勝海舟
2009年07月13日 | 本
きのうの続き。
どちらかと云うと、
勝海舟の思想や人物像は、複雑で分かりにくい。
彼は、駆け引きや妥協を厭(いと)わなかったから、
その行動が曲線的で自在、次はどちらへ動くか予測しにくいのだ。
その人物、その業績に比べ、
今ひとつ、人気の湧かないのもその辺りに原因があるのだと思う。
下級の幕臣として生まれた海舟だが、
彼が一番恐れたのは、
福沢の云うような薩長の武力などではなく、ましてや徳川幕府の崩壊でもない。
次も「勝海舟」から引く。
尚、以下の文中、
「国内の反対派」とは、薩長などの討幕派を指し、
又、「幕府主流となった親仏派」は、
フランスの軍事力や援助を得て、
徳川幕府を建て直そうとした小栗上野介などの勢力を指す。
「小笠原」は、肥前・唐津藩世子、小笠原長行(ながみち)。
~~~~~~~~~~~~~~~
海舟は、外国の力を借りて、
国内の反対派を討つ政策には、一貫して反対の姿勢をつらぬいた。
外国の援助を頼りとする、
文久三年の小笠原のクウデタ計画を批判しているし、
慶応期には、
幕府主流となった「親仏派」がフランスの援助を借りる行為を、
「国家の瓦解」を招くものと、きびしく非難している。
そのさい、彼が連想するのは、
インドで割拠・抗争した諸侯が、
外国の援助を引き込むことによって、亡国を招いた事実である。
~~~~~~~~~~~~~~~
海舟は、
内乱に乗じて支配下に置こうとする、
欧米列強の常套手段を、一番に警戒していたのである。
それが、
徳川でも薩長でもない彼の行動となり、誤解を招くのだと思う。
福沢の批判の論旨から云えば、
「戊辰戦争で抗戦を主張し、徳川家を守ろうとした」
小栗忠順などは、主張が分かり易く、
三河武士の精神を具現した、
「立派な武士(もののふ)」と云う事になるが、はて、どうだろうか。
~~~~~~~~~~~
【小栗忠順】 おぐりただまさ
(1827-1868)
幕末の幕臣。上野介(こうずけのすけ)。
外国・軍艦・勘定の各奉行を歴任、主として幕府財政の再建に当たった。
戊辰戦争で抗戦を主張し、官軍によって斬首された。
どちらかと云うと、
勝海舟の思想や人物像は、複雑で分かりにくい。
彼は、駆け引きや妥協を厭(いと)わなかったから、
その行動が曲線的で自在、次はどちらへ動くか予測しにくいのだ。
その人物、その業績に比べ、
今ひとつ、人気の湧かないのもその辺りに原因があるのだと思う。
下級の幕臣として生まれた海舟だが、
彼が一番恐れたのは、
福沢の云うような薩長の武力などではなく、ましてや徳川幕府の崩壊でもない。
次も「勝海舟」から引く。
尚、以下の文中、
「国内の反対派」とは、薩長などの討幕派を指し、
又、「幕府主流となった親仏派」は、
フランスの軍事力や援助を得て、
徳川幕府を建て直そうとした小栗上野介などの勢力を指す。
「小笠原」は、肥前・唐津藩世子、小笠原長行(ながみち)。
~~~~~~~~~~~~~~~
海舟は、外国の力を借りて、
国内の反対派を討つ政策には、一貫して反対の姿勢をつらぬいた。
外国の援助を頼りとする、
文久三年の小笠原のクウデタ計画を批判しているし、
慶応期には、
幕府主流となった「親仏派」がフランスの援助を借りる行為を、
「国家の瓦解」を招くものと、きびしく非難している。
そのさい、彼が連想するのは、
インドで割拠・抗争した諸侯が、
外国の援助を引き込むことによって、亡国を招いた事実である。
~~~~~~~~~~~~~~~
海舟は、
内乱に乗じて支配下に置こうとする、
欧米列強の常套手段を、一番に警戒していたのである。
それが、
徳川でも薩長でもない彼の行動となり、誤解を招くのだと思う。
福沢の批判の論旨から云えば、
「戊辰戦争で抗戦を主張し、徳川家を守ろうとした」
小栗忠順などは、主張が分かり易く、
三河武士の精神を具現した、
「立派な武士(もののふ)」と云う事になるが、はて、どうだろうか。
~~~~~~~~~~~
【小栗忠順】 おぐりただまさ
(1827-1868)
幕末の幕臣。上野介(こうずけのすけ)。
外国・軍艦・勘定の各奉行を歴任、主として幕府財政の再建に当たった。
戊辰戦争で抗戦を主張し、官軍によって斬首された。