只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

大葉(シソ)やレタスの種植えです

2016-03-24 07:23:35 | 日記
離れたところから自分を観察してみてください。
どうしても、私とは真近ですからわかりにくいかもしれませんが、
他人を観察するようにするとよくわかります。

自分勝手であり
ご都合主義であり
我見を押し通す
欲深くて浅ましい・・・ここまでは素直です。(笑)

やさしくて、思いやりがあり
他と助け合う、心の広い
間違いはしない、正しい人間です。
これが自分です!と言っています。(笑)

でも・・・事実はまったく違うのですね。
ご心配いりません。
“真の自分”は正しさもなく間違いもありません。

優しさも無く厳しさもありません。
見放すことも無く思いやりもありません。
自分勝手は無く、ご都合主義もありません。
欲深くて浅ましいことも無く我見もありません。
このようにすべては無いのです。

「在る!」とするのは頭脳で、私(思考)で、幻想です。
ただそれだけですね。

それは弛まぬ“実践”で明かになります。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

    ・・結局囚われとなり全体が見えなくなると同時に、
        精神的平衡感覚を失ってしまうのです。…前回まで

   『本当の信とは、自己のない心の作用です。何時でも信であり、
   全て信ですが、何も残っていない故に空っぽですから信も又無いのです。
     何も無いから囚われないし失ったり変質したりしないのです。
       これが絶対信です。別名が涅槃です。
       いわば一心と言うことです。「只」の心です
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
「只」の心は自然の心で空っぽです。
自然の心はそのままで何もありません。
ありのままですね。

念は今の心ですから、念が浮かんでこないところが
涅槃と呼ばれているのですね。
念が浮かんできて、それに取り付くから想念となります。

只の心”とは“無の心”でもあります。

それが“真の自分”です。