読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

ドストエフスキー「悪霊」

2008-02-26 15:45:02 | テレビ番組
 買ってきた本の感想を書こうと思いながらなかなか読み切れないでいる。

 先週の「知るを楽しむ」悲劇のロシア第3回「神のまなざし」を奪う者を見ていて、「なぜ今ドストエフスキーなのか」、「ドストエフスキーの小説から私たちは何を読み取るべきか」ということについての亀山郁夫氏の考えがますますはっきりとわかったように思った。

 「悪霊」には、この小説が発表された当時、未発表であった一節があった。不道徳で反キリスト教的であると雑誌への掲載を拒否され、その後行方知れずになって50年後にやっと発見されたのだが、実はこの部分が最も重要な部分なのであるという。主人公スタヴローギンの「告白」を収めた章だ。ここでスタヴローギンは自分が今までに犯した5つの罪を告白しているのだが、その中に一つ重大な罪があった。アパートのおかみの娘を凌辱し、彼女の自殺を唯一止めることができる立場にいたにもかかわらず、黙って見届けたというのだ。(詳細は本を読んでくれ)「知る楽」テキストからの引用。
 主題は、徹底した「無関心」である。少女の死を予感しながら動くことなく、悲壮な覚悟とともに死に向かおうとする少女の内面にも同化せず、あたかも「神」であるかのごとき高みに立って、少女の死体をあるがままに、無関心に眺める。それは、他者の生命、他者の痛みに無関心ということの究極の姿である。「告白」のなかで彼は、さも勝ち誇ったかのように書いている。
「ついに、私は必要だったものを見きわめた・・・・・完全に確認したかったすべてのものを」
 スタブローギンが「必要だったもの」とは、何か。それは、もしかすると神ではなく、死の「全能性」を明らかにする最終的な「徴」ではなかったろうか。あるいは、もろもろの「復活」を葬り去る神の死という事態ではなかったろうか。またしても立ち現れるホルバイン・モチーフ――。スタヴローギンの目にとって、マトリョーシャの死こそは、神の不在の証(「神さまを殺してしまった」)だった。なぜなら、神はマトリョーシャに関心をもたず、彼女を救いだそうとしなかったし、そのとき、彼女を救いえたのはひとりスタブローギン自身だけだが、その彼も神の無関心をまねて、いっさい行動を起こすことはなかったからだ。

 この「無関心」ということを小説中で引用された「ヨハネの黙示録」の一節がこう表わしている。

 
 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくも熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。(ヨハネ黙示録3・16)
 
 「なまぬるい」とは、神でもあり悪魔でもあり、みずからは何もせず、他者に無関心なスタヴローギンという人間の、いちばん本質を突いた定義なのである。

ふーん、私がこの引用文から思い出したのは、ペルーの元大統領、アルベルト・フジモリ氏が初めて里帰りした際に「ふるさとは温かくはなかったが、冷たくもなかった」と言った言葉だ。私はそのニュースを聞いた時に、「要するに無関心ってことじゃん」と思った記憶がある。私らにとって、ペルーという国は地球の裏側の国で、遠すぎて、熱狂的に大統領を歓迎するってところまではいかなかったわけだ。しかし、この他者に対する無関心という態度が、高度に情報化された社会の中で蔓延し、私たちの魂を蝕んでいると亀山氏は言う。アフリカでも、ラテンアメリカでも中東でもいいが、悲惨なニュースを見聞きしたとき、私たちは神の視点にたってこれらを俯瞰し「自分に関係ない」からとすぐに忘れようとする。少女が縊死するのを黙って見過ごし、それを物置小屋の板の隙間から覗き見るスタブローギンとなんら変わりはない。

「罪と罰」におけるラスコーリニコフは「神の立場に立とうとした」わけだが、まだそこには「神のまなざし」は出てこない。この「悪霊」においてはスタヴローギンにしても、革命家ピョートルにしても、この他者の痛みに対して無関心であるという点で数段「進化」している。(らしい)
 ドストエフスキーは「ネチャーエフ事件」と呼ばれた内ゲバ事件に怒りをおぼえてこの「悪霊」を執筆したのだという。革命という大義名分のためならば仲間を殺しても許されると考えた者たちの不敵さ、傲慢さに対する怒りがここに書かれている。この「悪霊」は、「浅間山荘事件」を引き起こした連合赤軍の学生が言及したことでも有名になったらしいのだが、私はそれを聞いて昔のことを思い出した。
 
 大学時代、宗教学の先生がおっしゃった。「目的のためならばどんな手段も許されるのか。」先生自身の学生時代は、大学紛争が終息しつつある時代で、内ゲバ事件も頻発していた。学内のある内ゲバ事件をきっかけに、神学部の学生たちで議論したのだそうだ。「高邁な目的のためならばこのような暴力行為は正当化されるのか」何度も議論したが、結果は「否」であったそうだ。「どんな目的のためであっても、人を殺したり傷つけたりすることは許されない。たとえどんなに迂遠であっても暴力によらない働きかけによって社会を変えていかなくてはならないし、また暴力によらず社会を変えていくことができる手段の残された社会にしていかなくてはならない」という結論に達したのだそうだ。「暴力は知らず知らずのうちに精神を荒廃させ、どんな高邁な目的をも変質させてしまう」というのだ。
 私はそれを聞いた時、何をおっしゃっているのかわからなかったのだが、今ウィキペディアで調べていて、レーニンがネチャーエフに心酔し、「悪霊」をけなしていたという情報が書かれていたのでなるほどと思った。内ゲバによって「粛清」を繰り返していった革命の結末がどれだけ悲惨な社会を築いたか歴史が証明しているではないか。

 しかし、私らの心の中にもスタヴローギンがいることは間違いない。スタヴローギンは「神の無関心」と「悪の蔓延」を確信し、自らそれを証明するために自殺するのだ。ああ、なんて陰々滅々たる小説だろう。

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