NANNJYAIブログ

人生は旅、利他愛こそ人の道しるべ!

「幽顕問答」-Ⅵ

2006-04-30 15:43:00 | 日記
・・・・・いよいよ石碑を建立する段となり、何処に立てるかを検討することになり、その土地一帯の産土神社の宮司・山本参河(みかわ)を呼んで相談する。

・・・・・依頼を受けて来た宮司・山本氏は白衣に袴を着用し、病人の上座に席を取った。むろん、それまでの経緯については何一つ知らない。

・・・・・そこで宮司・大門と伝四郎の二人でそれまでの経緯を話し聞かせ、石碑を何処に設置すべきか意見を聞きたいと言うが、宮司・山本はすぐには合点がいかず茫然ととして無言。

宮司・大門・・・貴殿のご不審はもっともなれど、拙者の調べによれば、これがまさしく一人の武士の霊なることはもはや一点の疑いもござらぬ。

それゆえ石碑建立の議も承諾いたしたり。ただし、貴殿をはじめ一座の方にいささかなりとも疑いあれば、腑におちるまで直接その霊に問われて結構でござる。

・・・・・と言うと、三、四十人の一座の者たちも口々に・・「誠に恐れ入ったる霊魂にござる。一点の疑念もなし。」・・と言うのだった。

・・・・・その後、いくらかの宮司・山本の一般的な質問などがあり、場所もきまり、どんな形にして鎮むるかを質問する。

武士の霊・・・ともかくも修法どおりに為し給え。その法に従いて還(うつ)り申さん。

宮司・山本・・・白木の箱に零璽(れいじ)をおきて、それに鎮むる法もあり。

・・・・・武士の霊もそれを承知し、早速製作にかかり、用意もできたので

宮司・山本・・・さて、箱もすでに出来上がり、海水にて洗い清めおきたり。追々還り給え。

武士の霊・・・まことにご苦労に存ずる。用意万端整いなば、即刻還り申すべし。

・・・・・いよいよ別れとなると、一同、若干の寂しさもあり、又、聞き逃したこともあり、再度、武士の霊に質問する。

漢方医・吉富・・・いよいよ離れられる段になりては、いささか名残り惜しき心地せり。今少しお尋ねしたき儀がござるが・・・・。

・・・・・そこで、質問がでる。・・霊界に帰るとそのまま永遠に同じ状態でいるのか? 時とともに変化するのか、形態はどのようになるのか??と

武士の霊・・・されば一言語りおくべし。尋常に帰幽せる霊は同気の者にかぎりて一所に集まりおれど、そはただ居所が同じというまでにて、多くの霊が一つになるにはあらず。

志の同じ者は幾人にても集合して一つになることあれど、そは一時のことにて、万代までも一つになるにはあらず。

霊の形は顕世と同じく、折にふれて少しは変わることもあり。また、中には主宰の神のお計らいにて再び顕世に生まれくる者もあり。

それらのことは長く霊界におれば、次第に明らかになるものなれど、奥深きことは拙者がごとき凡霊の遠くおよばざること甚だ多し。

顕世に在りし時、忠孝その他の善事を務め、誠実に心を尽くしながら報われずして帰幽せる者は、霊界にて報われて魂は太くかつ徳高くなり、現世にてその報いを受けたる者は、帰幽後は人並みの扱いを受くるに過ぎず。

さらに又、帰幽後に新たに功を立てて高くなる霊もあれば、現世にては善人なりしが、帰幽後に怒り(憎悪)を抱きて卑しき霊となる者もあり。

先月も申したるごとく、在世中に見たることは死後もよく覚えおれど、死して後の現世のことは、よくよく意念を集中せざれば明らかには知り難きものなり。

霊の世界も現世と同じ如くに認知せらるるものなり。これを思えば、貴殿のごとく霊のことに心を止められれば、死後の事情も知らるることもあるべし。

死して後は現界のことを知り得ても一向に益なし。これを思えば、現世にある者がみだりに死後の事情を知りても為にはならざるべし。

さらば諸宗(いろいろな宗教・宗派)が説ける俗説に惑わさるるべからず。

・・・・・そういい終わった頃に御霊還(みたまうつし)の儀式の準備ができ、その事を宮司・山本氏から告げられると

武士の霊・・・さてさて時を得て願望成就し、悦ばしきこと、これに過ぐるものはござらぬ。

・・・・・といって涙をながして喜び、今後この家に凶事の兆しがある時は、私が守護してあげます。と言って市次郎の体から離れていった。

その後市次郎の快復は目覚しく、九月二十九日には完全に平常に復した。

現在でもその末裔と近所の人たちが、七月四日にはささやかなお祭りをしています。百五十年余の歳月を一度も欠かすことなく祀られて、泉熊太郎の霊もさぞかしお喜びであろう。

・・・・・これにて、日本に残る唯一の記録概要案内を終了します。



「幽顕問答」-Ⅴ

2006-04-29 13:11:00 | 日記
武士の霊・・・なかなか然らず。考えてもみられよ。神を祀り魂を供養するは、たとえ人間界の催しとは申せ、そはみな幽界に関わることにあらずや。

故に、祭祀は神にも通じ霊にも通ずるものなり。金銭のやり取り、婚姻等の俗事は穢(けがら)わしければ、神霊はこれを見聞きするを避くなり。

霊となりては衣食ともに不要なるが故に、欲しき物もなく、ただ苦を厭(いた)い・・いやがるの意・・楽しみを思うのみなり。

さて、祭事もこれに感応して喜ぶ。人々俗事を忘れて親しく楽しむ心は幽界に通じ、祭られし神霊もこれに感応して喜ぶ。

喜べば自然に魂も大きくなり、徳も高くなり、祭りを行いたる者も幸福を受くるものにて、人間界より誠を尽くせば、その誠よく神霊に通ずる。

宮司・大門・・・帰幽せる霊はみな、各自の墓所にのみ居るものか?

武士の霊・・・常に墓に鎮まりたるは余の如く無念を抱きて相果てし輩(やから)か、あるいは最初よりその墓に永く鎮まらんと思い定めたる類にして、その数、いと少なし。

多くの霊の赴く先は、霊の世界のことゆえ言葉にては告げ難し。

宮司・大門・・・墓所に居らざる霊はいずこにて供養を受くるや。彼らもその供養の場を訪ねしものか?

武士の霊・・・地上にて幾百年も引き続きて行い来れる祭りごとは、幽界にても大体そのごとく定まれるものなり。

されば勝手に月日を改め、そのことを霊に告げずして執行すれば、それが為に却って凶事を招くことあり。

なぜと言うに、霊がいつもの期日を思い出し、祭りを受けに来るに、すでに済みたるを知り不快に思うが故なり。

地上にて同時に数か所にて祭祀を行なう時には、霊は数個に分かれてそれぞれの祭場に到り、祭りを受くるものなり。

たとえ百か所にて祭るとも、霊は百個に別れて百か所に到るべし。もっとも、余の如き者(地縛霊)は一つに凝り固まりて、その自由は得難し。

宮司・大門・・・墓所に居らざる霊はいずこに居るものか、おおよそにても承りたし。

武士の霊・・・霊の赴く先はそこここに多くあれど、そは現界に生を営む者の知らで済むことなり。ただ、死後、各自の落ち着く所はあるものと心得おればよし。

死したる後は生ける人間の考えおることとは大いに異なるものにて、生ける者の理解の及ばぬものなり。

理解の及ばぬことを言うは徒労なり、死すればたちまちに知れるものぞ。

・・・・・更に大門は仏教や儒教の教えを例にだして同じような質問をする・・儒仏の唱うるところ、いずれが実説なりや・・

武士の霊・・・儒仏の説くところを信ずるは、みなその道におもねる者のすることにて、その門に入りたる者を治むるための説にすぎず。

死後、人間の赴く先は地上にありて空中にあらず。もっとも空中にもあれど、そこは死後ただちに赴くべきところにあらず。

他界直後の霊の赴く場所が大地のいずこならんは、今あからさまには告げ難し。

宮司・大門・・・極楽浄土につきての仏説の当否は如何。

・・・・・微笑しつつ頭を左右に振り、しばらくしてから

武士の霊・・・極楽説は人の心を安んぜんがための手段方便にすぎず。

生前いかなる説を信じて死すとも、死後の実相とは甚だしく違うものにて、死後のことは死後に知らばよし。

人の世にあるうちは世の掟を守り、死後のことは世話を焼くにには及ばぬことなり。

宮司・大門・・・彼岸盆会(ぼんえ)には世俗みな霊を祀る慣わしなるが、かかる折に霊は実際に来臨するものか。

武士の霊・・・彼岸盆会は世俗おしなべて霊を祭る時と定めてあれば、霊界にても祀りを受くべき時と直感し、又、死せる人も盆会には必ず来るものと思い込みて死せるが故に、必ず現れ来るなり。されど、余のごとく無念にして相果て、死して祭られざる者は、盆会などには臨み難し。

ああ、生前武士たる身にてありながら、人体に憑きて怪しまれつつ石碑の建立を相願い、忌日の祭りを頼むとは、さてさて口惜しき限りなり。この胸中、推量し給われよ。

宮司・大門・・・世の禍(わざわい)はみな自然の為すところと思うがいかに。

武士の霊・・・無念骨髄に徹して死せむには、世に祟りを為すこと必定なり。世に知らせて無念を晴らさんがためなり。         
 
余がかくのごとく市次郎の体を苦しめるのも、その口を借りて積年の願いを漏らさんと思うが故なり。顕界(現世)にて受けたる無念は顕界より解きて貰わねば晴るることなし。

・・・・・以下、次回



「幽顕問答」-Ⅳ

2006-04-28 11:23:00 | 日記
武士の霊・・・さきにも言を尽くせしごとく、故ありて国を逃れし武士は国内のことは深く包むが法なりと言えるはご承知のはず。姓名・氏(うじ)素性もまた同じなり。

吾れ割腹を遂げ、無念に果てしのみか、その遺骸は砂をかぶりたるまま数百年そのままにして人並みならざれば、その間一日として苦痛を忘るる間なし。

幾度かこの家の者ならびに他家の者に知らしめんとしたれど、誰一人として悟る者なし。

されば、身体頑健と思いて憑けば、弱体にして死せし者もあり、己の苦悩を逃れんとして人を悩ますとは、さてさて拙(つたな)き運命(さだめ)の身の上なり・・・・・。

・・・・・そう述べて目に涙を浮かべ、しばしうつむいていたが、内心ついに観念したとみえ、やがて

武士の霊・・・紙と硯(すずり)を貸せよ

・・・・・と言って、それを受け取ると静かに墨をすり、紙面に「 泉 熊太郎 」と書いた。それを手にもって、

武士の霊・・・石碑は高さ一尺二寸にして、正面には・・七月四日・・と書けばよろし。この姓名は決して世に漏らすまじきぞ。

・・・・・と言い、改めて筆をとって石碑の形まで書き記し、さらに「七月四日」と書き添えた。宮司・大門は熊太郎の達筆の書を見て、これを身元の割り出しの糸口にしようと考える。

宮司・大門・・・そこもとはこれほど見事なる書をものする武士ならば、定めし文字を多く知りおることであろう。この用紙に貴家が仕えていた当時の国主の禄高、家老、中老の姓名、および領内の郡村名を記されよ。

・・・・・と尋ねるが、武士道とはそのようなことを明らかにするものではない、と拒絶する。それ以外のことなら・・いざ何なりと聞かれよ・・と答える。

武士の霊・・・その前に一言申し置くべきことあり。顕界(現世)の事情をみだりに幽界へ漏らすわけに参らぬごとく、幽界にも顕界に漏らすわけには参らぬ秘密があるものなり。

死後の世界は生前に考えおるものとはいたく異なるものぞ。そのことは、おのおの方も死すればたちまちのうちに悟るべし。

余は幽界の者なれど、かくの如く人体に憑りおり間は、幽界のこと、いと微(かす)かなり。

それと同じく、人体を離れて帰幽せば、人間界のことはすこぶる微かにして、心を込めしこと以外は明らかには知り難きものなり。

人間界に漏らし難き幽界の秘密、および人間が知りて却って害ある事は申すまじきゆえ、そのつもりで問われよ。

・・・・・と述べて端座する様は、威厳ある豪傑の武士を思わせ、病人の息子とはとても思えず父親・伝次郎もふだん息子に使っていたぞんざいな言葉が出なかったという。

宮司・大門・・・切腹してのち、そこもとは常に墓所にのみ鎮まりたるか?

武士の霊・・・多くの場合、墓所にのみ居たり。切腹のみぎりは一応国へ帰りたれど、頼りとする地もなく、ただただ帰りたく思う心切なるが故に、すぐに墓所に帰りたり。

宮司・大門・・・本国へ帰らるるには如何にして行かれしぞ?

武士の霊・・・行く時の形を問わるるならば、そは、いかに説くとて生者には理解し難し。いずれ死せばたちまちその理法を悟るべし。生者に理解せざることは言うも益なし。

百里千里も一瞬の間にて行くべし。

宮司・大門・・・しからば、そこもとは数百年の間この地に住めるなり。これより当時のこと詳しく聞かん。

武士の霊・・・死して霊となりたる者は顕世のことは知らぬものなり。霊は人間界のことは関わらぬが掟なり。

ただし、生存中に心を残し思いを込めたる事は、死してのちもよく知ることができ、またよく知れるが故に、苦痛が絶えざるなり。

およそ霊は人間界の成り行きは知らぬが常なり。されば世も詳しきことは知らず。ただ人体に憑きて、その耳目を借りおる間は、すべて知り得るものぞ。

さて余の如く人の体を借りるに当たりて、それを病ましむるは何故というに、人の魂は太く盛んなるが故に、これを病ましめざれば余の宿るべき場所の無ければなり。

気の毒なれど余は、市次郎を苦しめてその魂を脇へ押しやり、その空所に余の魂を満たしぬ。

宮司・大門・・・さらば人間界において弔祭(供養・祭礼)など催すも、幽界には通ぜぬことにならずや。

武士の霊・・・・なかなか然らず。考えてもみられよ。神を祀り魂を供養するは・・・・

・・・・・以下、次回

「幽顕問答」-Ⅲ

2006-04-27 11:12:00 | 日記
宮司・大門・・・「一つの願望とは何のことぞや。切腹したる時は何歳なりしや。姓名は何と名のられしぞ。」

武士の霊・・・余の願望は一基の石碑を建てていただく事それのみにして、その一事さえ叶えてくださらば、今夕にも当家を立ち退く所存なり。

その一念を抱きつつ時と人とを得ぬまま、ついに数百年の歳月を経て、今ようやくその機に臨むことを得たり。

切腹したるは、二十二歳の7月4日。次の、姓名の一儀に至りては、何分にも今さらあからさまに明かし難し。

宮司・大門・・・姓名を名のらずして石碑の一儀をたやすく受け合うわけには参らぬ。姓も名も無しに敢えてその事を為すは道にあらず。よってそこもとの望みは承諾できぬ。

漢方医・吉冨・・・宮司・大門の申せし如く、その方の姓名を名のらずば人の疑いは晴れまい。しからばその願いも成り難し。

武士の霊・・・武士たる者、故ありて密かに国を退きては、姓名をあかさぬが道なり。さりながら、名のらずしてはその一儀受け合い難しとの御意、一応もっともなり。受け合わずばこれまで人を悩ませし事、みなその甲斐なし。

されど、石碑建立(こんりゅう)の一儀を叶えてくださらば、さきに申せしごとく即刻引き上げ、市次郎も平癒に及び、以後は人を悩まさず、また、当家への祟りも止むべし。

祟りを止め、人平癒しさえすれば、明かし難き姓名を明かさでもよろしきにあらずや。かくまでも懇(ねんご)ろに取り計らっていただくからには、申してよき事ならば何故に包み隠しましょうぞ。武士道に外(はず)ればこそ包むなり。

宮司・大門・・・そこもとの申す筋合いは一応もっともなれど、姓名を刻まぬ石碑を建立するは、神道の方式に適(あ)わず。よってそれに背きてまで石碑を建つわけには参らぬ。

武士の霊・・・是非にも姓名を明かさざれば受け合えぬとのことか・・・・・・・。今となりては如何にせん。

姓名を偽るはいと易けれど、吾が本意にあらず。実名を明かさではまた道にあらず。君に仕えし姓名を私事の願いのために明かさではならざる身となり果てたるは、さても我が身ながらも口惜しき次第なり。

打ち明けざれば願望ならず、願望ならざれば、これまで人を悩ましたる事、みな徒労となるなり・・・・・・・。

・・・そう言って大きく嘆息する。ここで漢方医・吉富氏がたたみかけるように、是非とも名のってほしいと述べると、武士の霊はいかにも大名が平民に向かって述べる風情でこう述べた。

武士の霊・・・その方に一つ頼みがある。先刻の長剣、身にしみじみ忘れ難し。今一度あれなる人(宮司・大門)のご加持にあずかりたし。その方、ご苦労であるが、頼んでみてはくれぬか。

漢方医・吉富・・・いかなる剣なればそれほどまで慕われるや。

武士の霊・・・別段のわけありて申すにはあらず。ただただ尊く思うままにお頼み申すなり・・・・・。

・・・と言ったあと、独り言のように

武士の霊・・・さてさて、あの三振りの中の一振りが廻りめぐりて、いかにして・・・・・。

・・・と、何やら感動を禁じ得ない態度を示しながらうつむいた。

宮司・大門・・・今一度かの長剣にてご加持にあずかりたいとの件、かつまた、石塔を建立して祀りくれよとの件、さきに申せし如く、その方の姓名を明らかに名のることなくしては、軽々しく受け合うわけには参らぬ。包みなく明かされよ。右の二件の頼みと姓名の惜しさとは、替え難しとの心底か。

漢方医・吉富・・・これほど懇ろに申してもなお隠されるとは、如何なる理由ありてのことぞ。かくまで包むとあらば、もはやそこもとの願望は叶えられぬものと心得られよ。姓名なき者の願望は受け合い難しとの、宮司・大門氏の言葉は、もっともの義にあらずや。

武士の霊・・・さきにも言を尽くせしごとく・・・・・以下・次回に続く

「幽顕問答」-Ⅱ

2006-04-26 09:46:00 | 日記
それを受けて宮司・大門は、同席していた漢方医・吉富養貞のところへ行って蟇目・鳴弦の法の威力を説いて聞かせてやってほしいと頼み、自分は又奥の方に引っ込んだ。

何故、大門が自分から伝えずに漢方医・吉富氏に言わせたかについては、次のように釈明している。

「 このあとの数か条はみな医師吉冨氏を間において言い継がせたものである。先方が述べているのを聞きながら次に問うべき内容を考えるためである。この種の問題では直接談判では、とかく誤ることがあることは、こうした場面に何度も出会って心得たことである。但し、記録そのものは、煩わしさを省くために直談のように書いておく。」

宮司・大門の作戦は的中した。漢方医・吉富氏の説明が終わるや否や、市次郎は被っていた布団を押しのけて正座し、両手を膝に置いて一礼し、ついに口を開いてこう述べた。

武士の霊・・・これほどまで懇(ねんご)ろに正しき筋道を立てて申される上は、もはや何をか包み隠さん。

そこもとのご疑念はもっともなれど、余は怪物でも野狐のたぐいでもござらぬ。

元は加賀の国の武士にて、故あって父とともにこの地に至り、無念のことありて割腹せし者の霊なり。

これまで当家に祟(たた)りしが、いまだ時を得ずにまいった次第。一筋の願望あってのことでござる。

宮司・大門・・・何の目的あってこの地に来たり、いかなる無念のことありしか。又、いずこへ行くために来るか。この家にはいかなる縁ありしか。父も同じこの地にて死にたるや。

武士の霊・・・余は、父を慕いてはるばるこの地に来たりし者なるが、父はこの地にて船を雇い、単身、肥前の国(佐賀県)唐津へ赴きたり。

別れに際し父は、余に向かい・・・「汝は是非ともこのまま本国(加賀)へ帰れ。一歩たりとも余について来ることはならぬ。」・・・と言い放てリ。

この事には深きわけありて、今からあからさまには告げ難し。さらに余が乗船を乞うても、父はさらに許さず。・・・「どうしても帰国せぬとならば、もはや我が子にあらず。」・・・と申せり。

かくまで厳しく言われては子たる身の腸(はらわた)に徹して、その言に従うことなれり。

さりとて本国へは帰り難き仔細あり。父が出船せしのち、取り残されたるわが身は一人思い巡らせど、義に詰まり理に逼(せま)りて、ついに切腹して相果て、依頼数百年の間、ただ無念の月日を送りたり。

吾が死骸は切腹したるまま土中に埋められ、人知れず朽ち果てたり・・・・・。

そう述べた時には目に涙を浮かべ、世にも悲しげな表情だったという。この武士の家は加賀でも相当な誉れ高い家柄だったらしく、殿から三振りの刀を下賜されたほどだった。

ところがお家騒動があって父親が濡れ衣を着せられ、殿からお咎めを受けて国外追放処分となった。

その出国に際して当時十七歳だったその武士も是非お伴をさせて欲しいと願ったが、お前はたった一人の男児なのだから、家を再興してくれと頼み、母親にもその旨をしっかりといい含めて、一人出立した。

しかし、武士はその後も父を慕う思いを抑えきれず、母親の再三にわたる制止を振り切って、伝家の宝刀を携えて出国し、諸国を訪ね歩いて、実に六年ぶりに父と再会したのだった。

宮司・大門・・・その無念はさることながら、何故にまた、かくも長い間、当家にのみ祟りをなすや。他家祟られしことがおありか?」

武士の霊・・・「当家には故あって祟るなり。他家にも祟りしことはあるものの、ただ病気に罹(かか)らせるまでのことにて、かくのごとく言語を発したることは一度もござらぬ。

これまで当家に尋常ならざることの頻発したるは、余が遺骸の埋もれたる場所より通い来て為せる業にして、同じ災厄(やく)が代々起こりしものも、みな余の所為でござった。

早くそれと気づいて祀ってくれなば有難かりしものを、気づいてくれる者のなかりしが無念でなりませぬ。

四年前に当家の祖父も余の遺骸の上にて大病に罹り、この度この市次郎も余の遺骸の上を踏みにし故に、余は瘧(ぎゃく)・・熱病・・となりてその身に憑けり。23日の早朝に余の鎮まる場所に気づいて砂を堀り、浜に棄てしはもってのほかなり。ために余は行き場所を失いたり。」

宮司・大門・・・何の為にそれほどまで人を悩ましむるや。

武士の霊・・・「一つの願望あり。その事を果たさんとてなり。」

・・・・・以下、次回