっている。
いやー、それが最後のテレビ出演にならなくってよかったよかった。NHK教育テレビ「知るを楽しむ 私のこだわり人物伝」で、2006年11月に「折口信夫 古代から来た未来人」という講座を担当されていたし、NHK総合「爆笑問題のニッポンの教養」にも出ておられたし。
「爆笑問題のニッポンの教養」は、普段テレビにお出にならないが実はその道では有名な研究者を引っ張り出し、無理やり対談してるのがすごくおもしろくてスリリングだ。(どこらへんがスリリングかは省略)でも、太田光が「俺はこう思うんだ」とよくわかんない自説を主張しまくって時間がどんどんなくなっちゃうのがもったいない。もっと対談相手の研究内容について知りたいと思う。NHKなんだからさ。
「ニッポンの教養」に出てきた中沢新一「アースダイバー」(講談社)も読んだけど、これもある種の「たわごと」だなあと思った。「週刊現代」に連載したものだからか、ある種の傾向の話が多くて、もちょっと簡潔でもいいんじゃないかなあとも思った。だけど私も想像してみないではいられなかった。自分が今住んでいるあたりが縄文時代にどんなところだったかを。そして愕然とした。
このあたりは江戸時代には、見渡す限り一面の田んぼだった。新田開発、ため池、用水路の造成は江戸時代に入ってから行われた。しかしそれ以前はというと、ひどい湿地だったはずだ。戦後でも大雨が降ると道路が冠水し、この家のなくなったおばあちゃんは雨が降ると小舟を漕いで家の前の水路を下り実家に里帰りをしていたという話だ。十三軒屋とか十九軒屋とかいう地名があって、そこは昔、その名の通りの数の民家しかなかったのだが、そこに戦前から残っている民家はみんなまるでお城の城壁のように石垣を高く積んだ上に建てられているのだ。大雨が降るとその石垣の上まで浸水してしまうというわけだ。並大抵のことではない。昭和に入ってからさえそうなのだから、江戸時代以前にはこのあたりはぐちゅぐちゅの湿地や沼地だったと思う。人はほとんどいなくて蘆がさわさわと風に鳴っていただけだろう。それでわかった。なぜ神社が小高い丘の上にあるのか、なぜその丘の上部が同時に偉い人の古墳でもあったのか、なぜ丘の北側に墓地があるのか。場所が神聖なのではない。大雨が降った時に浸水しないところはそこしかなかったのだ。きっと縄文時代には丘の中腹に穴を掘って数軒の村人が暮らし、秋の収穫時期には丘の上で祭りを開き、人が死んだら北側に穴を掘って埋めたのだ。丘の下に埋めると洪水のときに出てきてしまうから。
そんなふうに、この本は大昔のことを想像してみる契機を与えてくれる貴重な本だから「たわごと」でもよいのだ。
あと「憲法九条を・・・」で記憶に残ってるとこは
太田 僕は初めて立川談志師匠の落語を聞いたとき、ものすごく感動したんです。あとで何に感動したのかをよくよく考えてみると、談志師匠の落語がのっているときの感じは、エクスタシーに近い。セックスの絶頂みたいなのがずっと続いているんだろうなというのが、見ていてわかるんです。
中沢 接して漏らさずだね(笑)
太田 あの表現力はすさまじい。古典落語を女にたとえると、こいつをどうやってイカせるかということをやっているんだと思う。僕なんかセックス下手くそだし(笑)、途中で萎えちゃったり、相手が先にイッちゃったり、こっちが先にイキすぎちゃったり、空気の読み方とか段取りが下手というか。談志師匠の場合は、古典と本当に交じり合って、絶頂の陶酔を感じている。また、その技巧を持っているんですね。
中沢 きっと談志さんは前世で床上手のお女郎さんだったんですよ(笑)。床上手の才能は、どんなジャンルの芸でも大事です。太田さんは下手そうに見えて、そのぶきっちょな動きでけっこう相手をイカせている。そういう変わったタイプの床上手のお女郎さんなんじゃない(笑)。
ってとこだけど・・・・。うーん、太田光はどうかなあ。いや、その、フェロモンじゃなくって、人を自分のペースに巻き込むカリスマ性みたいなもの。中沢新一には確かにあるけど。