電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

「人気度がすべてを決める」という堀江貴文社長の発想

2005-03-05 10:10:49 | デジタル・インターネット
 ライブドアとフジテレビによるニッポン放送の株式の攻防は、トヨタ自動車が中立の立場を表明したことによって新しいステージに入った。フジテレビのTOBは、3月7日が期限だが、株主のことを配慮したトヨタの態度表明は、いまだに態度保留をしていた大株主にある程度の影響を与えるものと思われる。そうした中で、会社の同僚から、「新聞・テレビを殺します」 ~ライブドアのメディア戦略という江川紹子さんのライブドアの堀江社長に対するインタビュー記事を教えて貰った。その中で、堀江社長が、記事の選択を読者の判断に任せ、インターネットでの人気ランキングによって記事を編集するということを言っていたのを目にして、ついにこういうことを正面からいう人が出てきたのかということにある種の衝撃を受けた。
 江川さんは、堀江社長の「人気度がすべてを決める」という発想に対して、マスコミの「"志"の功罪」を認めながらも、少数意見や多様な意見を採り上げるマスコミの良さを無視してはいけないと述べていた。これに対して、堀江社長は、一貫して、人気のない記事は人気がないのだから載せる必要はないと主張していた。それは、極端のようだが、本当は視聴率を気にして番組編成を考えているだけなのに、まるでマスコミには高邁な使命があるかのように話すマスコミ人に対する痛烈な批判であると思う。堀江さんは、マスコミにケーションの新聞記事にまで、「売れる商品はいいものだ」という論理を徹底させていると考えてよい。

――ある程度の方向性がないと、何でも載せますというわけにはいかない。
 いいんじゃないですか。自分で判断して下さい、と。それで、世の中の意向はアクセルランキングという形で出てくるんですから、その通りに順番並べればいいだけでしょ。
――みんなが注目すると大きく扱われるが、埋もれている話を発掘できないのでは?
 埋もれていることを発掘しようなんて、これっぽっちも思ってないんですってば。そういうのは情報の受け手、興味を示す人が少ないわけですから。ニッチな情報なわけですから、いいじゃないですか。一応ネットには載せておきますから、(興味のある人が)勝手にアクセスして下さい、と。

 私は、この記事を読みながら、堀江さんにビートたけしさんのような感性を感じた。ビートたけしさんもまた、多少露悪的な表現を使って、刺激的な発言をしながら、鋭い文明批評をしていた。かつて吉本隆明さんが、テレビに対して、それぞれの番組にはそれぞれの制作者の思いが入っているのは当然だが、全体として見たときにはその行為にある文化的な意味づけをすることに対して批判し、「テレビというものは面白ければいいのだ」という意味のことを言っていたことを思い出す。心の中では、どんな志を持ち、どんな思いを持っていても自由だが、資本主義社会の中の商品となった番組は、そんな制作者の思いやイデオロギーなど無視して、商品の論理で流通していくことになる。そして、その一つ一つの商品の価値は、買い手が自分で決めることだ。わざわざマスコミのスポンサーに決めて貰う必要は無いわけだ。

 堀江さんの理論の面白さは、しかし、その先にある。テレビの番組をこれから売り出す商品と考えてみる。たくさんの企画があり、たくさんの能書きがある。そのどれに投資しいくべきかというのが、テレビ放送局の戦略になる。結果的には選択しなければならない。堀江さんは、このとき、それは、インターネットでの人気ランキングで決めればいいのであって、そこにどんな意味も持ち込む必要はないと言っていることになる。堀江さんの核心は、この「人気ランキング」をつくるシステムにある。

 投資ということについては、ケインズの有名な「美人投票」の比喩がある。ケインズは、『雇用・利子および貨幣の一般理論』(ケインズ全集第7巻・東洋経済新報社/1983.12.8)の中で、資本主義社会の投資を美人投票にたとえて説明している。この場合、投資家のなすべき行為は、誰が美人かを自分の判断で決めるのではなく、みんなが誰が美人だと思うかを当てることだという。例えば、株式はそれ自体の価値によって決まるわけではなく、みんなに人気がある株式に価値があるのであり、将来人気が出そうな株式に投資することが重要だということだ。そのことを、ケインズは次のように述べている。

 玄人筋の行う投資は、投票者が100枚の写真の中から最も容貌の美しい6人を選び、その選択が投票者全体の平均的な好みに最も近かったものに賞品が与えられるという新聞投票に見立てることができよう。この場合、各投票者は彼自身が最も美しいと思う容貌を選ぶのではなく、他の投票者の好みに最もよく合うと思う容貌を選択しなければならず、しかも投票者のすべてが問題を同じ観点から眺めているのである。ここで問題なのは、自分の最前の判断に照らして真に最も美しい容貌を選ぶことでも無ければ、いわんや平均的な意見が最も美しいと本当に考える容貌を選ぶことでもないのである。われわれが、平均的な意見はなにが平均的な意見になると期待しているかを予測することに知恵しぼる場合、われわれは三次元の領域に到達してしている。さらに四次元、五次元、それ以上の高次元を実践する人もあると私は信じている。(p157)

 ここに投資の難しさがある。もうけが大きくなればリスクも大きくなり、それは投資というより、投機に近くなる。私たちの出版業界で言えば、100本の企画から6つの企画を選んで出版するときの判断をどうしたらよいかと言うことであり、新聞の1面で考えれば100個のトップ記事中から6つの記事をトップに持ってくるととしたらどれにするかということでもある。それは、投資ではなく、出版社のポリシーであると言う考えもある。しかし、資本主義社会の商品は、投資されない限り商品化されないであり、それは、出版社の単行本でもそうであり、新聞の記事でもそうだと考えるべきだという考え方もある。そして、投資は、ケインズは基本的には「美人投票」の結果を当てることと同じだという。

 堀江さんは、インターネットを利用できれば、投資のような難しいことを考えなくても選択が可能だと言っているように見える。それが、彼の「人気ランキング」ということの意味のように思われる。堀江さんがランキングだけが重要で、記事の内容には興味が無いという言い方をしているのは、おそらく、内容にこだわるとおかしくなるということを知っているからだと思われる。マスコミが、記事の内容の特定の事実だけにこだわりそのために記事全体がおかしな論調になっていくことを盛んに指摘しているのは、そのことだと思う。それは、自分が時の人で、いつも新聞記事に載っているだけに、よけい実感しているのだと思われる。ただし、「人気ランキング」に従って編成した新聞が本当に売れるかどうかは、これまた、予測不可能だというほか無い。なぜなら、堀江さんも指摘しているように、紙の世界は紙の世界で、また別の「美人投票」が行われているからだ。

 マスコミケーションがインターネットというものが登場して変わりつつあることだけは確かだ。堀江さんの考えにどれだけ普遍性があるか分からないが、いままで「文化的価値」というようなもので粉飾されていた「対象(商品)」を裸の「対象(商品)」にして見せたことだけは確かのようには思われる。蒸気機関が発明されて50年後ぐらいに鉄道がしかれ、交通革命が起こったように、コンピューターが開発されて半世紀後にインターネットが大衆化した。これから、どのような情報の流通が行われるのが未知数ではあるが、堀江さんの登場は、マスコミュニケーションが確実に変わりつつあることの象徴のような気がする。
コメント (2)
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