<工 事 中>
「滝川兵村」
入植年:明治22、23年
入植地:滝川市一の坂町、朝日町、黄金町、二の坂町、滝の川町など
「滝川兵村入植配置図」「takikawa01.pdf」をダウンロード
出身地:九州中心に7県
入植戸数:440戸
「北滝川兵村入植者名簿」「takikawa02.pdf」をダウンロード
「南滝川兵村入植者名簿」「takikawa03.pdf」をダウンロード
第2大隊
大隊長
初 代:野崎貞次(M23.6.23~)後の第1大隊長(一已)
第2代:吉田清憲(M25.2.2~)
第3代:菊池節蔵(M27.1.26~)(日清戦争時の大隊長)
第4代:佐藤當司(M28.7.23~M32の大隊廃止まで)
入植
○十津川移民の入植
奈良県十津川村から陸路神戸港へ移動、神戸港~小樽港へ海路移動、明治22年11月6日~18日の間に滝川兵村に到着。
○主力の入植
☆第1便
便 船:日の出丸
航 路:岩国~八代(熊本)~博多~小樽(7月3日着)
☆第2便
便 船:日の出丸(第1便として輸送した後、酒田港へ回送し第2便として使用)
航 路:酒田(山形)~小樽
小樽からの移動:手宮から無蓋貨車の石炭車で市来知(三笠)まで列車移動。そこから徒歩で沼貝村(美唄)へ、石炭を発掘するため設置された空知監獄署出張所で一泊、翌日滝川兵村に到着。
入植日:明治23年7月 日
給与地
第1次給与地:5,000坪(125間×40間or160間×31.25間)
追給地:10,000坪
「南滝川兵村」
部隊名:第5大隊第1中隊→第2大隊第3中隊
中隊長
初 代:県 左門(M22.12.27~)
第2代:吉田清憲?
第3代:友田 正(M26~M29.10.17)
第4代:菊池節蔵?
第5代:平井正道(M30.1.16~M30.3.31)
(初代の中隊士官)
中尉:伊地地四郎兵衛(後の南江部乙兵村3代目中隊長)
中尉:福井重吉(後の当麻、剣淵の中隊長)
少尉:藤本専作(後の北滝川兵村3代目中隊長)
見習士官:菊池直人
曹長:北郷小一郎
軍曹:鷲山実平
軍曹:片山勝太郎
軍曹:古川栄三郎
出身県別入植者数
山形県 45
奈良県 57
熊本県 15
山口県 47
佐賀県 31
福岡県 17
鹿児島県 10
計 222名
「北滝川兵村」
部隊名:第5大隊第1中隊→第2大隊第4中隊
中隊長
初 代:山県俊信(M23.5.21~)
第2代:星 願造(M24.11.20~)
第3代:藤本専作(M29.4.24~M30.3.31)
(初代の中隊士官)
中尉:友山 正(後の南滝川兵村2代目中隊長)姓名?
少尉:秋山有明
見習士官:川上親興
曹長:佐藤現八
軍曹:永森余所三郎
軍曹:四ノ宮立本
軍曹:大坪与市
出身県別入植者数
山形県 57
奈良県 38
熊本県 12
山口県 53
佐賀県 27
福岡県 22
鹿児島県 9
計7県 218名
Ⅰ 滝川兵村の特色
地名の由来は、空知川の語源であるアイヌ語の「ソーラプチペッ」(滝のある川)を意訳したことによる。
1 地理的特質
(1)北海道一の大河石狩川とその水源を夕張山系及び大雪山十勝山系とする空知川が合流する空知平野の中央部で、入植した地域は北東方向が小高くなった丘陵地。
(2)北へは石狩川沿いを遡上すると上川盆地へ、東へは空知川沿いを遡上すると十勝方面へ結ぶことが可能な交通の要衝。また、空知平野が狭まる場所に位置し、石狩川を渡河し増毛街道(現国道275号線)との連接が容易。
(3)近隣の歌志内、赤平、芦別、上砂川に炭鉱が開かれ、それらの地域を支える物流の中心地。
(4)気候は、夏と冬の気温の差の激しい内陸性気候で、冬期の積雪は多い。
2 時期的特色
(1)屯田兵制度・組織関連
a明治20年~21年にかけて屯田本部長である永山武四郎が米、露、清を視察その中でコサックの屯田兵制を研究。
b明治20年、永山武四郎本部長の下で、屯田兵制度の大々的な見直しと20個中隊増強計画を立ち上げる。
c明治23年、屯田兵条例(服役期間現役3年、予備役4年、後備役13年の20年となる)、屯田兵土地給与規則(給与地は1万5千坪となる)、その他、関連規則の改正が行われ屯田兵制度が確立する。
(2)明治19年、開拓使廃止から4年間続いた3県時代が終わり道庁時代に入る。同年、北海道土地払下規則公布。これにより、会社、結社組織による団体移民が始まる。
(3)明治22年、奈良県で大規模な水害が発生し、十津川の住民約600家族、2,600人が北海道(新十津川)へ移住。その年、滝川の屯田兵屋で冬を越す。
(4)明治22年樺戸集冶監の囚人達の手によって滝川兵村の建設、上川道路の開削。
(5)明治22年北海道炭鉱鉄道会社設立。明治24年手宮~歌志内まで、明治25年滝川まで、明治31年忠別太(現旭川)まで鉄道延伸。大正2年富良野線開通。
(6)明治23年北海道炭礦鉄道空知採炭所(歌志内)開坑。以降大正2年にかけて空知川沿(赤平、芦別)上砂川に炭鉱が開かれる。
(7)明治27年、滝川兵村に隣接して江部乙屯田兵が入植。
(8)日清戦争を4年後に控え朝鮮半島では緊張が高まる。
(9)予備役として日清戦争に出征。
(10)明治30年兵役満了、後備役に入る。
3 入植者の特色
(1)士族最後の屯田兵。
(2)十津川移民92戸を採用
(3)九州、中国地方出身者が中心。その中に山形県人101戸。
4 任務上の特色
(1)空知平野の要衝警備及び中空知地区の開拓。
(2)日露戦争
名出征、戦死者10名、屯田兵以外の戦死5名
5 発展過程上の特色
(1)十津川移民が明治22年11月に移住し兵屋を間借りしたため、主力の入植時期が23年7月にずれ込む。(その為初年度作物の収穫皆無)
(2)明治22年の上川道路、その後の鉄道延伸工事に伴う資財の供給等で、滝川に多くの人・物が集まり消費が増大。兵村の南側地域は商業施設が建ち並び大いに栄える。屯田兵に
(3)明治31年の大洪水で甚大な被害を受ける。また、忠別太(旭川)まで鉄道が開通したため景気は一気に減退する。滝川屯田兵は明治30年で兵役が満了し、この景気後退は屯田兵の離村を即した。
(4)大正2年、滝川と道東を結ぶ富良野線(現根室本線)の開通によって再びその地位を回復。さらには、昭和に入ってから石炭産業の隆盛によって赤平・芦別など産炭地からの石炭をはじめとする物資の輸送が活発になり、中継基地として商工業が栄える。
(5)農業の発展
a中隊本部からの指示もあり入植当初、麻の作付けを開始。その後、予備役時代になっても麻が主作物であった。他の作付けは格戸ごとに決めていた様で豆類、麦類、牧草などを作付けしたと記録に残っている。苦しい生活であったが、第1次大戦の好景気で一時期をしのいだ。
bりんごの栽培
屯田司令部からの奨励もあり各戸で作付け。収穫は3、4年後となるので、その間の生計に苦労。有望との期待に反し、明治34年と明治39年の害虫の被害を受け全滅した。
c稲作
入植の年から個人的な試作の記録が残っている。しかし、本格的に水稲を考え出したのは大正5年に土功組合を結成してからで、明治35年北海道土功組合に関する法律が施行されることにより、道からの助成受け潅漑溝を開削。大正時代後半になって本格的な稲作が始まった。
(6)他の兵村と同様でもあるが、明治末期から大正初期にわたる時代は大変で、耕地に恵まれたと言われる滝川兵村にあっても、この時期に半数以上の屯田兵が離村した。
(7)大東亜戦争中、滝川に石炭から石油を精製する人造石油工場の設置され工員と家族を含めると1万人規模の人員、また、優秀な頭脳集団の流入した。しかし、戦後工場の閉鎖により、それらの人材は離散し一時衰退した。
(8)昭和30年、人造石油工場跡地に自衛隊移駐し、70年の歳月を経過し屯田兵の伝統を継承した。
(9)明治23年滝川村戸町役場設置、奈江村(現在の砂川市)分村。
明治32年音江村戸町役場(現深川市)分立。
明治39年2級村制施行。
明治42年1級村制施行、江部乙村分立。
明治43年町制施行「滝川町」。
昭和33年市制施行「滝川市」
昭和46年滝川市、江部乙町合併
6 滝川兵村関係の著名人
「滝川郷土館(昭和52年開館)」
「郷土館の屯田兵屋」
○屯田兵関係の催し
「市立滝川第二小学校」
「滝川神社」
「滝川屯田兵移住記念碑」
「屯田兵第二大隊本部跡碑」
○屯田兵子孫の会の紹介
「滝川市屯田遺徳顕彰会」
旧滝川市に住む後継子孫77戸、給与地に居住する後継子孫25戸内農業経営者16戸(平成2年調査)
訪問ありがとうございます。
ご先祖様の調査にご協力できうれしく思います。
6月にも滝川に訪問されるようですが、
滝川の郷土資料館に併設して教育委員会が有りますので、其方で色々お話しを聞かれることをお勧めします。
元館長をされたS氏が、滝川郷土史研究の第1人者として、屯田兵のことについても詳しく知っておられますので、
その方の紹介を頂けると良いと思います。