読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

二枚舌

2008-04-01 23:00:50 | テレビ番組
 月曜日のNHK知る楽「悲劇のロシア」はショスタコーヴィチだった。
 
 ドストエフスキー以後は、マヤコフスキー、ブルガーゴフ、エイゼンシテインと、ロシア革命以後の芸術家たちがスターリンの独裁体制下において、どのように権力と表現の狭間で葛藤したかということに焦点が置かれた講義だった。
 1932年、ソ連共産党中央委員会は文学を含む芸術の全領域において組織的活動を禁止し、党の支配下に置く決定をした。芸術活動をも社会主義体制の挙国一致的な宣伝に使おうとしたのだ。表現活動の自由が徐々に狭められていく中で国民的詩人のマヤコフスキーは自殺したし、劇作家のブルガーゴフは虎の尾を踏んで上演禁止、失意のうちに死んでしまう。彼らはみな天才的な才能があったからスターリンは利用できるだけは利用しようと紐をつけて放し飼いにしていたのだ。スターリンってのはつくづくおそろしい人だ。マヤコフスキーなんか本人は知らなかったが、友人も愛人もみな秘密警察のスパイだったということだ。
 
 ブルガーゴフは人気作家で、革命を揶揄した戯曲「トゥルビン家の日々」はスターリンも大好きだったらしい。しかし検閲が厳しくなるとアイロニーに満ちた彼の作品はすべて検閲に引っ掛かって上演禁止。薄氷を踏むような状況の中で、革命前の若きスターリンを描いた戯曲「バトゥーム」を劇場に依頼されて書く。(バトゥームはグルジアの都市でスターリンが大規模なストを組織して有名になった土地だ。)起死回生のチャンスだったはずだ。ところがこれも結局上演禁止。しかもスターリン直々の命令で。なぜか。問題は「ほくろ」だった。スターリンは若いころ何度もシベリア送りになっているがそのつどすぐに釈放されている。どうも革命前に帝政ロシア秘密警察の二重スパイだったのではないかと推測されている。もちろんそんなことは決して知られたくないから政権を握った後で徹底的に証拠を消したはずだが、ブルガーゴフは戯曲の中に、その証拠となる資料からの引用をちらりと忍ばせたのだった。決して誰にも知られたくないことを「知ってるからね」とウインクされたように感じてスターリンは激怒したに違いない。結果上演禁止。ブルガーゴフは事実に忠実であろうとしたために非常に危険なことをしてしまったわけだ。
 エイゼンシテインだってそうだ。スターリンの尊敬する「イワン雷帝」の映画制作を依頼され、第一部では依頼どおりの勇者を描いたが、第二部では大冒険。過去の殺戮の罪におののき「悔悟」するメランコリックな君主を描いた。どうやら大虐殺をしながら罪の意識を持たないスターリンを「啓蒙」してやろうという意図があったらしいのだがもちろん上映禁止でお蔵入り。「残酷さが足りない」という批判によって。スターリンには啓蒙は通じなかった。


 では、ショスタコーヴィチの場合どうだったか。彼もまた国家権力の抑圧と干渉に耐えながら生きざるを得なかった芸術家だ。その「闘い」の形式は「二枚舌」だという。テキストから
「二枚舌」とは、独裁権力のもとで芸術家としての良心を救いだす(「サバイバル」する)ための手法であり、より具体的には、作品の内部にみずからの真意をしまい込むための作業である。要するに本音と建前の巧みな使い分けをいうが、一歩進んで、作品内にさまざまな「仕掛け」を地雷のように埋め込んでいく場合もある。あるいは翻っていうなら、弱者である芸術家が、個人へのテロルすら厭わない独裁権力に対しての「プロテスト」の一形式と見ることもできる。ショスタコーヴィチの弟子の一人は、このようなサバイバルとプロテストの手法を、レーニンの著名な論文「一歩前進、二歩後退」をもじって、「一歩後退、二歩前進」と表現した。

ロシアでは「二枚舌」のことを「イソップの言語」というらしい。なるほど。
1936年、ある日突然「プラウダ」に国内外で評判だった彼のオペラ「ムツェンクス郡のマクベス夫人」に対して酷評が加えらた。震えあがったショスタコーヴィチは公開直前の交響曲の発表を中止し、新しい曲を作る。それまでの前衛的な作風を改めた、古典的で重厚な交響曲第五番「革命」だ。翌年の初演は大好評。彼は一気に栄光の頂点に昇りつめる。しかし、この曲にはある仕掛けがあるのだと亀山氏は言う。私でも知っている第四楽章、ここには八分音符のラの音が総計252回出てくる。そして「凱歌」モチーフの音階進行ADEF#。ショスタコーヴィチはあるインタビューで「ラ」音は「私だ」と言っている。古いロシア語ではアー(A)に「私」という意味があった。そしてADEF#、これはオペラ「カルメン」の中の「ハバネラ」の一節prends garde à toi!の音階ADEFが少し変えてあてられている。(私が好きになったら 用心しなさい!ってとこね。)これは「信じてはいけない」「危ないよ」という意味だそうだ。
 つまり。ショスタコーヴィチはこう言っている「私は、私は、私は・・・信じない!(社会主義を)」
 人々に絶賛された重厚、荘厳な交響曲の中で革命の熱気をさんざん歌い上げておいて「でも、私は信じない」って裏の方でつぶやいている・・・すごい。

 戦後ショスタコーヴィチは八年間、交響曲を書いていなかったが、スターリンがなくなった直後の1953年に交響曲第十番を発表している。この中にも暗号が埋め込まれているのだと亀山氏は言う。第四楽章の最後に繰り返される、レミドシ(DEsCH)の音型、これはD.Schostakowitschの最初の四文字だ。(SはEs=変ホ)つまり「私はここにいる」と言っている。スターリンの死後はじめて高らかに宣言されたショスタコーヴィチ自身の存在証明、そして芸術の「よみがえり」だっていうのだ。よほどうれしかったのだろうね。

 こうしてみるとロシアって国の歴史はほんとうに悲惨だ。亀山氏は最後に「ロシアの悲劇性」について話しておられた。
 ひとことで言って、ドストエフスキーにおける悲劇の本質とは、「傲慢」である。屈従の長い歴史のなかにあって、この地上ではない、どこかへ、という超越的な夢に狂おしいほど憧れた人々の悲劇である。「傲慢」は、民衆から遊離する、知政ある主人公たちの魂のうちにこそ宿った。ドストエフスキーは、その憧れを、なしうる限りの力でこの大地に引き戻そうと願っていたのである。
 同様に、スターリン独裁の時代を生きた芸術家たちにとって、悲劇はそれぞれに形を変えてあらわれる。ある場合には愛する者を失った真の悲しみと、そこから生まれる憎しみの悲劇であり、ある場合には粛清された人間に対する嘲笑と哄笑と、それゆえの人間性喪失の悲劇である。

でも、亀山氏がときどき指摘されていたように、このような悲劇は何もロシアに限ったことではないし、過ぎ去った過去のことと片づけられるようなものでもない。現代だって私たちは圧政に苦しんでいるわけでもないのに息苦しさを感じて「この世ではないどこか」に逃避しようとするし、リアルな感覚を失って安易に人を殺してしまったりする。また世の中には「不意の暴力」が満ちていて、それに傷つかないよう自分を守って生きていくことは大変だ。まさに「サバイバル」の技術が必要になってくる。「二枚舌」ね。なるほど。

 今うちの町は選挙の真っ最中だ。組織や地縁を使った動員と利益誘導を餌にした集票じゃなくて、マニフェストで勝負せんかい!と思うがしがらみがいっぱいあって複数候補の後援会に入り心にもない笑顔で手を振ったりしなきゃいけなくて憂鬱だったが、別に悩むほどのことでもないかという気がしてきた。

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