<ルポ:現在の江部乙兵村(平成23年9月)>
滝川兵村のルポでも記したが、滝川市には性格の異なる二つの兵村が存在する。それは、滝川兵村とこの項で記す江部乙兵村である。
滝川屯田兵は明治22年~23年に入植。士族屯田兵の最後であり、出身地は西南地域の人の中に山形県人と奈良県の十津川移民が含まれる。対して江部乙屯田兵は明治27年に滝川兵村にほぼ連接する形で北側の地に入植。入植者は一般平民を対象とし、出身地は全国20府県にもおよぶ。任務的にも滝川屯田兵は、交通の要衝として発達するものと見込まれていた中空知地域の警備という要素が大きい。対して、江部乙屯田兵は内陸部の開発といった殖産という面が大きい。
滝川兵村は滝川市の市街地化の波に飲み込まれてしまった感があるのに対し、江部乙兵村は未だに屯田兵入植時の面影を色濃く残す。実際に現在も農業を営む方が多い。
江部乙は元もと滝川村の中にあったが、明治42年分村。昭和46年に滝川市と合併という経過を有している。明治42年頃というのはリンゴの栽培が軌道にのりだした時期で、江部乙村の財政は割合豊であったことと思われる。滝川とは性格の違う兵村であるが故に独立の機運は高かったと推測される。
江別乙兵村では屯田兵子孫会「江部乙屯田親交会」会長のT氏からお話しをうかがった。氏自身がリンゴを栽培していると言う農家の方でもあり、江部乙の農業のことを中心にお話しをうかがった。
ここに来るまで道内37個兵村の内30個兵村を廻り終えた。残っているのは私自身の住んでいる札幌の4個へ兵村(琴似、山鼻、新琴似、篠路)と、江別の2個兵村(江別、野幌)を残すのみとなり、道東の酪農、オホーツク圏の北見、湧別での畑作、上川、空知での稲作等、それぞれの地でお話しをうかがい農業の知識が少々ついた。そして、農業の究極は土地であることが分かった。農家の人は土地との戦いであり、土地を作るための水との戦を延々と繰り返してきたと言うことが屯田兵入植地を回ることにより少しだけ分かった。
何故、江部乙りんごが隆盛を極めたのか?そんな農業のことを中心にT氏から話しをうかがった。以下は氏からの話しを要約したものであるが。
土地に恵まれなかったからである。江部乙の給与地を眺めてもらえば分かると思うが、鉄道のレールを切断した時の切り口のような形をしている。(本書棚の「江部乙兵村の紹介」の入植配置図を確認してもらえば分かる。)、こんないびつな形となったのは泥炭地等、農耕に適さない土地であったためである。
江部乙兵村の給与地は東に高く西に低い地形で、西側の石狩川流域の低地は泥炭地、河岸付近は砂礫の肥沃な土地であったが何時も水の被害を受けた。国12号線から東側の丘陵地は重粘土質の土地で、土地はやせ畑作もできない土地であった。
そこで、はじめたのがリンゴの栽培で、この畑作に適さない粘土質の土地はリンゴの栽培には適していた。その結果、江部乙屯田兵のうち、東側の地域に入植した者の中からリンゴ農家が生まれた。そして、研究に研究を重ねた結果、「江部乙りんご」のブランド名で通るリンゴが生産されるようになった。
T氏が話されるには、リンゴ栽培に影響を与えたものに留萌線の開通があるといわれた。当時の肥料はホッケの油かすで、留萠の海からそれらが運ばれるようになったことから、高品質のりんごが作られるようになったと言う。それで思い出したのは、湧別、野付牛(現北見市)の兵村が畑作で成功した例である。近くに網走港、湧別港がり、湧別川、常呂川の海運があった。街道が通じていたことから肥料が容易に手に入れることができたのも成功の理由の一つにあると直感した。
当時小学生であったT氏は、お米の弁当を持って行ったと言われた。隣の子供の弁当は芋とトウキビだったので、母親に頼み2人分の弁当を作ってもらったと話していた。同じ屯田兵の中にあっても、リンゴの栽培ができる土地に入植した者、リンゴも、野菜も取れない地に入植した者とでは生活に違いが生じていたことが分かった。
時とともに土地の優劣は変わる。過去泥炭地で作物が取れず、芋ばかり食べていた屯田兵家族の人達の土地は、大正のはじめから戦後にかけて潅漑溝が整備され、泥炭地の土地改良が進み、今は良質米の産地として発展を遂げている。逆に今まで江部乙りんごとして名をはせた地区は、採算が取れず若い人達の担い手もなく、過去、滝川市で660haあったリンゴの作付け面積は43haまで減少し、江部乙でリンゴを栽培する農家は35軒まで減少したという。それも、高齢化が進みじり貧状態のようである。
江部乙の丘陵は美瑛丘陵とまでは行かないが美しい姿をしている。土地改良により畑作化を図るという構想もあると聞いたが、そこで問題となっているのは重粘土質の土地だそうだ。畑作ができる農地に改良するには客土を入れ5年くらいかかると話された。
過去、不毛の地であった西側の地域が豊かな田園地帯になったのを尻目に、東側の丘陵では荒廃しかかった農地の姿を見せていた。
夕食を江部乙付近の一杯飲み屋で取ろうかと思い付近を歩いた。店がない。江部乙の人に申し訳ないが、国道12号線からJR江部乙駅に向かう道々のショーウィンドウは40年前の姿であった。そして、やっと探し当てた。唯一1軒だけあるという居酒屋風の食堂で夕食を取った。
「江部乙駅」
「江部乙のメインストリート」
多分、この街の景観は滝川市と合併した当時と変化していないのではないかと思う。合併時にあった7,000人の人口は半分近くになってしまったと聞いたが、若い人達は、江部乙を去っていく。唯一の公共機関とも言える国道に面して建つ鉄筋3階建てのJAの建物では貯金、共済業務しか行っていなく、江部乙農協の多くの部署は滝川農協に吸収されたという。
滝川市自体が地盤沈下を起こしている中、江部乙の衰退は屯田兵の入植地の一つとして寂しい限りである。
最近、江部乙を有名にしているものとして、春の「菜の花」と、秋の「コスモス」があり。これらは、丸加高原から江部乙兵村の農地に一面の花を咲かせる。
「丸加高原から江部乙を眺める」
「丸加高原の風景」
「江部乙の農村風景」
「江部乙りんご」
祖父は石川からの江部乙屯田入植。若い頃から退職後の
数年まで、家系のことについてはあまり関心がなかった
のですが、先代からの資料に除籍簿や家系抄などの資料
があり、すんなり処分するのもどうかと思い、毎日が日
曜日なので暇々にそれらをもとに家系図づくりでもと。
とりかかってみると早いものでもう六年ほど、今思うこ
とはもっと早く親が生きているうちにやっておけば聞き
たいことが聞けたのにとの思いばかりが残念ながら強い
ですね。
自転車での屯田村周遊記、「屯田」で拝見しました。こ
の江部乙屯田の頁、地勢上の特異性がよく分析されてい
て経済的な絡みもみえ、記事はコンパクトですが、読み
ごたえがあります。家系図を作っていると、婚姻などで
近隣の屯田兵村も出て来るので、足で稼がれた屯田兵村
の写真など参考になります。一部分を説明のために家系
図中に引用させていただきたいと思います。
上記URLに祖父の「屯田兵手帳」を載せてあります。関心
がありましたらご笑覧下さい。
祖父は石川からの江部乙屯田入植。若い頃から退職後の
数年まで、家系のことについてはあまり関心がなかった
のですが、先代からの資料に除籍簿や家系抄などの資料
があり、すんなり処分するのもどうかと思い、毎日が日
曜日なので暇々にそれらをもとに家系図づくりでもと。
とりかかってみると早いものでもう六年ほど、今思うこ
とはもっと早く親が生きているうちにやっておけば聞き
たいことが聞けたのにとの思いばかりが残念ながら強い
ですね。
自転車での屯田村周遊記、「屯田」で拝見しました。こ
の江部乙屯田の頁、地勢上の特異性がよく分析されてい
て経済的な絡みもみえ、記事はコンパクトですが、読み
ごたえがあります。家系図を作っていると、婚姻などで
近隣の屯田兵村も出て来るので、足で稼がれた屯田兵村
の写真など参考になります。一部分を説明のために家系
図中に引用させていただきたいと思います。
http://www.geocities.jp/jf8tegty/tondenhei_techo/techo.html
上記に祖父の「屯田兵手帳」を載せてあります。関心がありましたらご笑覧下さい。
書き込みありがとうございます。
その中に「今思うことは、もっと早く親が生きているうちにやっておけば聞きたいことが聞けたのにと」ありますが、私も今同じ事を感じています。屯田兵の事を調べていくうちに、自分のルーツを子供達に伝えていくことの大切さをつくづく感じるようになりました。
屯田兵の調査を始めたばかりで、未だ自分のことに手が回りませんが、近いうちにはじめなければと思っています。
江部乙屯田兵の子孫の方と言うことですので、家系図作りに合わせ江部乙屯田兵のことも調べて頂ければ嬉しく思います。
今後とも宜しくお願いします。
石川県から多数の方々が屯田兵として渡道していることを知りました。屯田兵の方々の名簿はWEB上で見つけましたが、屯田兵家族を送り出した側の石川県には名簿等の資料を見つけることができませんでした。
屯田兵のことを調べている内に貴HPを見つけました。
今回、石川県出身者の方々が渡道し、開拓でご苦労されたことを名簿とともに出身地等も記録として残したいと思っています。
北海道へは何度か旅行していますので、ある程度の場所や位置関係はわかります、現在の北海道があるのは開拓に従事された方々の忍耐と努力だとおもいます。
今後とも屯田兵の詳細についてご教授ください。
まずは、訪問、そして、書き込みありがとうございます。
実は私も石川県の金沢生まれです。
父・母とも故人となってしまいましたが、父親が富山の砺波出身で、母親の実家に養子で入ったために、金沢で生まれました。
石川の方から書き込みを頂き、何か身近な方からのようで嬉しく思っています。
お調べの石川県からの屯田兵入植者は492名にもおよびます。
今回、再確認をさせてもらったのですが、全国7337名の入植者のうち、県別では最大の入植者数です。
それぞれ、一人一人の屯田兵およびその家族の人達には色々なドラマがあったように思います。
これらの歴史を多くの方に知って頂きたく、少しばかり調査研究をしています。
出身県の方にも沢山お願いをすることがあります。
宜しくお願いをします。
ちなみにいろいろ調べたら、以前に書き込みをされた吉田武夫氏の父と私の曽祖父は兄弟の可能性もあります。
書き込み有難うございます。
以前書き込みのあった吉田武夫さんが、この書き込みを見てくれればいいですね。
そして、お互いの情報交換ができれば、先祖のことが少し分かるかもしれませんね。
屯田太郎さんから…アドバイスを頂いてから、日々の事に追われて、今日に至ってしまいました。
私の主人の祖父が 明治27年五月に入植した
島根県の右田紋一です
江部乙屯田兵の家族の会があれば
その方から お話を聞かせていただけると
助かるのですが…
やはりルーツを調べたく
そして旅行も(*^o^)/\(^-^*)調べたいのです。
ご主人の先祖様が江部乙屯田兵であることが分かりましたか、それは、よかったですね。
私の知っている方に江部乙屯田兵の3世の方がいます。紹介することは可能ですが。
これ以上のやり取りは個人情報にかかわってきますので、以下のアドレスにメールをくだされば対応いたします。
tetsu4012@gmail.com