「暗譜」をすることの効用はしょっちゅうここでも述べていますが、
今日はその中でも「集中」ということに関して述べてみたいと思います。
ステージでのパフォーマンスとして、「演劇」と「朗読」というのがありますが、
演劇に対して、朗読はやはり「文章を読んでいる」という感じが非常に伝わって来ます。
舞台上にも余分なものはなるべく置かない。
照明もほとんど変えず、聴衆が言葉の世界に如何に集中できるか、
ということを大事にする、という演出が多いです。
それによって、聴き手は自分の中での想像力をより膨らます事が出来、
実際に聴いている以上の物語を自分の中で作り上げる。
それが「朗読」の世界だと思います。
だから朗読者は必要以上に感情を込めない。
つまり解りやすくいうと、聴衆者に集中力を非常に求めるのが朗読の世界だと思います。
一方、「演劇」は大道具や小道具、照明や衣装、メイクなどによって、
「舞台」そのものを別空間にしてしまい、聴衆者をまずその世界に引きずり込み、
演者が役柄そのものに成り切り、演技をする。
聴衆者はその世界にどっぷりハマっていれば良いので、
どちらかというと演者に集中力を非常に求めるのが演劇の世界だと思います。
音楽の世界では、普通の演奏会と、オペラやバレエの世界がこれに当てはまると思います。
バレエはバレエで、聴衆者が演技から、演者が何を言おうとしているか、
何を表現しようとしているか探る必要がありますが、
物語があって、舞台上の空間を作っている、という点では
どちらかというとオペラと似ているのかな、と思います。
そして冒頭の「暗譜」についての「集中」について話を戻すと、
オペラはもちろん「暗譜」していないと話になりませんが、
実は普通の演奏をやる時でも「暗譜」してるのと、していないのとでは、雲泥の差が出て来ます。
普通の演奏会、というのは場面設定や年齢設定や、性別の設定まで非常に曖昧な事が多く、
もしくは本来そういう設定は必要なかったりするのですが、
でも演奏する本人の中ではそれらが具体的に設定できてないといけません。
それが具体的であればあるほどなおの事良いです。
そしてその設定に従って演奏を進めるわけですが、
楽譜を見ながら演奏していると、それらの情報が自分の中で希釈されてしまい、
「楽譜を追いかける」という事になってしまいます。
だから本当なら実際に暗譜して、演奏者はその世界に集中していく。
聴衆が聴きたいのは「どれだけ覚えているか」ということではないし、
そんなことはどうでも良い事なので、
いかにしてオペラのように物語のない曲でも集中して演奏できるか。
だから私は「暗譜」しないで演奏する、というのは危険極まりない行為である、
と思わざるを得ないのです。