きのうの続き。
福沢諭吉が勝海舟を手厳しく批判したに付いては、
根本的に、勝と云う人間への嫌悪感が有ったのだと思う。
それは、
二人の生き方、人生観から社会観まで対照的だったからである。
福沢は、武士出身だが、「思想家」であり「教育者」。
これに対し、勝は、
同じく武士の出であり、海軍を興した武人ではあるが、その本領は「政治家」にある。
思想家と云うのは、
妥協や譲歩を一切排除し、物事を突き詰めて論理を組み立てて行くものだ。
一方政治家は、
現実と向き合う以上、
妥協や駆け引きを専(もっぱ)らとせねばならず、
自己の持つ理想とは別に、どこかで相手の条件を飲み、譲る場面が出てくる。
理想主義と現実主義、もともと相手を好きになれるはずがないのだ。
一面で、
思想家が精緻に組み立てる論理は人を酔わせるが、
現実にはそぐわぬ、机上の空論に陥(おちい)ると云う危険性も持つ。
学者や思想家が政治に参加すると、
普段、一歩も譲るまいと自己を主張することに慣れているから、
妥協したり、譲歩することを敗北ととらえ、常に強硬策を取り勝ちになる。
英明を謳われた新井白石や松平定信など、
学者肌の人たちの政治には、そう云う弱点が見え隠れする。
史上、学者や思想家で評判の良い人は
政治に無欲だった人が多いのを見てもそれは分かる。
反対に、
政治家として優秀な人は、
案外に不人気で、むしろ評判の芳しくない人が多い。
貴族なら、藤原不比等を初めとする代々の藤原氏、
武家では、源頼朝、北条義時、徳川家康などなど・・・。
政治家の功績と人気は、必ずしも比例しない、とするなら、
「勝海舟」の評価に、毀誉褒貶あるのは、むしろ名誉なのだろう。
(毀誉褒貶→きよほうへん→悪く云う人、誉める人、様々な評価があること)
私個人としては、
彼は武士では有ったけれど、
華々しい討ち死にを名誉とするような、
そう云う武者働きのレベルでは計れぬ、国難を救うに足る人物だったのだと思う。
「勝海舟」、名は義邦、通称、麟太郎、
明治三十二年一月、波乱の生涯を閉じる、享年七十五歳。
雪の中の葬儀だったことが残された写真に見える、
尚、海舟最期の言葉は、「これでオシマイ」だったと云う。
福沢諭吉が勝海舟を手厳しく批判したに付いては、
根本的に、勝と云う人間への嫌悪感が有ったのだと思う。
それは、
二人の生き方、人生観から社会観まで対照的だったからである。
福沢は、武士出身だが、「思想家」であり「教育者」。
これに対し、勝は、
同じく武士の出であり、海軍を興した武人ではあるが、その本領は「政治家」にある。
思想家と云うのは、
妥協や譲歩を一切排除し、物事を突き詰めて論理を組み立てて行くものだ。
一方政治家は、
現実と向き合う以上、
妥協や駆け引きを専(もっぱ)らとせねばならず、
自己の持つ理想とは別に、どこかで相手の条件を飲み、譲る場面が出てくる。
理想主義と現実主義、もともと相手を好きになれるはずがないのだ。
一面で、
思想家が精緻に組み立てる論理は人を酔わせるが、
現実にはそぐわぬ、机上の空論に陥(おちい)ると云う危険性も持つ。
学者や思想家が政治に参加すると、
普段、一歩も譲るまいと自己を主張することに慣れているから、
妥協したり、譲歩することを敗北ととらえ、常に強硬策を取り勝ちになる。
英明を謳われた新井白石や松平定信など、
学者肌の人たちの政治には、そう云う弱点が見え隠れする。
史上、学者や思想家で評判の良い人は
政治に無欲だった人が多いのを見てもそれは分かる。
反対に、
政治家として優秀な人は、
案外に不人気で、むしろ評判の芳しくない人が多い。
貴族なら、藤原不比等を初めとする代々の藤原氏、
武家では、源頼朝、北条義時、徳川家康などなど・・・。
政治家の功績と人気は、必ずしも比例しない、とするなら、
「勝海舟」の評価に、毀誉褒貶あるのは、むしろ名誉なのだろう。
(毀誉褒貶→きよほうへん→悪く云う人、誉める人、様々な評価があること)
私個人としては、
彼は武士では有ったけれど、
華々しい討ち死にを名誉とするような、
そう云う武者働きのレベルでは計れぬ、国難を救うに足る人物だったのだと思う。
「勝海舟」、名は義邦、通称、麟太郎、
明治三十二年一月、波乱の生涯を閉じる、享年七十五歳。
雪の中の葬儀だったことが残された写真に見える、
尚、海舟最期の言葉は、「これでオシマイ」だったと云う。