読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

ちりとてちん

2007-12-03 23:56:13 | テレビ番組
*このブログサービスは書いている途中ちょっとした拍子にカーソルがどっかに触れて別のサイトに飛ぶと今まで書いたものが全部消えてしまって何度泣いたかしれないので気をつけてこまめに下書き保存するようにしていたのにまたさっきやってしまってもう涙がちょちょぎれてやる気をなくしています。

 NHKの朝ドラ「ちりとてちん」を毎日見ている。主役の貫地谷しほりちゃんかわいい。おかあさん(糸子さん)役の和久井映見さんも独特のキャラクターがおもしろい。ストーリーがおもしろいだけでなく脇役の人たちの魅力もドラマを大いに盛り上げている。今日のスタジオパークからこんにちはのゲストは和久井映見さんだったのだが、「あなたが選ぶ糸子さん名シーン」の反響のすごさは糸子さん人気を如実に語っていて「やっぱり、あのおかあさんの無自覚な突拍子のなさとか、動物的な直観とかをみんなおもしろがって楽しみに見てたのねえ。」と納得した。私もあの不思議なおかあさんが大好きだ。

 ドラマには、本物の噺家さんが時々出てくるが、徒然亭一門の中ではどうも草原さん以外は(師匠もふくめて)しゃべりが本職らしくないなあと思っていたら、やっぱりそうだった。草原さんは桂吉弥という中堅落語家さんだった。ドラマの中で落語のさわりをちょっとしゃべっただけで本職とわかるのだ。草原さんが「旦さん、お邪魔をいたしますです」「おぉ、喜ぃさん。よぉ来とくなはった、」と言っただけで、この旦さんがそこそこ大店の旦那さんで、喜六が人はよいがアホな青年だということがわかるのだ。これが喜代美ちゃんがおんなじことをしゃべっても、喜代美ちゃんが人がよくてアホだということがわかるばかりだ。(12月4日 へ、へ、へ、台詞間違えてたから訂正した。このサイトに載っていた。すばらしい!ぐぐってみたら、ちりとてちんの人気はやっぱりすごかった。)
 この違いはなんだろうと思っていたら、昨日朝日新聞「暮らしの風」12月号に桂吉弥さんのエッセイが載っているのに気がついた。半分引用。
    ああ、すばらしきオヤジ   桂 吉弥
 先日うちの近所を車で走っていると、吉朝一門の一番下の弟子、吉の丞が落語の稽古をしながら歩いていた。私たち落語家でいう「ネタくり」をして歩いていたのだ。登場人物になりきってブツブツつぶやいている。私もよく道でやっているが、こんな風に見えているのかと恥ずかしくなった。私も彼も米朝師匠宅の近所に住んでいる。昔からこの辺は弟子たちがネタくりをしている姿は多いはずだ。よく「枝雀さんがお弟子さんの時に、そないして歩いてはったわ」と言われたものだ。
 師匠吉朝は夜型だったので、ネタくり散歩を夜中に行っていた。何度もお巡りさんから職務質問を受けていた落語家は吉朝くらいだろう。それも「怪しい」と思ったお巡りさんが、吉朝の後ろを30分以上つけていたというのだから、想像するとおかしい。しかし、このやり方がネタを自分の体の中に染み込ませる一番の方法なので、私もよく夜道へ出ていく。やはり弟子だからだろうか。

 そうかあ、繰り返し繰り返し稽古して登場人物になりきるのだなあ。どおりで目に浮かぶのだ。

 私は高校時代、古典落語の本を愛読していた。江戸落語編と上方落語編があって、全然違っているのにびっくりした。最初は江戸弁の威勢のよさが気に入って「てやんでぇ!べらぼうめぇ!」とか「ちょいと旦那、しぃ(火)貸しとおくんなはい。」とか真似して悦に入っていたから上方編を読んだときにはそのしんねりした台詞と地味なストーリーにがっかりしてしまった。でも、じっくり読んでいるうちにこちらはこちらで微妙な言い回しがまたいいなあと思うようにもなった。
 ところが、テレビで生の落語を聞いたところ、同じ噺なのに、私が勝手に頭で思い浮かべていた噺とはまるで別物だったのでまたまた驚いた。さらに噺家さんによって微妙にキャラクターの性格が違ってくる。下げが違う。テンポも違う。ちょっとした間の取り方の違いで台無しになったりもする。これはすごいと思った。

 最近、落語に関する本でおもしろいと思ったのは佐藤多佳子の小説「しゃべれどもしゃべれども」(新潮文庫)。国分太一主演で映画にもなっているが私はそちらは見ていない。
 売れない若手落語家の今昔亭三つ葉はひょんなことから「落語教室」を開くことになる。生徒は4人。みな訳ありで、人前でうまくしゃべれるようになりたいと藁をもつかむ思いで来ている。関西弁とマイペースな性格が災いしてクラスでいじめられている村林優と、美人だが愛想なさすぎで恋愛運がない十河五月が「まんじゅうこわい、東西対決」と称して上方弁と江戸弁でおなじ噺の落語会をやることになった。この場合、上手下手は関係ない。人前でしゃべるということが肝心なのだ。特に村林少年は、同じクラスのいじめのリーダーに、自分の落語を聞いて笑ってもらいたいと思っている。
 「まんじゅうこわい」の上方版は江戸版と違って長い怪談話がまくらにくる。村林はそれがお気に入りで、いつも自分でしゃべって自分で笑ってしまう。初高座のこのときも「わあ!こわあ!わあ!こわあ!わあ!こわあ!びっくりしたあ!」というオチで自分から「い、ひ、ひ、ひ、ひ」と笑ってしまう。これには会場中が吹き出した。いじめっ子のリーダーも。それを見て、村林少年は大喜び。喜びすぎて、つぎの台詞を忘れてしまう。
「こら!」
俺は怒鳴った。
「先をやれ!」
「あ、どこやった?」
村林が真顔で尋ねてきたので、また爆笑が起きた。
・・・・・・・
 そのあとは、まるでいけなかった。詰まる、飛ばす、間違える、黙る、考えこむ・・・・・。別人がやっているようだったが、どちらかといえば、こっちのほうが、いつもの村林の噺に近かった。客席には妙な緊張感がみなぎっていた。皆、はらはらしていた。退屈する暇も、白ける余裕もなかった。ある意味では、前半以上にしっかりと注目を浴びていた。笑い声はなく、神経質なピアニストのコンサートのように、咳をするのも遠慮がちだった。

 後でいじめっ子のリーダーが言う。
「おまえは、みっともないな。なんか、こう最低にみっともないな」
「キライなんだよ。たまんねェんだよ」
すると、村林は答える。
「そやから、笑たんやろ?」
真面目で落ちついた声だった。
「俺がみっともないから、富田、笑たんや。落語は人が自分よりみっともないと思て、安心して笑うもんやて、三つ葉さんが、ゆうとった」

えらい!落語の極意をわかっている。
 一方、十河の方はウケなかった。うまくしゃべっているのにウケないのだ。
こうして、少し離れた場所でじっくり聞いてみると、やはり、十河五月という女に、落語は似合わない。おもしろおかしい台詞を巧みにしゃべっても、どこか侵しがたいひやりとした静けさが北国の凍土のように底にあって、噺の温度を下げている。

 おもしろい。落語のウケるウケないはしゃべり方だけではないようだ。奥が深いなあ。どうしても噺家の人柄がにじみ出てくるらしい。「ちりとてちん」」も明日は初舞台で目がはなせませんよ。

 でも、私はときどき思ったりもする。落語が似合わないような気品のある人になってみたいもんだ。

 

最新の画像もっと見る