只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

今朝も猫のひたい程の庭の雑草取りでした

2016-03-29 08:42:36 | 日記
身に付けようと躍起、一生懸命にならないことです。
思考入れず淡々とやることをやるだけですね。

言葉に「だいたいで」「まあまあ」「いい加減のところで」
「大概に」「腹八分目で」「てげてげに」がありますね。
緊急な時以外はこんな感じでいいとしています。

でも私(思考)にしてみればそれこそ
「いい加減にしろ!」と言うのではないでしょうか。(笑)
「もっと積極的にやれ」ということですね。

ですが無理なく、ひとつ事に没頭することがお気楽なのです。
終了した時、時計を見ると『もう、こんな時間か!』と
驚かれるのです。

没頭している間は時間も私(思考)もありません。
面白いもので、このほうが以外と早く正確に仕上がりますね。
いかに思考・自我があれば手間取るということになります。

“只、一生懸命”にやる、やらないときも
念に取り付かないことがお気楽ということですね。

実践”の暁には“大安楽”が待っています。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・初めから全て有りの侭で真実丸出しであったことを
本当に知ったと言うことです。…前回まで

   『身心一如になれば一切の計らう癖が取れて涅槃が現成するぞ、
     とも何とも思わずに「只」坐禅して一超直入如来地を提示したのが
    達磨大師です。趙州禅師は、只、「庭前の柏樹子」の一声に成った。
        最早禅師はない。「庭前の柏樹子」有るのみ
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
「思考する癖」が無くなったら
“真実世界”が開けるぞ!と、思わずに
只、只、ありのままに在るということです。

只、「庭前の柏樹子」であるということです。
“只、これはこれ”で
“只、あれはあれ”であるのですね。

「お餅はおいしい」ではなく“只、餅は餅”です。
でも『それじゃ、面白くないよ~』と言うのが
私(思考)です。(笑)

どうしても一言がないと気が収まらないのですね。
これが「思考癖」です。
念が浮かんできたら、思考に繋がない前に

常に“実践”です。