只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

山の畑作りも淡々と・・・

2016-03-02 10:32:32 | 日記
私(思考)は無い過去を思い出し、あの時このように
しとけばよかったと残念がるのです。
また、まだ来ない将来を考え心配し悩む事があります。

しかし、ご存知のとおり事実は“”しかありませんね。
”に居る以外は幻想です。
過去も未来も現在も幻想でまったく無いのです。

このように言うとすぐに「我見」が
すぐ飛び出してきますね。(笑)
いろいろと事実を取り替えた「妄想」を言い放してきます。
この「妄想」はどこまでいっても我見なのです。
ご苦労なことに決着はありませんね。(笑)

なぜ妄想するのか、と言うと「快楽」中心主義だからです。
「苦悩」を嫌い排除したがるのです。
私(思考)はどのようにしたら苦悩にならないか、
快楽はどうしたら手に入るかと思い続けて努力しているのです。

しかし、このような幻想をしている以上必ず苦悩になってくるのです。
繰り返し言いますが私(思考)がある限り、「快楽」が少しと
『苦悩』の多いところを行ったり来たりです。

このことを知能での解決は完全に無理なのです。
目では見えないことは知能ではわからないからです。
ですから、「快楽」や『苦悩』は

今には無い”ということを“実践”で“体得”することですね。


只の道…淡々と歩く
心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

    隔てている癖を取れば、本来の身心一如に還る。
        遮る相手が無い境地だから洒々落々なのだ。…前回まで

      『この境地を得るには「隔たり」を取ればよい。
    それが坐禅修行である。思考しなければ心身一如、ひとつである。
     自分を救うのは自分でしかなく、心を救うのは心でしかない。
           畢(ひつ)竟(きよう)努力するしか無いのである
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
「隔たり」は思考する癖です。
癖ですから癖とわからないから厄介なのです。
事実では無いのに、事実と思い込んで離さないのです。

頭の中の思いですから、形も無く臭いもなく何も無いのです。
何も無いのを在るとするのが思考する癖とわかれば
それをひたすら落としていくのです。

それだけです、何の難しいことも簡単なこともありません。
落ちたときの清々しさは何とも言えない
心境ですね。

さぁ、今日も思考入れず“只、実践”です。