只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

早朝は少し暖かったので柔軟ストレッチでした

2016-03-08 08:41:44 | 日記
3月はあちらこちらで学校等の卒業式が行われていますね。

ある一定のところから旅立つ、
お別れをするということでもあります。
同じく職場でも移動や転勤がある時期でもあります。

今まで馴れ親しんだところから離れるとなると、
悲しさや寂しい気持ちが湧き上がってくる方もいます。
もちろん期待を膨らませ元気いっぱいになる方も
いらっしゃいます。
それは私という思考がそうさせるのです。

そして、人生には「死に別れる」ということが
私(思考)のなかには必ずあるのです。
そうなったらと思うと考えられない苦しみとなるのです。
それは生きている私(思考)だからです。

人生を終えていかれる方は、生きている時の
身体の痛さや苦しさのままです。
それも、生きている私(思考)だからです。

私(思考)が無かったら、生きるも死ぬもありません。
永遠に“今という自然空のまま”です。

ですからこの人生でまったく無い心配、不安を切り捨て
真の安楽の人生”を謳歌してくださいね。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

    雑念や煩悩にかき乱され、振り回され乱されるときが本当に辛いです。
      しかしその時が雑念や煩悩と戦う時です。…前回まで

    『その心身を悩まし、苦しませるのが雑念や煩悩です。
      思考癖と戦い思考癖から離れる努力をする時です。
     これを軽く見ての修行はそこから進歩しません。
          坐禅そのものに成ることができません
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
私(思考)の心身を悩まし苦しませているのが癖なのです。

私とする癖であり、思考する癖なのです。
雑念する癖という煩悩ですね。

これらの思考する癖を落とすことをしなければ、
いつまでも付いてくる厄介なものです。
この厄介なものを落とすとお気楽そのものになります。

一瞬、一瞬となり、今、今、今となり
自由自在という感じです。

喜怒哀楽のままで『今、泣いたカラスが今、笑った』
ように幼児に還った気分になります。
もちろん、今までの様々な記憶が無くなることはまったくありません。

記憶をむやみやたらに使用しなくなるということです。
余計なことはしないということです。
使うときは正しく使うということですね。

とにかく思考入れず“実践”です!