navikuma のブログ 陽炎のようにゆらめく景色のなかを走行中です。

ユーラシア大陸の端っこからのたわごとです。

ウクライナ方面への旅-14

2006年12月30日 | 日記
今朝もまたすがすがしい快晴の空が広がっている。*(晴れ)*
まずは次の街リヴィウめざしワンちゃんの腹に響くような吼え声を聞きながらそのモーテルを出発した。*(ジョリー)*

今まで通過してきた街まちの出入り口付近にはよく大きな記念碑が建っていた。
よくあるのがスターリンの立像かそういう記念碑である。レーニンのもある。

また面白いのは戦車か戦闘機かミサイルが記念碑のようど~んとに立てられている。*(飛行機)*

型は古いがいずれも本物である(あったというべきか)。

戦車は第2次世界大戦でドイツを打ち破ったT-34型戦車で32トンもあるそうだ。
国防色のくすんだ濃緑に塗装されている。

戦闘機はMIG-15(-17かもしれない)で上昇飛行中の勇姿で台の上に固定されている。まるでジェットエンジンに翼と操縦席の風防をくっつけただけというシンプルなジェットエンジン機初期のデザインだ。
とっても小柄に見える。一人乗り専用ですね。

ミサイルはシルバーで細身のなんだかわからな地対空ミサイルらしい。

確かポーランドのバルト海沿岸の町のキャンプ場入り口にも戦車があったな。

リヴィウへ向かうルート一帯はゆるやなか起伏が続き潅木林が広がるところである。我々が走る幹線道路はほとんど対面交通で長い直線路と緩やかなカーブで繋がった道路が延々と続く。*(車)*

多くの大型貨物トレーラーが普通の車達といっしょに制限速度の90km/hぐらいで走行している。
途中連なって走る大型トレーラーたちに遭遇した。

彼らを追い越すのがなかなかたいへんなのだ。
追い越すことをためらうような交通状況が続いている。

ここでも地元ドライバーらしき運転のセダンやSUVは勇猛果敢な追い抜きテクニックでそれらのトレーラーたちを次々と追い越して走り去っていく。
*(ダッシュ)*

かれらの運転を見ていると,対向車線から同じようにハイスピードでしかし逆方向から迫り来るやはり追い越し中の対向車らとあわや正面衝突寸前と見えるような怖~い運転をくりかえしているのだ。
多分追い越し中のスピードは少なくても110~130KM/Hはでている。
なかなか追い越せずにトレーラーの後にくっついて走っているのでそんな光景ばかりが幾度となく目前で展開されて恐ろしくなって来る。*(青ざめ)*

その同じ街道上で荷馬車が農作物を満載して同じ方向へゆるりゆるりと歩んでおられるのに突如出会ったりする。
馬の歩みのスピードだから歩くのとほとんど変わらない。

そうするとそれをかわそうとしてまえを走るトレーラーは止もうえず対向車線へはみ出ることになる。
そうとはつゆ知らず猛烈に追い越しをかけてくる車があるとそれをさらに左側(対向車線のもっと左より)へ幅寄せすることになる。

こんどは同じタイミングで対向方向車側のトレーラー追い越し場面が急接近してきてハリウッド映画にある場面のようなカオスの世界に突入する。*(爆弾)*

まさにスピードとスリルと轟音入り混じった迫力満点で手に汗握る場面がすぐ目の前に展開される。
でも参加している役者(運転手)さんたちは慣れたものです。
我々(観衆)が幾度か息を呑む(呼吸をする)間にはまた何ごともなかったかの様に走り始め,再びついさっきとおんなじ追い越し場面を延々と繰り返していくのです。

息を何度も呑みながらもさらに走り続けていくとだんだんとまわりの緑が色濃くなりきた。
土地の起伏もより深くそしてその周期がみじかくなってめざす国境へ近づいていくのがわかる。

もう大型トレーラーにも遭わなくなり交通量も目に見えて少なくなってきた。

国境へ着いてしまう前にひとつやっておくことがあった。
手持ちのクリブナを使い切るためにウクライナ最後のガソリンスタンドへ立ち寄り給油した。
ついでに朝飯を兼ねたお昼も食べおかしと飲み物をたくさん買った。*(ジュース)*

よって財布の中に残ったのは10クリブナと2クリブナ札がそれぞれ1枚ずつとコペイカコインが50が2個と25と10がそれぞれ1個ずつだけ。
残金はたった52ユーロ・セントですね。

オランダから持っていったドルとユーロの現金はほぼ使い切っていたしほとんど悔いなしの心境でしたね。

さらに国境へと近づいていく途中のどかな田舎道には放し飼い?の牛達が4~5頭のんびりお散歩中でした。
我々の車が近づいて行ってもまったく動ぜずしばらく停車してお動きになるのを待たねばなりませんでした。

も~しょうがないねッ!

帰路は10日前に通過した場所とは別のボーダー(国境)にすることにした。

理由は2つあった。

ひとつめは出入国審査にかかる時間を短くしたかったこと。
前回通った国境は結局3時間半もかかったので帰路は混雑が少なく早く通過できそうなやや小規模な国境をためして見たかったので。

ふたつめはなるたけ渋滞走行に巻き込まれるのを避けたかったので。
往路ポーランド・クラカウからウクライナ国境に至るルートはいたるところ道路拡張整備工事中で待ち時間ばかりかかりさっぱり走行距離が伸びなかった。
帰路はやや南の以前走ったことがあり比較的空いていると予想されるルートを走ってみようと思ったので。

今回のボーダーの名前はクロスチェンコ(ポーランド側の寒村)でカルパチア山脈の北辺の北がわ裾野地帯にあります。
ウクライナに入ったときのボーダーは約50km北にある。

この一帯は穏やかな起伏が織り成す緑鮮やかな山麓にまばらな家々が点在する美しい風景が広がる。
スロバキア西北端の国境には直線距離でわずか50kmハンガリー北部国境にも120kmの近さです。

この地帯はかつて旧ハプスブルグ領だったいわゆるザカルパチア地方,東ガリチア地方,西ガリチア地方で500~1000m級の山麓が織り成しているところです。

この旅行記のはじめの方で書いたことがあるように,
『この辺りは ”上空を鳶が舞う小高い山並みの向こう側はソ連邦ウクライナだよ。”と話しながら真夏の陽を頭上に浴びながら寂れた山岳路を車で走っていたことがあった。そのときから ”いつかはあの山の向こう側のウクライナへ行ってみよう!”と思っていました。』の辺りなのです。

あのときからすでに18年の年月が流れたことになる。

ポーランドを含む東中欧諸国でのソ連型共産党独裁政権から議会制民主主義体制と市場経済体制への雪崩的変革がおきたこと。バルト3国や南コーカサス3国の独立革命,ソ連邦の崩壊,ベラルーシとウクライナ完全独立,欧州統合とユーロの導入と書き出したらキリがないほどいろんな大事件が起きている。

自分にとってもそれに負けず劣らずいろんなことがあったとことを思い浮かべた。

そしていま積年の願望がかなえられ我々にずっしりとした手ごたえある貴重な体験をさせてくれた”ウクライナの旅”を終え“あの山の向こうがわ”から再びポーランドへ帰ってこようとしているのだ。

まだ夏陽が高い午後17:30ごろ(ポーランド時間では16:30ごろ)には新しい建物で静かな雰囲気のボーダー『国境』へたどり着いた。*(進入禁止)*

我々は先頭の車から25台目ぐらいであった。
早く通過できればよいのだが。*(時計)*

恐らく我々にとってウクライナの旅最後のアスファルト路面にできたの穴ぼこ(直径50cm、深さ15cmぐらい)と思われる大きな穴ぼこをすぐ左手横に見やりながら順番を待った。

やっとその車列が動き始めたのはたっぷり1時間後だった。

はじめはウクライナの出国審査でわれわれの番がきた。
私と息子のパスポート(入国時のビザ証の紙片をはさんで)と車検証と車両保険証それから運転免許証を出国審査の係官に手渡した。

息子がポーランド語がわかり相手の係官とやりとりをしていたがなんかスムースに行っていないようだった。
担当の係官は同室のほかの係官と盛んになにやら声高にやりあっている。
そうこうする内にその係官は部屋から出て行ってしまった。

どこへいったのだろう?

しばらくして戻ってきた。またなにやらやり合っている。
我々に車を歩道の上に寄せなさいと指示してきた。

どういうことだろう?*(はてな)*

後の車達が我々よりどんどん先に進んでいく。

係官から色々質問がきた。
“これからどこへ行く?
何しに行く?
ウクライナではどこへ行った?
何のために来たのか? 
何か申告するものは? 
お酒は? 
タバコは? 
高価なものは? 
仕事は? 
いまどこに住んでいる? 
今日はどこへ行って停まる?
これはお前の車か? 
日本へはいつ帰る?”
と。

正直に答えた。いやなるたけ正直に理解されるように返答した。

車のドアを開けリアトランクも開けて荷物を見せた。もちろん何も不都合なものはない。

再び部屋に入っていってこんどは別の係官とやり合っている。
再度部屋から出て他の事務所の方へいってしまったらしい。

しばらくしてやっと帰ってきて係官室へ入っていって再び話し合っている。

それから外にでてきてナンバープレートを見ながらパスポートになにやら書き込んでやってそれを返してくれた。

行って良いという。
やれやれだ。*(いっぷく)*

次は15メートルほど先のポーランドの入国審査だ。

ここでは息子がポーランド語で色々話していたがやっぱりスムースに行かない。

さっきと同じように部屋の中で他の係官となにやらごたごたとやり合っている。
英語もすこしわかる係官もいたのでどうしたんだと訪ねてみるとこういうことだった。

“お前達はこのボーダーを通過する初めての日本人で,しかもオランダ登録の車に乗ってオランダに住んで居るそうだしそれなのにお前の息子はポーランド語を良くしゃべる。
どうもよくわからない。
こんなややこしいのは初めてだ。”

なんだそうだ。
まあそういわれればそれ以上なんとも説明しようがないのだが。

“はい、そういうことです。”と。

結論をいうと不慣れなのと物めずらしさとややこしさがごっちゃになって彼らの側で非日常状態になってしまった様でした。

ウクライナ側でも長くかかった原因はやはりそのようなのでした。

そんな訳でこっち側ポーランドでもむやみに入国審査に時間がかかってしまいました。

結局このボーダーを通過するのにまる2時間以上を費やす羽目に。

紆余曲折はあったけどめでたしメデタシ,ポーランド入国のスタンプをぽんっぽんっと押してもらいOKになりました。*(OK)*

バックミラーでその国境の建物を見送りながら走り出すとき,それまで健気にもじっと我慢して助手席に座っていた息子が突然“フリーダーム!!フリーダーム!!!フリーダーム!!!”と全身を躍らせて叫びだしました。
*(ニヤ)**(びっくり2)*
よくわかるな~。
本当に同感でした。 

私も“ 解放された!良かった!!”という実感が全身からひしひしと沸きあがってきました。

もうポーランドに入ってしまえばかって知ったわが家の庭みたいなものです。
道路の路面状態は比較にならないぐらいスムースで良い。
ガタンと来るようなあなぼこもハンドルを取られるような轍もみにくくほころんだ継ぎ目もない。

辺りの景観はここから西ガリチアに入り同じカルパチア山脈(タトリ山系)のつながりであるけれども見慣れてきていた先ほどとは幾分違うようだ。

点在する家々は似たようなかたちでいながら一回り大きくまた造りと家の周りが新しくきれいなだった。

東ガリチア地方では多くがユニエイト教会の尖塔だったのがポーランドへ入るとローマンカトリック教会のもっととがった教会の尖塔ばかりになった。*(教会)*

また向かって左側に拡がるタトラ山麓の起伏がより深くなってきていた。

ここからはなじみのあるルートでサノック-クロスノ-ノベ・サンツ-ノベ・タルク-クラカウのルートをたどる。距離は370kmある。

途中のノベ・タルクからポーランドのタトラ山岳保養地で有名なザコパーナまではわずか25km足らずの距離にある。クラカウは北へ向かうがザコパーナは南へ行く。
軽井沢へ入っていくような感じです。

この辺りはいたるところ国立自然公園になっていてとっても風光明媚で爽快な自然が一杯のところですね。*(山)*

かつては夏休みになると2~3週間ぐらいザコパーナへ滞在して清涼な景観に恵まれた2000~2500m級のタトリ山系の山歩きや渓谷歩きなどを楽しんだものでした。

このクラカウ-ザコパーナ一帯地域は観光旅行や休暇で訪れるには抜群のところです。
以前行ったり体験したところを列記しますと,

‐ドゥナエック渓流下りはぺニンスキー国立公園内からスタ-トするいかだボートでの2時間半あまりの素晴らしい冒険です。特殊つなぎ箱ないかだ船での渓流くだりは爽快そのもの。命が伸びます。
渓流の対岸(下流に向かって右側)はスロバキアで沐浴をしている人や対岸で手を振る人たちによくで出くわす。
古中国の山水画の世界のような峡谷絶壁の間を縫って下ります。

-ゾリナ・ダムはポーランドで一番高いダムで幅664m高さ88m見ごたえ十分です。湖水に浮かべたボート遊びも出来ます。

-ヴェリチカ岩塩抗は13世紀からはじまった歴史ある岩塩取りの地下抗で地下130mも下りていき聖キンガ礼拝堂がすべて岩塩をくりぬいて造られています。
ユネスコ世界遺産登録。

‐ペンションアキコは日本人三和明子さん家族が’93からはじめたペンションです。
はるか彼方にそびえるタトラ山系をパノラマで眺められるハルクロバ村の丘陵の上にこつ然と聳え立っています。
手製のポーランドー日本料理も売りの素敵で快適なその辺りで唯一のペンションです。
この近辺にはコウノトリの巣があっちこっちの教会屋根や電信柱の上のに見られます。

-ザコパーナを拠点にした夏はタトラの山々と渓谷のトレッキングが冬はスキーリゾートとして楽しめます。
故ヨハネパウロ2世が’81年銃弾で瀕死の重症を負ったとき奇跡の回復をした記念の新しい木造教会があります。
辺りには三角屋根のザコパーナ様式木造建築がたくさんあります。
ロープウエイで登れる1987mのカスプロヴィエ山やケーブルカーで登れる絶景の眺望を楽しめるグラボウカ山をはじめ,もう少しがんばって山中の美しい湖モスキ・オコは馬車でも徒歩でもいけます。
家族みんなで心地よい自然体験が楽しめます。

-古都クラカウは盛りだくさんです。
ヴェルヴェル城の見物と旧市街の中央広場は楽しい買い物が出来ます。
1241年バトウのモンゴル軍が攻めてきた時の史実を今も伝えるラッパ吹きがいる聖マリア聖堂の近くには歴史博物館や美術館がたくさんあります。

-それからクラカウから西へ70kmほどのところにあるオフィシチエム(アウシュビッツ)強制収容所跡。特殊な理由であまりにも有名です。

-やはりクラカウから南西40kmほどのところには故ヨハネ・パウロ2世の生家がヴァドヴィッツェにあります。

と色々想いを馳せながら緩やかにアップダウンとほどほどにあらわれるコーナー
をリズミカルにこなしながら以前よりは綺麗に整備された山麓のルートを走り続けた。
すっかり陽が沈んでしまった9時ごろ今夜の宿泊場所へ入った。*(三日月)*

クラカウへまで210km手前の小さな町のモーテルではポーランド語もそして英語でも素敵な笑顔つきでやりとりが出来た。
部屋も広くて綺麗。
晩飯も寛いでおいしくいただけた。
いっぺんにテンションが下がったような感じだ。*(いっぷく)*

本当にもう我が家へ帰ってきたような寛いだ気分がする。
こんなにも国境のあっちとこっちでは違うものなのか?
この晩そんなことをあらためて思った。*(クローバー)*

次回はポーランドからドイツへしそしてオランダの我が家へ向かうところを書きます。



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