只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

山畑が除じょに出来つつあります

2016-03-12 07:48:31 | 日記
自分は私(思考)からの支配を聞き入れない
“実践”を行っています。

頭の中が「これはやらなければならない!」と、
騒いだときは知らん顔しています。
受け付けないのです。

「あぁ~面白くないな~」と来ても完全に無視です。
『明日の夜は生ビールに焼き鳥だ!』と、
いかに騒いだとしてもそれについていきません。(笑)
「悪いことしたな…」が出ればそのままで終わりです。

ですから私(思考)の出る間がないのです。
言葉を変えて言うと「オナラ」が出てそのままで終わりです。
「クシャミ」が出てそのままで終わりです。

今まで支配され続けたのでここで終わりです。
ですから気が楽になりましたね。
自由自在とはこのことで
私(思考)から支配されないことです。

私(思考)から抜け出すことは大変ですが
抜け出した暁には何とも言えない喜びを感じます。

その状態のまま、今この瞬間という無思考のまま、
喜怒哀楽が出るまま、あるがままにお過ごしください。
そして一歩、一歩と“実践”し続けてください。

やっただけです、同士が増えていくことを
楽しみにしています。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・・念を起こして自我を出現さす。これが問題の始まりである。…前回まで

      『自己が立つと相手が立って相対化する。
      即囚われの精神現象が開始する仕組みなのだ。
     これは心身の隔たりによって起こる心の癖に過ぎない
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
例えば相撲は相手が居なければ、相撲にはなりません。
しかし私(思考)は相手が居ないのにかかわらず
年から年中、頭の中で相撲を取っているのです。

そして負けたと言っては悔しがり、勝ったと言っては
自惚れるです。(笑)
どうしようもありません、それは幻想ですが事実と思って
それらから離れようとしません。

なぜならば心にピタッと引っ付いた思考癖なのです。
そしてこの思考癖が心を引き回すのです。
ほんとうに堪ったものではありません。

ですからこの思考癖を落とすことをしなければ
「幻想である」と理解はできないのです。
私は、思考は無いと頭では理解できないのです。
それは幻想しているのが知能だからです。

しかし霧がだんだんと晴れてくるのが
弛まない“実践”の賜物といえるでしょう。