電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

「努力すればむくわれる」

2007-02-12 20:46:52 | 子ども・教育

 ベネッセ教育研究所の第4回学習調査によれば、子どもたちの学習時間は小中学生とも増加しているが、「日本は、努力すればむくわれる社会だ」という項目では、「小学生の68.5%が肯定している(「とてもそう思う」+「まあそう思う」)のに対して、中学生では54.3%、高校生になると45.4%と、学校段階が進むにつれて低くなる結果がみられました」という。逆に、「日本は、競争が激しい社会だ」「お金がたくさんあると幸せになれる」という項目では、増加する傾向を示している。これは、おそらく子どもたちの社会観の変化だけの問題ではないと思う。

 東京学芸大学の山田昌弘教授の『新平等社会──「希望格差」を越えて』(文藝春秋/2006.9.15)は、9章の「教育格差──希望格差社会とやる気の喪失」というところで、「勉強という努力が報われない」という問題として、教育に対して、独特の見解を示している。

 学力低下の問題を、ゆとり教育による教育内容の削減や学校週五日制、学校の先生の教え方が下手になったなど、学校教育現場の問題のみに還元してはならない。いくら優れた教育プログラムを用意しても、いくら先生の教え方が上手でも、学ぶ側に学ぼうとする意欲がなければ効果は上がらない。逆に学校教育が不十分でも、塾や家庭で勉強すれば、学力はつくのである。はっきり言って、10年前まで、日本の生徒が国際的に学力が大変高かったのは、受験塾から補修塾まで様々なレベルの塾や家庭学習など、学校外の学習時間の多さによるものだったと思っている。すると、塾に行って勉強したり、家庭学習をしない子が増えたことこそが、学力低下の原因であろう。(『新平等社会』p240より)

 教員養成大学の教授の発言にしては、かなり大胆な発言だというべきである。しかし、わたしは、山田教授の意見にほとんど賛成だ。先ほどのベネッセ教育研究所の調査で見られた子どもたちの社会観が「学ぶ意欲の喪失」を見事に示している。

 学力低下という現象は、「教育という領域で勉強という努力が報われない」という状況が拡がったから起きた現象ではないのか。勉強してもしなくても将来が変わらないと思えば、勉強に身が入らないだろう。そして、勉強努力が報われないという状況は、一方で、実際に苦労して勉強してもその努力が無駄になり絶望感に襲われる若者も生み出しているのだ。
 戦後、高度経済成長を経て、1990年頃までは、「学校教育」は、希望の象徴だった。それは、あらゆる生徒にとって、「勉強という努力が必ず報われる」という勉強努力保障システムが構築されていたからである。(同上・p242)

 山田教授によれば、戦後教育は、優れた「パイプライン・システム」ができていて、学校のコースによって、生徒たちの将来をうまく決めていたという。そして、誰もがそれなりの努力をすれば、一定の幸せを達成することができたという。しかし、このシステムは、1990年後半ごろからのニューエコノミーの登場によってパイプの出口に変化が起きてきたという。ものを作って売るという工業が主流であった時代から、情報やサービス、知識、分化などを売ることが経済の主流になってきた時代への変化である。この社会では、将来が約束された中核的、専門的労働者と熟練が不要な使い捨て単純労働者へ、職業を分化させるという。

 工業高校を出ても正社員になれない人、女子短大を出ても企業一般職になれない人、文系大学を出ても上場企業のホワイトカラーになれない人、そして、大学院で博士号をとても、大学専任教員になれない人が溢れ出す。それが、さまざまなレベルでのフリーターの出現となって現れる。彼らは、学校が想定する職に就くという「ささやかな夢」さえもかなえられなくなっている。
 そして、重要なのは、パイプがなくなったわけではないことである。大卒だからといってホワイトカラーにならないということは、大学に行かなくてもいいことを意味しない。大学に行かなければホワイトカラーになることはもっと難しいと言うことである。これは学校教育のリスク化と二極化が起きたと言ってよいだろう。(同上・p248)

 こうした状況が、子どもたちの、「日本は、競争が激しい社会だ」「お金がたくさんあると幸せになれる」という意識となって現れていると考えてもよさそうだ。私たち(団塊の世代)が、就職した頃は、学校を卒業して企業に就職することによって、将来が保障されたのであり、逆に決まったレールに乗って生きていくことに閉塞感さえ抱いていたものだ。しかし、今では、そうしたレールさえ不確かなものとなり、競争に晒されている。便利で、都合の良い携帯を開発するものがいれば、その携帯を肌身離さずに持っていないと落ち着かない人がいる。ただ、現在では、携帯を開発すること自体も競争社会であって、生き残りが大変難しい状況になっている。誰が、勝者で誰が敗者かは、明日になってみなければ分からないというべきかも知れない。

 文部科学省の「人間力」から始まって、色々なところで、「○○力」という言葉が氾濫している。誰もが「能力」を鍛えなければならず、鍛えられて「能力」は常に競争に晒されることになる。若者たちは、老人たちと違って、「能力」をつけること自体が、自分たちの将来を決めることになる。それだけ、大きなプレッシャーになっているに違いない。そして、いま、「学力向上」という名の下に、「競争」そのものが白日の下に晒されようとしている。それは、はっきりしたという点からでは、いいことだと思われるが、本当に「学力」の向上に結びつくかどうかは、定かでない。なぜなら、学力の二極化は競争の結果であって、「学力低下」の原因ではあり得ないからだ。現在は、本当に、努力しても報われない時代なのであろうか。

コメント (1)
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