誰でもそうだったようだが、教科書の文章はつまらなかったが、親に内緒で読んだ小説はとても面白かった。同じように、「勉強」は嫌だったが、「教養」には憧れていた。私よりずっと若い世代に属する斎藤孝さんも同じような気持ちだったと言う。しかし、斎藤さんは、その「勉強」の重要さと楽しさや面白さを説いている。中・高校生向けに書いた『斎藤孝の勉強のチカラ!』(宝島社/2005.2.3)は、「勉強は僕らに生きる力を与えてくれる」ということを訴えている。斎藤さんによれば、生きる力を支えてくれるのが「教養」ということになる。つまり、「勉強」と「教養」は本当は地続きだというのが斎藤さんのいちばんに言いたいことのようだ。
斎藤さんが『座右のゲーテ 壁に突き当たったとき開く本』(光文社新書)を書いたのがよく分かる。ゲーテは、ドイツ教養主義の時代の文豪だ。少し前に、山形浩生さんが『新教養主義宣言』(晶文社/1999.12)を書いているが、何となく最近また、教養ということが見直されているようだ。「勉強」とは、多分「学ぶ」ことと言い換えてもいいし、「教養」とは多分「知」または「文化」ということを指している。
ところで、なぜ、「勉強」であり、「教養」なのだろうか。斎藤さんは、「受験勉強を通じて行ったトレーニングが、仕事をする能力の基礎になっている」とか、「勉強すること、勉強そのものが、人の能力を磨く、ひいては社会で活躍できる人材を作る」と言う。そして、「日本社会を覆っている、勉強を否定し、学ぶことそのものをないがしろにする空気」を批判している。私の考えでは、斎藤さんは「ゆとり教育」の中で、安易に「個性」と言うことを理由に「学ぶ」ことから逃避していく子どもたちに対して、「勉強」というトレーニング的な側面をもつ言葉を敢えて選んで使うことによって、自分から努力して乗り越えていくという「勉強」の面白さを強調したかったのだと思う。
「感動」については読書で、「習熟」についてはスポーツで私たちは実感することができる。斎藤さんは、そうした「感動」や「習熟」の楽しさは、勉強の中で味わうことができるし、「勉強」することは本来そういうものだと言いたいらしい。この本が、中・高校生に向けられて書かれているからかも知れないが、「勉強すると頭が良くなる」「受験勉強で育つ『段取り力』が仕事に生きる」「勉強をすると仕事にタフな人間になる」「受験で得る『自己客観視力』」「勉強でしか身につかない、言語能力の重要性」など「勉強」の効用も書かれている。
それならば、「教養」という言葉にはどんな意味が込められているのだろうか。この本の第4章は、「『教科』の楽しみと学び方」となっている。そして、「各教科の感動を発見しよう」ということで、国語、古文・漢文、英語、数学、物理、生物、科学、歴史、地理の楽しさ、面白さを解説している。つまり、「教養」とは、あらゆる分野に向かって延びていく知的好奇心を支えている原動力のようなものとしての「知」をさしているようだ。今や中学生の90%以上がが高校へ進学し、更に高校生の50%以上が大学へ行く時代だ。そのとき、彼らの身につけているべきものは、あらゆる可能性を持った「教養」であるべきなのかも知れない。
これまで、斎藤さんはたくさんの本を書いてきた。特に、教育関係の書物は圧倒的に多く、しかもそのうち多くがベストセラーになっているが、斎藤さんの本は大人もそれなりに楽しんで読むことができる。斎藤さんの本に共通するテーマが、実はいつもこの「勉強」と「教養」ということだったということに驚かされる。「ゆとり教育」の批判や「学力低下」論争などを通じて、私たちは、子どもたちではなく、実は自分たち大人の「勉強」や「教養」を本当は問題にしていたのかも知れない。
斎藤さんが『座右のゲーテ 壁に突き当たったとき開く本』(光文社新書)を書いたのがよく分かる。ゲーテは、ドイツ教養主義の時代の文豪だ。少し前に、山形浩生さんが『新教養主義宣言』(晶文社/1999.12)を書いているが、何となく最近また、教養ということが見直されているようだ。「勉強」とは、多分「学ぶ」ことと言い換えてもいいし、「教養」とは多分「知」または「文化」ということを指している。
ところで、なぜ、「勉強」であり、「教養」なのだろうか。斎藤さんは、「受験勉強を通じて行ったトレーニングが、仕事をする能力の基礎になっている」とか、「勉強すること、勉強そのものが、人の能力を磨く、ひいては社会で活躍できる人材を作る」と言う。そして、「日本社会を覆っている、勉強を否定し、学ぶことそのものをないがしろにする空気」を批判している。私の考えでは、斎藤さんは「ゆとり教育」の中で、安易に「個性」と言うことを理由に「学ぶ」ことから逃避していく子どもたちに対して、「勉強」というトレーニング的な側面をもつ言葉を敢えて選んで使うことによって、自分から努力して乗り越えていくという「勉強」の面白さを強調したかったのだと思う。
学ぶことで得られる興奮や歓び。これを勉強という面から見ていくと、大きく2つの柱で成り立っています。ひとつは「感動」、もうひとつは「習熟」です。学ぶこととは、この2つに尽きると思います。
まず「感動」とは、発見の驚きや歓び。知らないことを知ったとき、疑問に思ったことが解決したときの「そうだったのかー!!」という感じのことです。(中略)
習熟の楽しみとは、「できるようになること」自体がおもしろいということです。(P46・53)
「感動」については読書で、「習熟」についてはスポーツで私たちは実感することができる。斎藤さんは、そうした「感動」や「習熟」の楽しさは、勉強の中で味わうことができるし、「勉強」することは本来そういうものだと言いたいらしい。この本が、中・高校生に向けられて書かれているからかも知れないが、「勉強すると頭が良くなる」「受験勉強で育つ『段取り力』が仕事に生きる」「勉強をすると仕事にタフな人間になる」「受験で得る『自己客観視力』」「勉強でしか身につかない、言語能力の重要性」など「勉強」の効用も書かれている。
それならば、「教養」という言葉にはどんな意味が込められているのだろうか。この本の第4章は、「『教科』の楽しみと学び方」となっている。そして、「各教科の感動を発見しよう」ということで、国語、古文・漢文、英語、数学、物理、生物、科学、歴史、地理の楽しさ、面白さを解説している。つまり、「教養」とは、あらゆる分野に向かって延びていく知的好奇心を支えている原動力のようなものとしての「知」をさしているようだ。今や中学生の90%以上がが高校へ進学し、更に高校生の50%以上が大学へ行く時代だ。そのとき、彼らの身につけているべきものは、あらゆる可能性を持った「教養」であるべきなのかも知れない。
これまで、斎藤さんはたくさんの本を書いてきた。特に、教育関係の書物は圧倒的に多く、しかもそのうち多くがベストセラーになっているが、斎藤さんの本は大人もそれなりに楽しんで読むことができる。斎藤さんの本に共通するテーマが、実はいつもこの「勉強」と「教養」ということだったということに驚かされる。「ゆとり教育」の批判や「学力低下」論争などを通じて、私たちは、子どもたちではなく、実は自分たち大人の「勉強」や「教養」を本当は問題にしていたのかも知れない。