只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

着々と山畑が出来つつあります

2016-03-05 10:06:20 | 日記
毎日、少しずつが積み重ねとなります。

目標10万Kmを走破すると言ってもすぐには
できるわけありません。
まずは一歩を踏み出さねばなりません。

しかし踏み出さない前に、私(思考)が頭の中で
ゴチャゴチャ騒ぎ立てるのです。
あるいは10Km行ったところで、私(思考)が頭の中で唸り始めるのです。
そして、そこで止めるのです。(笑)

それを三日坊主と世間では言われていますね。
ではどうすればいいか?
基本的には只、淡々とやることです。
そして目標は目標であるということです。

ですから辛いときは休む、やりたくないときはしないのです。
精神と身体が快復したらまた淡々とやるということです。
肝心な事は私(思考)を持ち出さないことが、
何事も目標の貫徹となります。

持ち出すも持ち出さないも本来は無いのですから、
そこに行き着いていれば優々自適ですね。

プロ野球のイチロー選手は、
試合があった終わりの当日でも素振り等の練習を
必ず行うそうです。
偉大なるバッターは観えないところで、
黙々と日々の積み重ねをやっているのですね。

それではわかったから、明日からやってやる!と気合を入れる方がいます。
しかし、真実には昨日も明日も今日もありません。
気が付いた今しかありません。

今、今、今と“只、実践”です。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

    どこにも「隔たり」は無く、自己も無い様子が手に入ればしめたもの。
     「今」「只」ある。これが坐禅の心得である。…前回まで

  『私たちは道を究めていく仏道修行者です。何事も真剣に真実に行ずるのです。
       極めるとはそのものに行き着いて一つに成ることです
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
仏道も“真実への道”も“只の道”も同じことです。
そこを何事も真剣に余念を入れずに行じていけば
真実を見極められるでしょう。

ヒントとして、私(思考)とは『逆』がキーワードとなりますね。
想わない、考えないことですね。
しかし、そうは思っても自然に浮かんでくるのです。

ですからどうすることもできないのです。
どうすることもできないから只、放っておくのです。
それを相手にしない、そして嫌わないことです。
手をつけない、遊ばない、興味引かない、返事しない、
二人三脚しないことです。(笑)

最初は面白くないかもしれませんが、
慣れてくると俄然、楽しくなってきます。

要するに「災いを起こすもの」が言い寄ってくるのを
“知らん顔をする”ということですね。

一に“実践”、二に“実践”、三に“実践”です!