電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

「狩りをし風呂に入り、ゲームをし笑う」

2004-11-20 22:45:15 | 文芸・TV・映画
 北アフリカのアルジェリアにある古代ローマ帝国の遺跡「ティムガッド」の道路の石に落書きが書かれていた。その落書きは「狩りをし風呂に入り、ゲームをし笑う。これが人生だ」という意味だと言う。アフリカの砂漠の一角で、区画整理され、上下水道も完備し、公衆浴場もあり、まるで現代の都市生活と見まがうばかりの生活環境の中で豊かに暮らすローマ市民の像が思い浮かんでくる。今日のNHKスペシャル「ローマ帝国」は、見応えがあり、ブッシュ大統領率いるアメリカを思い浮かべながら、パックス・ロマーナ(ローマの平和)の思想と構造を考えさせられた。
 「ティムガッド」のようなローマ時代の巨大都市遺跡は、ローマ帝国の各都市に建設された。それが、完全な形で残っていたのが、この「ティムガッド」である。内戦状態だったため今まで近づくことができなかったが、今回特別な許可を得て、NHKのカメラが初めてその実像を記録したという。特に最新のCGを駆使してティムガッドを再現して見せてくれたのは素晴らしかった。古代ローマ都市のかたちが視覚的にわかる。

 様々な人種・言語・宗教が混在した巨大なローマ帝国を束ねることができた鍵は、これまで、ひとえに強力な軍事力による支配とされてきた。しかし、ティムガッドは、その通説を覆しつつある。土地を平等に分け与えるために、碁盤の目に整備された街並み。近代都市をも凌ぐ完璧な上下水道。整備された劇場や公共浴場。ローマとアフリカの神が仲良く描かれた彫像・・・・。
 そこからは、民族の融和をはかり、快適な都市生活を提供することで、人心を掌握しようと模索した、新たなローマ帝国像が浮上する。繁栄維持の鍵は、皇帝の強権政治ではなく、むしろ柔軟な平和政策にあったのだ。

 ちょうどいま、塩野七生著『ローマ人の物語 パクス・ロマーナ』(新潮文庫)を読んでいるところであり、NHKのローマ帝国のとらえ方を興味深く思った。「様々な人種・言語・宗教が混在した巨大なローマ帝国を束ねることができた鍵は、これまで、ひとえに強力な軍事力による支配とされてきた」というのがよくわからない。塩野七生の『ローマ人の物語』を読む限り、だれもそんなことは言っていないように思える。私には、アメリカのブッシュ大統領の政策のことをさして言っているような気がしてならない。

 「民族の融和をはかり、快適な都市生活を提供することで、人心を掌握しようと模索した、新たなローマ帝国像が浮上する」というが、それこそユリウス・カエサルが目指し、カエサルの養子で初代ローマ皇帝アウグストゥスが実現したものだ。そして、彼らがそれまでの数々の歴史的戦いの中から学んだものだ。ひとえにローマそのものを安定させるための戦いの結果がそれだった。もちろん、彼らが、すべての人間を幸せにしたというわけではない。しかし、その後の文明の歴史の中での政治の論理は、ほぼローマ人によって試され、開発されてきたと言うことができる。今までのところ、ローマ人のローマ帝国より上手く、経営できた「帝国」はなかったということだけは確かなようだ。

 本を読んでいると、広大なローマ帝国のイメージは思い浮かべるのだが、どうしても抽象的になる。その意味では、この映像をフルに利用した「ローマ帝国」は面白い。特に、CGによる映像がいい。私の乏しい想像力を補ってくれる。続きが楽しみだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ネット王子とケータイ姫』

2004-11-18 20:46:59 | デジタル・インターネット
 香山リカ+森健著『ネット王子とケータイ姫』(中公新書ラクレ)を読み終えた。そして、実にタイミングよく朝日新聞(11月17日朝刊)で「インターネットと携帯電話の世論調査」が発表になった。それによれば、携帯電話を使っている人は64%であり、インターネットを使っている人は40%であった。携帯電話をメールに使うのは女性のほうが多く、男性は仕事で電話に使うのが多いようだ。また、インターネットは男性の利用者は46%で、女性は36%になっている。一般的な傾向としては、「ネット王子とケータイ姫」と言えないことはない。
 ただ、全体として、携帯電話もインターネットもかなりの人たちが肯定的に見ており、時代の流れに前向きな人が多い。子どもに使わせるかどうかについても、親が携帯電話やインターネットを積極的に使っている人ほど、許容度が大きいと言うのも特徴である。ある意味では、携帯電話もインターネットも生活に必要な機器になりつつあると言える。

 『ネット王子とケータイ姫』は、少年犯罪が起こるたびに、ネットやケータイが悪玉にされるが、必ずしも根拠があるわけではないので、よく考えるべきだと言う。実際、「ゲームをしすぎると『ゲーム脳』になる」とか、「テレビを見すぎると発達が遅れる」というような懸念は、科学的に証明されたわけではないが、ケータイやインターネットに対しても同じような見解がなされている。そういえば、私は、昔、「本ばかり読んでいると、現実とフィクションが区別つかなくなって来る」と脅されたことがある。どんなものでも過度になれば弊害も出てくるに違いない。

 香山リカ+森健さんは、「少女たちは自己への不安から関係性を確認するためにケータイに走り、少年たちは世界に特権的な存在として君臨できない失望を埋めるためにネットに走る」と言う。もちろんすべての少年少女がそうなるわけではない。しかし、IT機器の普及により、そうした傾向が見られることも事実だという。そのこと自体が問題ではない。社会が彼らを突き動かしているだけだ。だが、彼らがネットとケータイにのめり込んでいったときに、問題が起きる。

 ネットやケータイがつながっているかぎりは、世界を手に入れたような気にも、世界が自分に向かって語りかけてきているような気にもなれるネット王子やケータイ姫がいちばん恐れているのは、ネットやケータイがなくなることやつながらないことではない。実は、ネットやケータイがそこにあるのに、だれからも連絡がないこと、こちらから連絡してもレスがないこと、さらには自分を傷つけるような書き込みやメールを見つけることなのだ。
(『ネット王子とケータイ姫』p178)

 「ネット王子とケータイ姫にとって、ネットやケータイのない世界こそはバーチャルな世界である」という香山リカさんの言葉は、鋭い。その昔のネットやケータイのない時代は、彼らには想像もできないような世界であり、ロビンソンクルーソーのような孤島に隔離された世界に違いない。つまり、彼らにとって非日常的な世界こそ、ネットやケータイのない世界なのだ。

 でも、せめておとなにもわかってもらいたい。子どもにとってネットやケータイは、どれほどなくてはならないものか。そこがどれだけ大切な居場所になっているか。そして、それを取り上げただけで、子どもたちはすぐに現実の中に居場所や自分の存在価値を見つけることができるわけではない、ということを。(同上・p180)

 そういうわけで、香山リカさんは、親や教師に次のような提言をしている。

①子どもとネット、子どもとケータイについての専門家、企業、役所の発言は、まず疑ってかかれ。
②他人の発言を信じずに、自分の責任で言いたいことを言えばよし。
③新しい学術的知見には、敏感であれ。場合によっては自説を変える柔軟性も必要。
④ネット、ケータイを禁止したあと、自分の子どもは何をするか。それを具体的にイメージできないうちは、禁止すべきではない。
⑤新しい技術をてにした人間を、後戻りさせることはできない。


 不思議なことだが、もう後戻りすることはできない高度情報社会の中で、ネット王子やケータイ姫に対して親ができることは、リアルの世界で適切な社会的振る舞いをしてみせることである。ネットもケータイも既にリアルの世界の一つの事実である。私たちが、ネットやケータイをどのように使いこなしているのかが、今問われているのかも知れない。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三位一体の改革と義務教育(4)

2004-11-17 19:20:32 | 政治・経済・社会
 文部科学省が、「義務教育の改革案」を打ち出し、その中で「義務教育費国庫負担制度については、義務教育の根幹を支える財源保障としての役割」があると強調し、地方6団体の要求に真っ向から対決姿勢をもっていることは既に書いた。しかし、いろいろなニュースを見ていて、この「義務教育費国庫負担制度」の内実がはっきりしていないままいろいろ言われているのには驚かされる。
 ここで言われている「義務教育費国庫負担制度」というには、「国が義務教育を確保するために義務教育国庫負担金を支払っているよ」ということであるが、この負担金とは、小学校と中学校の教員の給与の半額を負担しているということである。残りは、もちろん地方自治体が負担している。文科省は、このお金を地方に一般財源として移譲してしまうと、貧しい県は、教育費に支給されず、他のことにまわされることになり、従って義務教育が保障されなくなると言いたいらしい。

 文部科学省の2004年度の一般会計予算は、総額で6兆599億円である。そのうち、「義務教育費国庫負担金」は2兆5128億円である。これが、小中学校の教員の給与の半分に当たるわけだ。このほかに、義務教育に関係する予算としては、施設費等の3906億円があり、これは施設補助金として交付される。「義務教育費国庫負担金」は文科省の総予算の約41%を占めている。また、この「義務教育費国庫負担金」の適切な配分のための文科省職員の作業のための費用も当然文科省は負担しているのであり、相当な金額がかかるものと思われる。もちろん、地方自治体の資料作りや申請作業も膨大な事務経費がかかるものと思われる。

 これに対して、地方6団体は次のような反論をしている。

1 義務教育は、地方の自治事務。中央政府の専管事項ではない。
2 義務教育の根幹は、①機会均等、②水準の確保、③無償制であり、国庫補助負担金制度の存続とは別の問題。
3 問題は、義務教育に要する財源を、地方自治体がどのようにして確保することが、地域や児童生徒にとって望ましいのかということ。
4 義務教育費国庫補助負担金を一般財源化した場合、都道府県が教職員の給与に関し、必要な支出を確保しようとしない事態が万一生じても、国がその是正を求めることにより、その支出を制度的に担保することが現行の法律においても可能。現行の法律による担保が不十分と考えるなら、法律改正も可能。

 地方自治体としては、「義務教育費国庫負担金」を通じて国がさまざまな規制をすることが問題であり、現在では、実際教員の給与以外の費用は施設費の一部を除いて全て地方自治体が確保しているのであり、義務教育費の総額に対する国の貢献は30%以下になろうとしていると言う。本当に、「義務教育費国庫負担金」が大事でそれが国の義務教育に対する責任だというなら、義務教育にかかる費用の全体の半分以上を国が負担すべきだと言う。いろいろな財源削減により、義務教育に関わる費用は地方自治体に70%以上も負担させておいて、教員の数の管理について規制し、それが義務教育を支えていると言うのは、単なる文科省の既得権益を守るためだと言いたいらしい。

 確かに、国の義務教育に対する指導はミニマム(最低基準)であるとするなら、教員の数についても、地方自治体によっては増加させてもいいわけだ。もっと教育に金をかけようと言う地方自治体にとっては、文科省の規制はよけいなお節介である。しかし、経営の厳しい地方自治体の場合はどうなるだろうか。この場合は、地方自治体の方針次第と言うことになる。地方自治体によっては、教育費を減額するかもしれない。あり得ないことではない。それを、地方の人々が許容するかどうかだと思う。

 いまは、国も地方自治体も財政赤字を抱えているという点では同じだ。地方はだめで、国なら大丈夫だと本当に言えるのか。現に、小中学生の教科書の無償配布は、国が負担しているわけではない。これは、地方自治体の負担になっている。むしろ、「義務教育費国庫負担金」だって少しずつ減額されていくのではないか。二分の一が三分の一になったとしても、おそらく文科省の管理は変わらないのであり、そういうようになっていくのが目に見えている。すでに自民党内では、公然とそういう案が提案されようとしている。

 何故、文科省は「義務教育費国庫負担金」として、教員の給与と施設費の補助金だけを残しているのか、もう一度検討すべき時かもしれない。地方自治体に対する権限を少しでも残しておきたいという魂胆があるのなら、それはやめるべきだと思う。「義務教育費国庫負担金」を一般財源にするかどうかより、国も地方も財政的に厳しい中で、どのように効率よく義務教育のための財源を確保していくかだと思う。それを解決したら、多分、「義務教育費国庫負担金」を国が負担するのか、地方自治体が負担するのかは問題でなくなるような気がする。どちらにしても、国民の税金を使うことは確かだ。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父親が退院した!

2004-11-16 20:19:10 | 日記・エッセイ・コラム
 15日・16日は岐阜県中津川市に行っていた。14日の日曜日に大腸癌の手術をした父親が退院した。一応、手術については抜糸も終わり、普通に動いてよいし、普通の生活をしてよいとのこと。前にも書いたが、リンパ節の切除が完全ではないので、今後再発しないとはいえない。かなりの高齢なので、抗ガン剤などの投与は見合わせ、今後は月一回の検査を定期的にしてようすを見ようということになる。病院にいるよりは、自宅にいて普通の生活をしたほうがよいらしい。
 14日の日曜日の夜は、自分で風呂に入ったそうだ。15日の夜は、私と弟夫婦と一緒に夕食を取ったが、大好物のカツ丼をぺろりと平らげていた。普通の食事でも大丈夫のようだ。食後の団らんの時に、家の中にいろいろなものがたまり、置き場に困っているので少し整理したらと言うと、それは捨ててはいけないという。相変わらずだ。自分が使うと言うことではなく、みんながこれから必要になるかも知れないという。私たちは、当分父親の好きなようにさせることにする。

 それにしても、1日に大腸を15センチほど切り取る手術をしたのだが、丁度2週間で退院したことになる。先生の話では、上行結腸でよかったという。S字結腸や直腸だと切除しただけでは済まなくなる。切ってつなぐというのがこんなに簡単だとは思わなかった。まるで盲腸の手術のような感じだった。父親も84歳とはとても思えなかった。大腸癌Ⅲ期bで、5年後生存率が50%と言われているが、もっと長く生きていて欲しい。

 今週は弟たちが交代で父親のところに泊まることになる。そして、来週は、ヘルパーさんを中心にして、様子をみることにする。父親としては、大丈夫だというが、何となく心細そうだ。すぐしたの中津川に住んでいる弟が、できるだけ立ち寄るようにすることになった。今年のお正月には、場合によっては、埼玉でゆっくりしてもらってもいいと思う。当分は、父親が自分に自信を持つまでは、できるだけみんなで中津川に行くように確認した。

 今日は、中津川から帰って来てから、しばらくぶりにPCの前に座り、ブログを書いてみた。先週の金曜日から、仕事のこともあり、ブログにはかまっていられなかった。そのせいか、何となく気持ちはゆったりしていた。もう少し、落ち着いて、ゆとりを持って書いていくことにしようと思った。時々は、休んでみることもいいことだ。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドラッカーの有名な「三人の石切り工の昔話」

2004-11-10 22:58:11 | 政治・経済・社会
 会社で「石切り工の話」が出て、これどこかで聞いたことがあると思うが、知っているかと言う問い合わせがあった。私の記憶では20年くらい前に読んだP.F.ドラッカーの『マネジメント』と言う書物の中にあったような気がしたので、そう答えた。すると、「じゃ、丁度良かった。その本の詳しい情報と該当箇所のコピーが欲しい」と言う。家に帰ってきて、先ほどまでその部分を探していた。やっと、見つかった。
 本は、正確には、P.F.ドラッカー著『マネジメント 下』(ダイヤモンド社/初版昭和45年5月30日)であった。私の記憶では、注意書きのようなところに書いてあったような記憶があったので、そうした部分を探してみたが、見つからなかった。初めから順にページをめくりながら、ざーっと眺めたが、よくわからない。それで、googleの検索欄に「ドラッカー マネジメント 石切り工」と入れてクリックしてみた。何も引っかかって来ない。
 
 おそらく「石切り工」というのがまずいのだろうと考えて、「石切り工」を「石切工」に変えてみる。かかった。「ビジネス知識源2003年5月05日号:Vol148」と「2004年度社団法人日本青年会議所東北地区宮城ブロック協議会会長所信」が引っかかり、中を読んでみると、確かにドラッカーが言ったということで話の紹介がある。しかし、出典は明示されていない。特に後者は、ここまで書くのなら、出典を明示すべきだと思った。

 仕方がないので、さらに「石切工」を「石工」に変えてみる。今度は沢山ある。いくつか見てみると、唯一、「ドラッカーの「マネジメント」を一緒に読む」が出典を明示して、「24.目標管理と自己管理(P224~P230)」の中の 「有名な3人の石工の例」として紹介してあった。しかし、これは、『マネジメント - 基本と原則 [エッセンシャル版]』の方であった。この本は、私の持っている『マネジメント 上・下』を一冊にまとめたものだ。と言うわけで、大体の該当箇所がわかったので、「目標管理と自己管理」に近い「目標と自己規制による管理」のところを読み返してみた。「熟練技能は必要だが危険」という項目の中にあった。

 三人の石切り工の昔話がある。彼らは何をしているのかと聞かれたとき、第一の男は、「これで暮らしを立てているのさ」と答えた。第二の男は、つちで打つ手を休めず、「国中でいちばん上手な石切りの仕事をしているのさ」と答えた。第三の男は、その目を輝かせ夢見心地で空を見あげながら「大寺院をつくっているのさ」と答えた。(『マネジメント 下』p87)

 ここでドラッカーは、何が言いたかったのだろう。「企業の成員は、それぞれ違ったものを貢献するとはいえ、その貢献は、共通の目標に向かっていなければならない」という観点から、誰が「経営管理者」に相応しいかと問いかけているのだ。そして、「熟練技能は必要だが」そうした共通の目標をどこかにやってしまい、「熟練技能」それ自体が目的化されてしまう危険性があると言いたいのだ。つまり仕事が専門分化してくると、「目標による管理」を意識的に組織化しないと目標がどこかに行ってしまう可能性があるというのだ。ドラッカーの「マネジメント」の基本である。

 第三の男こそ、本当に「経営管理者」といえるのはいうまでもない。第一の男は、仕事から何を得たいか知っており、とにかくそれを首尾よくえようとしている。彼は、一日分の公正な支払いに対し、一日分の公正な仕事をすることであろう。だが経営管理者とはいえない。また将来も経営管理者にはなれないであろう。
 問題は第二の男である。なるほど熟練技能は必要なものである。事実、いかなる組織も、その成員に対し、それぞれがもっている技能を最大限に発揮するよう要求しなければ、その組織は退廃してしまう。しかし、本当の意味での職人とか専門家といった人は、実際には、石を磨いたり、脚注を集めたりしているにすぎない場合でも、何か大きなことをやっているのだと気負い込んでしまう危険があるものである。熟練技能は、企業でも奨励しなければならない。しかしそれは、つねに[企業]全体のニューズとの関連の下においてでなければならない。(同上p87・88)
 
 ところで、私は、何故他のことは忘れてもこの場面のことをよく憶えていたのだろうか。多分、自分の意に沿わない人事異動があり、それに不満を持っていたときにこの本を読んだらしい。そして、自分の仕事の意味づけをしたのだ。初めは、会社への批判としてこの本を読んでいたのだが、やがて自分の仕事そのものについて、なぜ不満を持つのか考えたのだと思う。そのとき、「三人の石切り工」の話を読んで、自分の熟練技能へののめり込みを自覚し、自分にとっては面白くない仕事だが、会社の大きな目標の中ではどうしても必要な仕事と考え直していたのだと思う。

 出版社はかつては、製造業に分類されていたが今では情報通信業になった。その出版という事業は、編集だけで成り立っているのではない。また1冊本を造れば終わりということでもない。本を造って販売し送り届けるという作業を繰り返すことによって事業となる。営業がおり、流通担当者がいる。さらには、当然のことながら総務や経理があり、システム関係の担当もいる。それら全てが出版という事業を支えているのであり、事業の目的は読者のニーズに合わせて的確な情報や知識を正確に、安く、速く送り届けることにある。そのように考えれば、編集以外の仕事もやりがいのある仕事であり、今後の技術の発展によっては出版の中心になることだってないとはいえない。実際に情報のデジタル化によって、本の造り方も販売の仕方も変わってきている。

 私は、第二の男だった。それが人事異動で外されたので怒っていたわけだ。自分の熟練技能が侮辱されたような気がして悔しかったのだと思う。それをこの本で反省させられた。最近また、「マネジメント」の重要さがあちこちで叫ばれているが、30年以上も昔に書かれたこのドラッガーの『マネジメント』は今でも十分に面白い。あちこちに「石切り工」の話のようなエピソードがちりばめられており、私はこの分厚い上下巻の本をまるで文芸書かドキュメンタリーを読むかのように読んだ記憶が蘇ってきた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする