電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

●ライターという職業について

2024-06-23 11:38:12 | デジタル・インターネット
 2024年6月13日付けの「デジタル新文化」で次の記事を読んだ。

<「嫌われる勇気」300万部突破/ダイヤモンド社発売10年半で/同社全書籍で歴代1位/世界40の国・地域で翻訳、1000万部超
 ダイヤモンド社が刊行する岸見一郎/古賀史健『嫌われる勇気』の発行部数が67刷目で300万部を突破した。2013年12月に発売して約10年半で大台に乗った。ビジネス書としては異例の記録。売行きは今も好調で、今後も様々な仕掛けで増売していく。>


 これまでダイヤモンド社の書籍のなかで売り上げトップは、岩崎夏海著『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』だったそうだが、今回はそれを超え、特に中国では300万冊のベストセラーになっているという。中国でなぜそんなに売れているのかは、いろいろな説があるが、自己肯定感が強く、日本より激しい競争社会を生き抜くには、「嫌われる勇気」は必要な資質なのかもしれない。

 私がこの記事に注目したのは、『嫌われる勇気』が岸見一郎と古賀史健の共著になっていることだ。ある意味では、古賀史健の名前が知れ渡ったのはここからだと思われる。これとよく似た作りの本に、養老孟司著『バカの壁』というベストセラーがある。もちろん、この本は、養老孟司が語ったことを編集者がまとめたものである。『嫌われる勇気』は、いわば岸見一郎と古賀史健の対話をもとにしてできあがった本なので、共著でいいのだとは思うが、ここで初めて「ライター」が表に出たというべきかもしれない。『バカの壁』には、編集者の名前は載っていない。

 同じ「デジタル新文化」の同日の記事に、児童書の購入の仕方の変化についての発言がある。

<また、本の選び方も変化しているようです。以前と比べて親御さんも子どもたちも自分で本を選ぶというより、アニメや映画などのメディア化作品やテレビ番組、SNSで話題になっている作品を購入する方が増えているように感じます。人気作品を手にする傾向が高まっているのは『購入して失敗したくない』という気持ちの裏返しなのかもしれません。>(「児童書で本好きを増やす」座談会のトーハン書籍部の下田祐美発現)

 そして、いつの頃からか、一般書に編集協力者やライター、編集担当者の名前が載るようになった。つまり、最終的には読者に安心して手にとってもらえるようになる。また、忙しい書店員に対するアピールにもなる。もちろん、それだけが本の内容の保証になるわけではないが、読者にも参考になる。実は、SNSなどの普及により、個別の読者が書店で実物を見聞して本を選ぶ際の参考になっている。この間の事情は、永江朗著『私は本屋が好きでした──あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏』(太郎次郎社エディタス/2019.11.25)で本の流注の業界(出版社⇔取次⇔書店⇔読者)の寒霞渓の変化について興味深い指摘をしている。

 ここまでは、余分も情報の紹介であるが、私が興味を持ったのは、『嫌われる勇気』の著者の1人の古賀史健についてである。そんな彼は、2021年にはダイヤモンド社から『取材・執筆・推敲──書く人の教科書』を書いた。ある意味では、彼が初めてライターとは何かを定義してみせ、どうすれば優れたライターになれるのかという教科書を提出してみせた。彼が想定していたのは、紙の本だったが、彼のライター論は、紙の本を超えて、ネットの時代になったからこそ余計重要になったのだともいえる。この本の中で定義されている編集者とライターの定義は、とても興味深い。

 古賀史健によれば、ライターというのは、「コンテンツをつくる人」であり、「コンテンツとは、エンターテイン(お客さんをたのしませること)を目的につくられたものである」という。
 それなら編集者は何を「編集」しているのか。原稿を編集するのは、あくまでもライターであり、そして編集者は、原稿の外側にあるものを、つまりコンテンツの「パッケージ」を編集する人間である。「誰が(人)」「なに(テーマ」」「どう語るか(スタイル)」のパッケージを設計していくのが編集者の最も大切な仕事だという。

 いま、「原稿を編集するのは、あくまでもライター」であり、そして編集者は、原稿の外側にあるものを編集(=設計)すのというように書いた。おそらく、このときの編集者とライターの役割を大事にしないといい本はつくれない。もちろん、編集者=ライターという仕事をしている場合は、編集者は、2重の役を果たすことになる。いままでは、ライターは影の存在で編集者が中心だった。それは、出版の歴史とともにあった長い蓄積がある。よき編集者もたくさんいる。だから、ライターはただ、編集者のオファーに応えていればよかった。しかし、いま、時代が変わりつつあるという。

<いま、ライターを名乗る人のほとんどは「ウェブ」を主戦場としている。それ自体はまったく自然の流れだし、ウェブメディアだからこそできることも多い。問題は、オウンドメディアを筆頭に、専業の──あるいはプロと呼べる──編集者をもたないメディアた急増していることだ。一般にウェブディレクターと呼ばれる彼らの多くは、アクセスデータを読むことはできても、編集ができない。進行管理はできても、編集ができない。そのため、つくられるコンテンツの多くは「いま流行っているもの」や「最近数字がとれたもの」の後追いになってしまう。残念ながら世のなかにあふれるコンテンツの質、その平均値は明らかに減退している。>(『取材・執筆・推敲──書く人の教科書』より)

 これを超えるには、ライターは、これまで以上に「編集」に踏み込む以外にないという。そして、人気を集めているライターは、文章力以上に「編集力」の確かさで支持を得ていると主張している。つまり、ラインターも編集力を身につけるほかないが、それでもライターとしての役目の自覚も大事だという。古賀史健は、「ライターとは、空っぽの存在である」という。だからこそ、ライターは取材するのであり、自分と同じ場所に立つ読者に代わって、取材するのだという。

<小説家が小説を書き、詩人が詩を書き、エッセイストがエッセイをかくのだとした場合、ライターは何を書いているのか?
 取材したこと、調べたことをそのまま書くのがライターなのか?
 違う。絶対に違う。僕の答えは、「返事」である。>(同上より)


 古賀によれば、「取材者」であるライターは取材相手への返事を原稿にしているのだという。

<ライターは、取材に協力してくれた人、さまざまな作品や資料を残してくれた作者、あるいは河川や森林などの自然に至るまで、つまり空っぽの自分を満たしてくれたすべての人や物ごとに宛てた、「ありがとうの返事」を書いているのである。>(同上より)


 この本では、「返事としてのコンテンツ」をどのようにつくるのか、「取材・執筆・推敲」の過程を通して、具体的にとてもわかりやすく説明されている。現在「言語化」という言葉が流行っているが、ここに本来の意味での「言語化」の作業の大切さ面白さが、古賀史健の経験を踏まえて書かれている。そして、ライターの奥深さが理解できる。もともと著者として出発した人を別にして、編集者からライターに変身しようとしている人にとってとても大切な基本が書かれていると思った。特に、前の経験に引きずられることなく、常に新たに、自分を空っぽにして取材から始めるということは、とても大切なことだと思った。
コメント
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