読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

「決断主義」

2008-09-09 23:52:49 | 雑誌の感想
 ほぼ4カ月ほど前、この日記を中断する直前、映画「ノーカントリー」のコイン投げのシーンが気になってずっと考えていた。そして思い出したのはウィリアム・スタイロンの小説「ソフィーの選択」だった。
 ナチの軍医はソフィーに2人の子供のうち、どちらかを助けてやるから、どちらにするか選べという「選択」をさせる。「選択」をしないならばどちらもガス室送りだというのだ。そしてソフィーは選択し、一生その罪を背負って苦しむ。

 また、その頃テレビでたまたま見た「デイ・アフター・トゥモロー」という映画の1シーンが頭にこびりついて離れなくなった。前代未聞の大寒波で閉じ込められた息子たちを救出に行く途中、主人公の友人がガラスドームを踏み抜いて宙吊りになる。ガラスはミシミシと音をたて、今にも割れそうだ。主人公は必死に助けようとするがこのままでは3人とも落下して死んでしまう。なのに決してあきらめようとしないので、宙吊りになった友人が自らロープを切って落ちるのだ。アメリカ映画はずるいと思った。こんなとき主人公は決して自分から友達を見捨てたりはしないのだ。

 コインを投げて自分で自分の運命を選択させるという「ノーカントリー」の殺し屋は、否応なしの選択を強いる存在だ。説得も懇願も通じない。モスの妻が言ったように、その選択に意味もない。だけども生き延びるためには否応なしに選択することを強いる状況というものが存在するということをこの映画は言っているのだろう。たぶん・・・。私にはできないけど。

 私にはできないけど、できる、できないの問題ではなく、選択したものにだけ生き延びる可能性が残されているということを言っているのだ。

 そうして、なんだかすごく暗い気分になっていたら、朝日新聞社「一冊の本」6月号に、宇野常寛×宮台真司「怠惰な〈批評〉を乗り超える」という対談が載っていた。批評紙「PLANETS」編集長、宇野常寛が「SFマガジン」に連載している「ゼロ年代の想像力」について宮台が解説してる。宇野さんはこの連載の中で「決断主義」ということを言っているのだ。
宮台 宇野さんの主張は大きく三点にまとめられます。第一は、2001年以降、とりわけ9・11以降、小説、映画、マンガなどを中心に、文化を支える想像力のあり方が変わった、というもの。それを「〈セカイ系〉から〈決断主義〉へ」という言葉で表現されています。(中略)
 第三は、第一点と関連しますが、決断主義という思潮の中身に関わります。多数の価値観が並存し、どの価値観も優越性や普遍性を主張できない状況にあって、「僕は●●をしない」という選択の拒否、例えば「ひきこもり」という選択をすることが、望ましい生き方だ、あるいは少なくとも擁護できるというのが「セカイ系」の発想でした。ところが、それでは生き残れない、だからどの価値観を選ぶかについて、究極的には根拠がないと知りつつ〈あえて〉選び取れ。それが宇野さんのいう「決断主義」です。99年の「バトル・ロワイアル」や03年から連載が始まった「DEATH NOTE」に代表される「サバイブ感」、決断を保留したり拒否したりすれば現実に生存が危うくなるという感覚が前面に出てきているのだとします。(中略)
 宇野さんはこうした現実認識以外に表現の選択肢がありえないのだと主張されます。そこで必要なのは「よい決断主義」と「悪い決断主義」の区別で、前者をどうサポートしていくかだけが問題なのだ、とおっしゃる。
 宇野 (前略)現実は生きること自体が、究極的には無根拠であるにも関わらず特定の価値にコミットすることを意味する。つまり、誰もが決断主義者という振る舞わざるを得ないわけです。そして誰もが価値観同士が争うバトル・ロワイヤルのようなゲームから逃れられない。セカイ系にしたって「何も選択しないで引きこもる」という選択をしているにすぎないし、ニート論壇はゲームのルールに無関心なまま、自分たちにとって気持のいい不平不満を延々とたれ流しているだけ。どっちも無自覚に決断主義者になってゲームにコミットしているだけの話です。(中略)
 これに対して、僕は連中の無自覚なやり方では小泉を止められない、と主張しているわけです。小泉的動員ゲームの弊害、暴力性を取り除きたいなら、まず誰も決断主義的な動員ゲームから逃れられない現実を受け入れた上で、その運用方法を検討するしかない。それにこういう無自覚なプレーヤーは、ゲームの元締めにとってはとても都合がいい存在で、非常に御しやすい。彼ら「無自覚で愚鈍な決断主義者」たちの「安全な噴き上がり」が(彼らとしては批判しているつもりの)小泉現象を延命させたわけです。小泉にしてみればこんなに御しやすい安全な敵対勢力はないですからね。

 「ノーカントリー」を観た後だったから非常によくわかった。
宮台 ネオコンの源流の一人、ダニエル・ベルも言っていたように、抗うにせよ掉さすにせよ社会政策に関わる以上、恣意性の操縦やカウンター的操縦にコミットせざるを得ません。どのみちネオコン的であらざるを得ないんです。そこにあるのは、頭のいいネオコンと悪いネオコンの区別だけです。
 それを前提に「どうすれば私たちが殺されずにすむか」を考える。そういう意味のプラグマティズムが広がりつつあります。こうした認識は、グローバルには先端的な政治哲学者の間で常識になりつつあります。でも日本では稀。ところがそうした思想が、政治論議とは畑違いの宇野さんの文化評論において現れたことに、驚いています。

 ところで、最近移民問題に関して思うのだが、私たちには「移民を入れる、入れない」という選択肢があると思っているのは間違いだ。かなり前から、たぶん10年以上前から官僚の中に「移民の受け入れを推進しよう。ただしおおっぴらにやると世論がうるさいから移民という言葉を使わないでじわじわと入れていこう」と考えていた人たちがいるはずだ。だってさ、10年前に小学校PTAの人権学習会(半強制)で、文部省かどこかの作った「日本も国際社会に対応するために外国人労働者を受け入れましょう」という教育ビデオを見せられたおぼえがあるもの。日本では「男女共同参画」だの、「ワークライフバランス」だの、そういうのは市民の要求によって取り入れられるのではなくて、お上の方から啓蒙的な通達が降りてくるのだ。いつだって。だとしたら、「移民の受け入れ?絶対いや!」なんて言ってたってしょうがないんで、できるだけそれに適応し、またトラブルが起きないよう事前に予防するというのが賢い市民だと思うな。なんせ、私らよりはるかに賢い官僚がすでに国の方針としてひそかに定めているらしいのだから。
宇野 宮台さんは、ニート論壇がどうなれば有効に機能すると思いますか?
宮台 いくつか方向性が考えられます。一つはかつての人民戦線などにおける「連帯」概念が参考になります。「連帯」ほど日本で誤解されている概念はありません。日本では企業別組合が組合内あるいは組合間でまとまる意味にしか使われません。サンジカリズムの伝統における「連帯」とは、労働者が学生と連帯したり高齢者と連帯したりすること。すなわち立場の異なる者どうしが、目的のために共同行動することです。
 なのに日本の連合は、1999年の派遣法改悪に際して正規雇用労働者を守るとの理由で賛成し、非正規労働者を切り捨てました。疑問に思った私は、前会長の笹森清氏に質しました。「ヨーロッパでは組合員が組合員以外とつながるのが「連帯」です。連合にとって「連帯」とは何かを意味しているのですか?」と。笹森氏は「派遣法改悪は、私の在任期間中最悪の失敗でした。連帯がそういう意味だったことを最近知りました」と答えました。これが日本の労働運動なんですから、やはり公共性を欠いたものだと言わざるを得ないでしょう。
 ニート論壇も、ニートの連帯を呼びかけているプレカリアート論の段階ではどうにもなりません。自分たちと相いれない立場の人間と交通の回路を開く方向性が必要です。
 カール・シュミットの友敵理論を持ち出せば、政治動員には、共同体の外に敵を設定する―敵を設定することで友を構成する―必要があります。敵はいつも必要です。でも敵を排除してはいけない。敵と交流することで、前提としていた事実性が変わるからです。
 その意味で、一水会の元代表・鈴木邦男さんの振る舞いが参考になります。彼によれば、排除すればするほど右翼は先鋭化します。だったら、その場で暴力を振るわないと約束する限りで、どんどん話し合いの場に呼んで発言させればいい。ガス抜きにもなるし、互いのステレオタイプや思い込みも修正されやすい。そうした動態が大切だと言うんですね。
 システム理論的には、境界線が存在すること―境界設定―はいつも「仕方ない」が、境界線をたえず揺るがせることが公正や正義という観点からは「望ましい」、となります。

 ふーん、ガス抜きといえば、例の赤木智弘氏だ。最近「ロスジェネ」創刊号を読んだのだが、浅尾大輔氏が赤木氏との対談の中で「敵は正社員じゃないでしょ」と一生懸命説得していた。赤木さんはいろいろ言った後で「まあ、どっちでもいいですよ」なんて言う。要するに誰でもいいけど殴りたいほど追いつめられてるんだぞということを言いたかっただけなんだなあ。テポドン飛ばす北朝鮮と一緒じゃん。
 浅尾氏は「たかじん」のゲストに呼ばれたときも「フリーターはなまけもんだ!努力が足りん」みたいなことを平気で言う自民党の鴻池祥肇議員(「打ち首」発言の人)などに対して、淡々と実例をあげて説明し、非正規雇用の悲惨な実態を訴えて大いに評価されていた。「たかじん」では、とかくバカバカと言い合って個人攻撃になりがちで、三宅さんなんかその癖がついたのか他の番組でもときどき人の意見を遮って無作法に自己主張したりするけども、そういう人に声を張り上げて対抗してもだめなんだな。あんなふうに冷静に相手の意見を聴き、淡々と具体的に自分の意見を述べることが有効なのだとよくわかった。

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