只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

今日は商品配達で、又歌の練習をしながら心地よく・・(笑)

2016-03-09 08:13:23 | 日記
私の見解は『こうです』と答えます。
やさしく相手のためにと思ったことでも
例えば、その人が感謝してくれたとしても
私の見解は「我見」なのです。

「私の見方が正しい!」とする意見は
「我見」なのです。
それによって良い結果が出たとしても
それは“只”とはまったく関係がないのです。

「我見」は「我見」です。
良い事でも悪いことでもありません。
その「我見」を、良い事にしたり悪いことにすると
問題が起こり始めるのです。

例えば「そりゃ~いい考えだ!」とすると
『もっといい考えがあるはず・・』が横に居座っています。
「もうちょっと視点を変えて考えたら…」も、いるのです。
ですから「我見」に善悪も何も付けないことです。
そうすれば「我見」は「我見」で
“それはそれ”になります。

この味噌汁は味が濃いとか薄いと言わないことです。
『戴きます』~『ご馳走様でした』で終わりです。
味加減は舌が知っていますので、私(思考)が言う問題ではありませんね。

私(思考)が出ると、これが『いらぬお節介』になり問題となります。
『いらぬお節介』が繁殖しないよう
小さいうちに芽を摘んでおきましょう。

それが“実践”ですね。.


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


      思考癖と戦い思考癖から離れる努力をする時です。
        これを軽く見ての修行はそこから進歩しません。…前回まで

  『坐禅には初めから癖も自己も無いので、一心に坐禅すれば坐禅に行き着くのです。
       坐禅が坐禅と現成した時即涅槃です。
    自己、自我が無ければ、花は花、月は月、そのものに在る。
      求めるもの無き故に無上です。宇宙第一と言うことです。
         言葉を換えれば境と一体です。
      隔てがない様子です。即今底と言うも同じです
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
とにかく何もしないときを持つのです。
思考を持ち出さないときを持つのです。
そこに只居るとも思わず只居るのです。
“只になること”が涅槃とも言われています。

花は花で、月は月でそのものですね。
厳密に言えば“それはそれ”で“これはこれ”で
後は伝えようがありません。

しかし花と言った瞬間、“それはそれ”ではなくなります。
月も私も同じで、幻想化しますね。
隔てがあるということです。
隔てがあるということは、求める何かがあるのです。

真実にはすべてがあるけど、思考が無いから
何も無く無上です。
このように、とにかく理屈ではなく
実践”で明らかにしてくださいね。