電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

「篤姫」が終わった

2008-12-15 19:30:28 | 文芸・TV・映画

 「篤姫」の最終回は、28.7%で、これまで最高の29.2%には及ばなかったものの高視聴率を維持したままだった。「篤姫」の初回から最終回までの期間平均視聴率は24・5%だそうだが、日本人の4人一人は見ていたことになる。前年の「風林火山」が21.0%だったので、かなりすごいことだ。私も、妻と二人で、ほとんどの回を見た。妻は、着物が好きで、きれいなシーンを喜んで見ていた。私は、独特の歴史解釈を楽しんだ。いろいろな人が、いろいろな楽しみ方をできる大河ドラマだったと思われる。

 産経新聞が、「篤姫」の人気を次のように分析していた。「若々しさと明るさ」と「共演者たちの魅力」ということのほかに、ドラマの仕組みが「ディズニープリンセス大河」のドラマ構造になっていたことだという。これは、ドラマ評論家の小泉すみれさんの命名だそうだ。「主人公は愛情に満ちあふれた中で育った賢い女の子で、王子様(家定)は暗愚なふりをしているが実はすてき。描き方がすごく親しみやすい。もめ事の多い大奥でありながら周囲の動きもコミカルに描かれ、見ている人に分かりやすい」という。そして、「薩摩時代も、大奥に入ってからも、基調は『家族・親子・夫婦の絆』であり、それを前面に出した文字通りのホームドラマだったことが、成功の要因だろう」と山根聡さんが述べていた。

 「篤姫」の成功は、おそらく、この山根さんの分析の通りだと思う。ただ、私は、「篤姫」を見ながら、ドラマの展開の仕方の面白さとは別に、「家族」のとらえ方と西郷と大久保たちのとらえ方に興味を持った。「家族」についていえば、「篤姫」の家族は、女系家族なのだと思う。そして、多分、現代の家族は、母親を中心として営まれているのだ。男たちは、ある意味では脇役でしかない。これが、20代から40代までの女性たちに受け入れられた家族像なのではないかと思われる。我が家も、どちらかというと女系家族で、私の親族などは、ある意味では脇役だ。つまり、我が家は、妻や妻の母親が中心に回っている。

 益田ミリ著『結婚しなくていいですか。──すーちゃんの明日』(幻冬舎/2008.1.25)というのは、香山リカさんも「号泣」したというコミックだが、この中に出てくるのも一種の女系家族なのだ。男は、単なる脇役でしかない。だから、結婚しないということでもあるのだが、家族は母親を中心にして成り立っている。しかも、母親は育児をしたり、料理をしたりするが、女は育児をしたり料理をしたりするわけではないのだ。だから、ますますもって、女は結婚などできないことになる。ここにある「家族」論は、個と共同体との狭間にあって、揺れ動いている現代の「家族」を見事に言い当てている。

 ところで「家族」は「性」の問題だが、「個」や「共同体」は、人間の問題である。人間としてどう生きるかは「個」や「共同体」の問題であるが、「性」としてどう生きるかは家族の問題なのだ。そして、「性」の問題であるにもかかわらず、自らの「女」という「性」を拒否したところで「家族」が考えられているのだ。そこに、現在の「家族」の特色と異常さがあるのかもしれない。不思議なことに、篤姫や和宮も含めて「篤姫」の大奥には、「性」のどろどろした何かがないのだ。そして、必然的に子どもは、どこかからやってくることになる。私にはそれが不思議だった。なぜなら、大奥という所は、家定以前の場合は、徳川家の世継ぎを作るところであったはずだからだ。

 そして、「篤姫」のもう一つの歴史的な興味は、坂本龍馬を誰が殺したかということだ。小松帯刀と坂本龍馬を新しい日本を本当に考えた理想派だとすれば、まず徳川家をぶっつぶすことから始めなければ新しい時代はやってこないという、西郷隆盛や大久保利通、岩倉具視たちは現実派である。最終回を除けば、大河ドラマ「篤姫」の展開では、坂本龍馬も小松帯刀もそうした現実派に吹き飛ばされてしまったという描き方がなされている。私には、「篤姫」の作り手たちは、坂本龍馬を暗殺したのは、多分西郷たちだと考えていると思われた。龍馬暗殺を指示したのが薩摩藩の西郷たちだと指摘した説はいくつかあるが、私がいちばん面白かったのは、高田崇史著『QED 龍馬暗殺』(講談社NOVELS/2004.1.10)だ。

 実際に斬ったのは、今井信郎たち見廻組だろう。しかし、彼らが龍馬の居所を知るはずもなく、また見廻組の犯行ならば暗殺という手段には訴えなかっただろう。なぜならば寺田屋事件以来、龍馬は指名手配になっていたからである。堂々と名乗りを上げるはずだ。それなのに、証拠隠滅どころか、偽の証拠まででっちあげようとした。
 一方龍馬はその頃、武力討伐派の薩摩にとって非常に邪魔な存在になっていた。しかも、徳川慶喜を養護するような態度すら見せていた。薩摩にしてみれば、これは明らかな裏切り行為だった。
 自らの転身は認めても仲間の変節は許さないのは、革命家の常だ。そこで──粛正された。(同上・p307)

 最終回の西郷隆盛や大久保利通に描き方は、ある意味では、明治維新のためになくなった人たちへの贖罪のようなものだ。明治維新が行われるまでに、新しい時代を模索していた優秀な人材がことごとく獄死したり、暗殺されたり、また病で死んでいったりして、ある意味では明治政府は明らかに人材不足だった。ドラマはシンプルさを出すために、あたかも明治政府は西郷や大久保ら数人で運営されていたかのように描かれているが、もっといろいろな人々が関わって混乱していたはずだ。そんな中で、突出した薩摩藩の人たちは、皆不幸な末路を迎えている。そういえば、次の次の大河ドラマは坂本龍馬である。そのために、布石なのかもしれない。

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