只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

思考入れず淡々と・・・が、合言葉ですね

2016-03-26 08:32:28 | 日記
何事も結果を出すまでコツコツと
やり続けることですね。

しかしそれができない。
もっと楽な方法はないか?
簡単ですぐに効果がでるものはないか?
そのように結果を出すより、ゴールへの近道を探しまわるのです。
それは私(思考)の癖なのです。

ですからかえって遠回り道になるのです。
これまでの人生でつけてきた「思考する癖」を
落としていくと次第に“お気楽”になっていきます。

言葉にすると簡単ですが、それがなかなかなんですね。
間違いなく三日坊主が大概です。(笑)

なぜ途中でトーンダウンするのか。
なぜ気だるさに嫌気が差すのか
それは間違いなく私(思考)の癖だからです。

楽チンなことや面白いことや楽しい事には
積極的に続けることができます。
そこにはご承知のとおり私(思考)はいません。

例えば、パチンコで面白いようにジャンジャン球が出ているとき、
「3日前の仕事」のことを考えている人はいません。
また、面白くない!と止める人もいません。(笑)

私(思考)が面白くなくて嫌がるのは、
コツコツとどこまでもやり続けることです。
なぜか?・・・それは嫌がる癖になっているのです。
厳密に言えば「思考する癖」です。

ですからこのブログでは「思考する癖」を、
コツコツと落としていきましょうと言っているのです。
「急がば回れ」とは言いますが、これがイチバンの
近道であり早道です。

時折、自分自身の内面に意識を向けて見ると
もうこんなところまできたのか!と驚かれることもありますね。

ですから頑張るのではなく、「思考する癖」を落としていく
努力“実践”となります。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

    ・・信じる自分が無くなるまで、坐禅し一呼吸に徹するのです。  
       「今」真剣に「只」することです。…前回まで

    『古則公安に、「趙州因みに僧問う。如何なるか祖師西来意。
       州曰く、庭前の柏樹子」と言うのがある。・・・

        これを要約すると・・・趙州禅師に或る僧が、
      達磨大師がインドより何を伝えにきたのか? と問うた。
 つまり、どのような素晴らしい法なのか。畢竟仏法の極意は何かと言うことです。
         すると趙州禅師は、庭前の柏樹子と答えた
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
どのように答えるにも『例え』にすること
しかできませんね。

何を伝えにきたのか?
どのような素晴らしい法なのか?
仏法の極意は何か?
と言われても思考の無い状態では
本当は答えられません。

ですから思考の無い状態の“今”を
『例え』で答えているのですね。

ここでは『庭前の柏樹子』と答えられました。
“今”も“達磨大師”も“庭前の柏樹子”も
同じことです。
深く考えられたことでもないのです。

真の自分は“今”であり“達磨大師”であり
“庭前の柏樹子”でもあるのです。

『えっ、さっぱりわからん?』…で終わればいいのです。
わかる、わからん?を超えた世界が“真実”ですね。