さっき、太田氏のブログで、たかじんの出演でロクな脚本がなかったのはテレビ局の番組制作費がむちゃくちゃ安いからだと、池田信夫氏のブログが紹介されていて、それはともかく、「えーっと、この人は誰だったっけ?」と考えていてちょっと思い出した。切込隊長ブログでもおちょくられてるし。
池田氏が、沖縄戦をめぐる裁判について書かれた大江健三郎の「定義集」(朝日新聞11月20日)を批判している。どうもよくわからない。該当部分はここだ。
やっぱりよくわからない。大江健三郎の文章は翻訳調でセンテンスが長く、言葉が難しいのだ。
しかし、私は、この教科書検定による書き変えの問題がおきた時、「ははあ。」と思った。従軍慰安婦問題で迷路に入り込んだようになって、「軍の命令ではなかった」とあやうく納得しそうになっていたところ、続いて沖縄戦の集団自決に関して「軍の命令ではなかった」と言われたら、そう言っている人が何を目論んでいるかは明白だ。その迷路に誘い込まれてはいけない。すぐに安倍元総理の顔を思い浮かべる。
私が納得した文章は、上記のつづきのここのところだ。
裁判を起こしている人は、沖縄の「集団自決」は住民が「国に殉ずるという美しい心で死んだ」と言っているのか?反対集会をする人は、むしろ、死者をおとしめているというのか?おそろしいことだ。特攻を讃美する心情といっしょだ。
だったら、教科書検定の狙いは明白だ。「美しい国」を守るために命を捧げよ。戦死者を讃美せよ。と言っているのだ。
敗戦直後に都合の悪い文書は大量に処分されたのだろうが、仮にそんな命令は一切出てなかったとしよう。ではなぜ住民は死んだのか。分散していて、全体的な戦況も何もわからない状態で集中攻撃を受け、集団ヒステリー状態になった日本軍の各小隊が勝手に住民を死に追いやったのか?それとも住民自身が危険なカルトにでも感染していたのか?(日本教とか)。むしろ、それを解明する方が重要だ。なぜって、普通は軍隊というものは住民を守るためにいるものなので、敵に殺されたのでもないのに大量の死者を出したという状況は後世に残る大失態であるはずだ。軍隊が真っ当な軍隊として機能し、死者が最小限に抑えられるためには、沖縄戦の大惨事を招いた原因がどこにあるのかということを徹底的に追求しなくてはならないと思う。
当事者が「国に殉ずる美しい心」なんて言って、それを信じる文部科学省が「たくさんの死者が出ましたが昔のことです。」と過去を忘却させようとするのは百害あって一利なしだ。そんなことをやっているようでは政府も軍隊も絶対信用できないということを国民にアナウンスするようなものではないか。もし、仮に戦争が起こって自衛隊が私の町に来たとする。彼らは住民を守るために来ているのか?それとも殺しに来ているのか?まるで信用できない。絶対に彼らに背中を向けてはいけないのだ。殺されてしまって、「自分から死んだ」と言われかねない。
国民の信頼を回復するためには、過去を正当化したり、美化したりするのではなく、日本軍はどこが間違っていたのか、マネジメントのなさの責任はどこにあるのかを解明し、現在に活かすことだと思う。まず一番にすることは「失敗」を「失敗」だったと認めることだ。そんなこともできんのかい!
何かを目論んで自説を展開している人を見ていて、意図とは逆の効果を生んでいるなあと思ったことがあったなあ・・・と、考えていて思いついたのは曽野綾子氏がかかわったはずの「バチカンの宝物展」だった。
あれは私が高校の頃のことだ。大手デパートで開かれたその展示会に行ったところ、あまりの豪華さに目がくらんだ。金でできていて、宝石が山ほどついた第何代法王の王冠とかテンの毛皮がぐるりとついた緋色のケープとか、聖人の骨が入った宝石まみれのお廟とかがガラスケースに入っている。一周見て回ると気分が悪くなった。そんなものを所有しているから偉いのか?そんなものを所有するためにどれだけのお金がかかったのか。宗教というのはかくも腐敗するものなのか?教会が腐敗し、宗教が空洞化したためにどれだけの大惨事が引き起こされたか。そんなことを考えた。同時に展示されていたのは、マザーテレサとコルベ神父に関するエピソードを記したパネルだった。この落差は何か?カトリック教会に対する不信感がこの時芽生えた。
後でカトリックの人に聞いたが、あの展示会はやっぱり非難が多かったらしい。だけど、いろんな見方をすればよいので、ローマ法王庁の偉大さではなく、堕落した教会の醜さを感じるならそれはそれでいいのだというのだ。私の友人などは「毛皮のふちのついたコートが欲しい」「真珠は古くなると汚いからルビーがいいね」とか言っていた。なんて素直な見方だろう。
だけど、素直な見方をしていては生きていけない時代になったのだとつくづく思うよ。
追記: そーか、「国を守る」と言ったときに、沖縄は「国」の中に入ってなかったんだ!むしろ、「沖縄を捨て石にして国を守る」という覚悟で日本軍は戦っていたんだ。生き残ることを想定してないのだから、敗北が明らかになれば1かゼロの選択で「玉砕」するのだ。住民に手りゅう弾を渡して自死に追いやったのは、「子どもを残しては逝けない」という無理心中のような心境からか?
そして、彼らが「国」といった場合は「国体」のことで「国民」のことじゃないんだ。「一億玉砕しても国体だけは守る」みたいな覚悟だったんだから・・・。沖縄の人が怒るのはあたりまえだ。
池田氏が、沖縄戦をめぐる裁判について書かれた大江健三郎の「定義集」(朝日新聞11月20日)を批判している。どうもよくわからない。該当部分はここだ。
私は日本の軍、沖縄の第32軍、そして二つの島の守備隊が、そのタテの構造ぐるみ、七百人にも及ぶ島民に「集団自決」の死を強制した「罪」を、「神の視点」に立ってでなく、人間の目で批判しました。この戦争犯罪が、一個人の(かれが悪人だったゆえの)仕業だった、とは考えないからです。
私は、曽野綾子氏の立論が、テクストの誤読によるものであることを説明しました。まず『沖縄ノート』から、問題部分に傍点して引用します。
《人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。》
かれとは渡嘉敷島の守備隊長です。罪の巨塊は、「巨きい数の死体」です。そのまえに立つかれが罪の巨塊だ、と読みとるのは文法的にムリです。
私は渡嘉敷島の山中に転がった三百二十九の死体、と書きたくありませんでした。受験生の時、緑色のペンギン・ブックスで英語の勉強をした私は、「死体なき殺人」という種の小説で他殺死体を示すcorpus delictiという単語を覚えました。もとのラテン語では、corpusが身体、有形物、delictiが罪の、です。私は、そのまま罪のという日本語にし、それも巨きい数という意味で、罪の巨塊としました。
やっぱりよくわからない。大江健三郎の文章は翻訳調でセンテンスが長く、言葉が難しいのだ。
しかし、私は、この教科書検定による書き変えの問題がおきた時、「ははあ。」と思った。従軍慰安婦問題で迷路に入り込んだようになって、「軍の命令ではなかった」とあやうく納得しそうになっていたところ、続いて沖縄戦の集団自決に関して「軍の命令ではなかった」と言われたら、そう言っている人が何を目論んでいるかは明白だ。その迷路に誘い込まれてはいけない。すぐに安倍元総理の顔を思い浮かべる。
私が納得した文章は、上記のつづきのここのところだ。
曽野氏は、「集団自決」が行われた際、赤松嘉次大尉のもとで中隊長だった冨野稔少尉が、自衛隊一佐として勤務する土地を訪ね、次の談話をとって、氏の本の核心に据えています。
「むしろ、私が不思議に思うのは、そうして国に殉ずるという美しい心で死んだ人たちのことを、何故、戦後になって、あれは命令で強制されたものだ、というような言い方をして、その死の清らかさを自らおとしめてしまうのか(自らは、原文のママ)。私にはそのことが理解できません。」
――このようにいう者らこそ、人間をおとしめていると信じます。そういって私は証言を終えました。
裁判を起こしている人は、沖縄の「集団自決」は住民が「国に殉ずるという美しい心で死んだ」と言っているのか?反対集会をする人は、むしろ、死者をおとしめているというのか?おそろしいことだ。特攻を讃美する心情といっしょだ。
だったら、教科書検定の狙いは明白だ。「美しい国」を守るために命を捧げよ。戦死者を讃美せよ。と言っているのだ。
敗戦直後に都合の悪い文書は大量に処分されたのだろうが、仮にそんな命令は一切出てなかったとしよう。ではなぜ住民は死んだのか。分散していて、全体的な戦況も何もわからない状態で集中攻撃を受け、集団ヒステリー状態になった日本軍の各小隊が勝手に住民を死に追いやったのか?それとも住民自身が危険なカルトにでも感染していたのか?(日本教とか)。むしろ、それを解明する方が重要だ。なぜって、普通は軍隊というものは住民を守るためにいるものなので、敵に殺されたのでもないのに大量の死者を出したという状況は後世に残る大失態であるはずだ。軍隊が真っ当な軍隊として機能し、死者が最小限に抑えられるためには、沖縄戦の大惨事を招いた原因がどこにあるのかということを徹底的に追求しなくてはならないと思う。
当事者が「国に殉ずる美しい心」なんて言って、それを信じる文部科学省が「たくさんの死者が出ましたが昔のことです。」と過去を忘却させようとするのは百害あって一利なしだ。そんなことをやっているようでは政府も軍隊も絶対信用できないということを国民にアナウンスするようなものではないか。もし、仮に戦争が起こって自衛隊が私の町に来たとする。彼らは住民を守るために来ているのか?それとも殺しに来ているのか?まるで信用できない。絶対に彼らに背中を向けてはいけないのだ。殺されてしまって、「自分から死んだ」と言われかねない。
国民の信頼を回復するためには、過去を正当化したり、美化したりするのではなく、日本軍はどこが間違っていたのか、マネジメントのなさの責任はどこにあるのかを解明し、現在に活かすことだと思う。まず一番にすることは「失敗」を「失敗」だったと認めることだ。そんなこともできんのかい!
何かを目論んで自説を展開している人を見ていて、意図とは逆の効果を生んでいるなあと思ったことがあったなあ・・・と、考えていて思いついたのは曽野綾子氏がかかわったはずの「バチカンの宝物展」だった。
あれは私が高校の頃のことだ。大手デパートで開かれたその展示会に行ったところ、あまりの豪華さに目がくらんだ。金でできていて、宝石が山ほどついた第何代法王の王冠とかテンの毛皮がぐるりとついた緋色のケープとか、聖人の骨が入った宝石まみれのお廟とかがガラスケースに入っている。一周見て回ると気分が悪くなった。そんなものを所有しているから偉いのか?そんなものを所有するためにどれだけのお金がかかったのか。宗教というのはかくも腐敗するものなのか?教会が腐敗し、宗教が空洞化したためにどれだけの大惨事が引き起こされたか。そんなことを考えた。同時に展示されていたのは、マザーテレサとコルベ神父に関するエピソードを記したパネルだった。この落差は何か?カトリック教会に対する不信感がこの時芽生えた。
後でカトリックの人に聞いたが、あの展示会はやっぱり非難が多かったらしい。だけど、いろんな見方をすればよいので、ローマ法王庁の偉大さではなく、堕落した教会の醜さを感じるならそれはそれでいいのだというのだ。私の友人などは「毛皮のふちのついたコートが欲しい」「真珠は古くなると汚いからルビーがいいね」とか言っていた。なんて素直な見方だろう。
だけど、素直な見方をしていては生きていけない時代になったのだとつくづく思うよ。
追記: そーか、「国を守る」と言ったときに、沖縄は「国」の中に入ってなかったんだ!むしろ、「沖縄を捨て石にして国を守る」という覚悟で日本軍は戦っていたんだ。生き残ることを想定してないのだから、敗北が明らかになれば1かゼロの選択で「玉砕」するのだ。住民に手りゅう弾を渡して自死に追いやったのは、「子どもを残しては逝けない」という無理心中のような心境からか?
そして、彼らが「国」といった場合は「国体」のことで「国民」のことじゃないんだ。「一億玉砕しても国体だけは守る」みたいな覚悟だったんだから・・・。沖縄の人が怒るのはあたりまえだ。