只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

山の新鮮な空気を吸ってきます

2016-03-06 09:11:51 | 日記
いつも言っているとおり
私は自我であり思考であり記憶なのです。
ですから存在してないのです。

初めの頃は「そんな馬鹿な!」と言って相手にしていませんでしたね。
『こんなことを納得するほうが可笑しいのではないのかな?』と、
ちょっと引っ掛かり次第に興味を持つようになりました。

苦しみがあり楽しみがあり、それが人生であると疑いませんでした。
しかしそれは思考が創った幻想ということでした。

そして宇宙の法則とでも言えます、
楽しみを望むから苦しみが発生するということです。

この生物を含む大自然は、楽しみも苦しみも何もありませんね。
それがそれです、これがこれです。

でも大自然の中の人間だけが、思考を与えられ過ごしています。
なぜでしょうか?
そこには何か大きな意味が隠されているような気がします。

それは想像も出来ない、感じる途轍もなく偉大なものです。
想像するのは思考ですから空想となります。

弛まない“実践”で感じ取り
真の自分”に出会ってくださいね。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

極めるとはそのものに行き着いて一つに成ることです。…前回まで

     『一つに成った世界を涅槃と言うのです。
    縁のままに「只」ある天然の汚れ無き様子のことです。
    自己、自我を立てる癖が道を暗くしているだけですから、
       この癖を陶冶するのが修行であり坐禅です
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
縁のままに「只」ある天然の汚れ無き様子は“”です。
今この瞬間で無思考です。

今以外が在るとするのが、ここで言う「汚れ」となります。
「汚れ」は思考を持ち出す癖です。

この思考癖が在るからどうにも始末におけないのですね。
雑巾で拭き取れば綺麗になる「汚れ」とは
まったく違うのです。(笑)

浮かんだ念にすぐ取り付く癖のことですね。
これがあるとゆくゆくは問題化していくのです。

ですから、この癖を切り捨てていくのが“実践”です。

思考する癖の無い、大らかな自分で
人生を謳歌していきましょうね。