明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

2冊の本を紹介・・・・・

2012-04-30 00:10:29 | Weblog
一冊目は、月刊誌の『大法輪5月号』(840円)。特集は、「知っておきたい浄土真宗の基礎知識」です。「基礎知識」となっていますが、お念仏の流れを頂戴する人ならば、是非とも読んでもらいたい5月号なのです。5月号表紙のタイトルを見れば、浄土真宗の世界が網羅されているのがわかります。特に、親鸞聖人・蓮如上人のみ教えを基本から詳しく説明しているのが特徴です。

勿論、難しく感じる箇所も多々ありますが、それでも浄土真宗とはこのような宗教なのだと理解する為の最適な本の一冊とも思えます。特に、「節談(ふしだん)説教いまむかし」(5月号120頁から121頁)のコラムは、非常に示唆的(しさてき)です。今、浄土真宗のお寺では一部のお寺を除いて、法座等の参加が極めて減少しています。その原因を筆者は次のように分析しています。「明治以降、浄土真宗の布教は、仏教用語や概念を合理的にわかりやすく説明するスタイルが主流であり続け、結果として参詣者の減少の一因を作っていまったのではなかろうか」と指摘されています。つまり、何かが抜けていると言うのです。何が抜けているのか。筆者も、私もその思いは共有のものでした。それは、「情念」であると思うのです。筆者は「心の奥底に共振する情念の布教の世界こそ、必要になってくるのではないか」と分析されています。・・これにつては、詳しく取り上げたいと思います。
2冊目は、週刊誌の『ポストGW合併号』(420円)。特集が、「日本の宗教「カネ」と「実力」」。読まれた人も多い筈です。特に、島田裕巳氏の「人を救えなくなった現代宗教」(44頁から46頁)は、衝撃的な内容。尚、島田裕巳氏は「浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか」(幻冬社新書)の著者でもあります。

特に、以下の文章は仏教界の本質を抉り出していますし、ある意味で我が意を得たりという内容でした、「サービスを充実させることは、一方で宗教のもつ「聖」の部分を衰退させ、「俗」の部分をより色濃くさせる。それはかえって「救い」を求める人々を失望させ、宗教がさらに敬遠される要因にもなる」という文章です。サーブスの充実とは、色々あるでしょうが、「易きに流れる」という事でもあります。それは、守るべき「聖」なる部分を自らが放棄するに等しい行為だと思います。島田裕巳氏の云われる通り、このままでは崩壊の序曲を歩いているようなもの。「聖」なる部分の堅持の中でこそ、最大のピンチは小さなチャンスにもなると私は思っています。これ以外に、進むべき道はない筈です。

シャガの花咲く頃

2012-04-28 07:56:12 | Weblog

上記の写真は、シャガの花。花の時期は、4月から5月頃に咲く花。人家近くの森林周辺の木陰などの、やや湿ったところに群生します。今、自坊の周辺の斜面にはシャガの花が花盛りです。花弁に濃い紫と黄色の模様があるのが特徴。しかし、人々は気にとめずに通り過ぎてしまう花。それは、この地方ではあまりに普通すぎて見慣れた光景だからです。でも、私は、大好きな花。このシャガの花の一輪ざしなどは、本当に好きです。なんだか、孤峰感があり気高く凛としています。
でも、このシャガはかなり古い時代の中国からの帰化植物といいます。日本の固有種とばかり思っていたのですが。今は、固有種のような顔をして咲いていますから、これもまたチッカリしたもの。

もともと生け花等のルーツは、シャガの花等を生けたところなか始まったのではと勝手に想像。シンプルオブザベストを地でいく花。それがシャガの花と思っています。
しかし、このシャガの花が咲く頃から困った問題が発生するのです。それは、ヒルです。裏山には、ここ10年程前から大量のヒルが発生。動物がつけて来たものといわれていますが、これからは塩を持たずに裏山には入れない事になります。その危険信号が、シャガの花なのです。

承元の法難(弾圧)・・・⑬3人の師匠(ししょう)・・その3

2012-04-27 00:08:14 | Weblog
昨日(4月25日)から珍しく風邪を引きダウン。熱もあるのです。今日は、一日中布団を被っていたかったのですが、そうもいきません。今日は、午後2時から定例法座が開かれる日なのです。本堂修復工事前は、定例法座を開催していた事もありましたが、本堂修復工事に伴い中止。今日は、復活の第1回目。毎月、第4週目の木曜日、午後2時からと決めました。今年一年間のテーマは『親鸞聖人入門』です。しかし、定例法座開催を告げる連絡は地区の掲示板に張り出したのみ。そして、今日はあいにくの雨。しかも、結構降っています。果たして、何人の方が雨のふる中で・・・・と心配していました。
でも、20名近い方が足を運んでいただく事ができました。あり難い事です。
定例法座の時間帯
午後2時・・・・・・・・・勤行(正信偈)
午後2時30分・・・・法話(今日は、聖人誕生から六角堂夢告まで)
午後3時30分・・・・終了(本堂内自由見学)
次回の『親鸞聖人入門の第2回目』は、5月24日(木)午後2時から。参加は自由です。

さて、承元の法難『3人の師匠』・・・その③です。
梅原先生は、法然上人の師匠(ししょう)は「叡空(えいくう)上人ただ一人」と結論付けられました。では、どうして3人の師匠なる通説となったのでしょうか。その背景にあるのは、法然上人を慕うあまりに法然上人の偶像化、聖人(せいじん)化、神格化がもたらしたものと思われます。しかし、これとてなんらかの背景があった筈です。
そのヒントになるのが、親鸞聖人の編集された『西方(さいほう)指南抄(しなんんしょう)』の「源空上人私日記」の次の言葉です。「我が師、肥後(ひごの)阿闍梨(あじゃり)いわく」(真宗聖典・・955頁・・中外出版社版)の箇所です。これは、法然上人が「私の師匠である肥後阿闍梨様がこのように云われた」と訳する事ができます。肥後阿闍梨とは、前回述べましたように皇円上人の事。つまり、法然上人自らが皇円上人の事を、私の師匠であるといわれているのです。これでは、「叡空上人ただ一人」説は成立しない筈です。
写真は、自坊の桃の花。今、咲き誇っています。自坊は、人間も花も全て遅咲き?。

ここの所を、梅原先生は次のように展開されました。・・・続く


承元の法難(弾圧)・・・⑫3人の師匠(ししょう)・・その2

2012-04-25 00:37:23 | Weblog
実は、私自身もつい最近まで法然房源空上人の源空は、比叡山における最初の師匠の源光の源と3番目の叡空の空の字をつけて源空と名乗ったと思っていました。2月の名古屋別院での中仏(通信制)の講義でも、そのように説明してきまし、定説はその通りです。
でも、今は誤りではないかと思うのです。それは、素朴な疑問からです。2番目の師匠、皇円の文字はどうして取らなかったのだろうという疑問です。3人の師匠では、皇円が当時一番有名な筈です。
皇円(こうえん)、平安時代後期の天台宗の僧。肥後国に生まれ、肥後阿闍梨(あじゃり)とも功徳院阿闍梨とも称され、法然の師とされています。何しろ、神武天皇から堀河天皇までの記事を、漢字の編年体でまとめた仏教史書『扶桑略記(ふそうりゃくき)』を編纂している高僧なのです。
このような疑問を持って、再度読み返したのが梅原猛先生の著作『法然の哀しみ(上)』(小学館文庫)でした。読み返し、まさに「目から鱗(うろこ)」となりました。この本、以前にも読んだ筈です。でも、問題意識が無いときには、読んでも記憶にも残らない典型です。同じ本を、同じように読んでも、その味わいは年代と共に変化していくのです。だから、本は何度も読む必要があるという事になります。

法然房源空上人の師匠を、梅原先生は最初から叡空上人ただ一人と言われるのです。仏教史の革命児らしく法然上人の伝記は数多くあります。この数17本とされています。先生は、その根拠を『醍醐本(法然上人伝記)』の「別伝記」から引用されます。この本は、数ある法然上人の伝記で最古の本?。その論拠が、法然上人が生涯大切にされた戒である『大乗戒(円頓戒=えんとんかい)』とされます。
「法然は最初から叡空のもとに入門し、そこで戒を受けて正式な僧侶になったと考えねばならない。その戒は、源信(平安時代の大ベストセラー往生要集の著者)⇒良忍(りょうにん)⇒叡空⇒法然へと受けつがれた「大乗戒(円頓戒)」である。法然は後に叡空と仲が悪くなっても、この戒はやはり師叡空から伝えられたもの、つまり最澄(さいちょう)=「比叡山延暦寺の建立者にして日本天台宗の創始者」以来の天台仏教の伝統の戒であるという誇りを失わなかった。そして現在もなお浄土宗各宗派の寺院、金戒光明寺でも、知恩院にも、この戒は脈々と伝えられている」(『法然の哀しみ(上)』(161頁~163頁)とあります。ここに、法然が死に際して、尊敬する円仁(最澄の愛弟子=第3代天台座主)の衣をかけた理由が明確になります。これにより、師匠はやはり叡空上人一人が正しいように思うのです。では、何故に師匠3人説となったのでしょうか?続く・・・・
写真・・裏庭のキリシマの花


承元の法難(弾圧)・・・⑪3人の師匠(ししょう)

2012-04-24 12:05:23 | Weblog
今まで、法然上人の生涯の表面に過ぎませんが、『勅修御伝(ちょうしゅうごでん)』である『四十八巻伝』と呼ばれる『法然上人行状絵図』を基本にして書かせていただいています。勿論、親鸞聖人撰述の『西方指南抄(さいほうしなんんしょう)』も参考にはしていますが。この『四十八巻伝』は、法然上人の往生後、約一世紀を経て作られた浄土宗公認の法然上人伝です。だから、原本は浄土宗の総本山である知恩院あります。
それにしてもです。13歳、あるには15歳で比叡山に登られて、18歳にして比叡山山中の黒谷におられる叡空(えいくう)上人のもとに身を寄せられるまで、僅か数年、又は3年の間に師匠を源光・皇円・叡空と3人も師匠が変わっているのです。
自坊の裏庭に咲く山吹の花。法然上人も、比叡山で見られた筈です。

伝記では、それぞれにもっともらしい理由はつけられていますが。例えば、源光上人が皇円上人に勢至丸(せいしまる=法然上人)を預けるに際して、「自分は、愚鈍(ぐどん)であるから、このような優れた少年を導く資格はない。だから碩学(せきがく)に教えを受けて、天台宗を極めなさい」と言われたと伝えられているのですが、こんな事、学問の世界ではありえない事です。まして、戒律厳しい当時の仏教界においてです。つぎつぎと師匠を変えるようでは、前の師匠からは疎んぜられ、後の師匠からは重んじられません。例えば、親鸞聖人の出家得度(しゅっけとくど)の戒師になられたという慈円僧都(じえんそうず)。戒師になられるという事は、その門下に入るという事であり、一生涯に渡って師匠なのです。しかし、ご承知のとおり聖人は六角堂の夢の告(夢告)を経て、法然上人のもとに走られました。慈円僧都から見れば、これは明確な裏切り行為であり、けっして許す事は無かったでありましょう。その証拠に、承元の法難に際して、慈円僧都はまったく親鸞聖人を助けようとされた形跡は全くありません。それどころか・・・・(後に詳しく)学問の世界は、今も昔もよく似たものです。
写真・・裏庭にツツジの花。自然はサイクルを淡々と咲きます。

まして、愚かな師匠ほど優秀な弟子が入れば、手放すことをためらうものです。ですから、どのような事があろうとも、数年、又は3年の間に師匠を次々とかえる事は無理があるのです。では、これをどのように整理したらよいのでしょうか?続く・・・・

96000人 因縁(いんねん)の深さを知る

2012-04-22 22:46:13 | Weblog
4月22日(日)午前10時から、お父さんの33回忌法要をあるご門徒さんが自坊本堂にてお勤めになった。自坊は、4月15日にご動座法要を修行し、阿弥陀様はお帰りになったばかり。だから、個別の案件では初めての法要。この法要を通じて、つくづく思い知った事があります。それは、因縁の深さ・強さという事です。
なぜならば、今回修復工事をさせていただいた自坊本堂は、嘉永元年(1848年)に3代目本堂として建立された総欅(けやき)造りの本堂です。この本堂建立にあたり、欅(けやき)等の木材は藤原町西野尻の山から切り出されました。今回の修復工事でも、金剛組の大工さんが「ここの本堂は、地元の欅を使用していますから、気候風土にマッチしており、全く傷んでいない素晴らしい欅です。」と絶賛の木材。
実は、この欅等の木材は、あるご門徒が20年の歳月をかけて、吟味に吟味を重ねて自分の山から切り出された木材なのです。自坊の第11代住職・正晃(本堂建立時の住職)は、そのご門徒の葬儀にあたり次のように書き残っています。「本堂再建につき、無二の世話人死亡す。この人、西野尻から毎日通い、本堂の再建を陣頭指揮す。我、ここに断腸の思いでこれを書く」とあります。
実は、本日の33回忌法要はその方のご子孫なのです。偶然とは申せ、本堂が本堂として活動始めた最初の法要が、「無二の世話人」と呼ばれた方のご子孫の法要とは、深い因縁を感じざるを得ません。深い深い因縁=縁起(えんぎ)により、阿弥陀様がお呼びになったとしか思えないのです。現象面のみで判断する風潮が蔓延するのが今日の社会です。しかし、目にはみえないけれど、釈尊が今に伝えられた「縁起(えんぎ)の法=因・縁・果」が、重々無尽に確かに働いている姿を改めて実感した事です。
皆さんと共に。

このブログの訪問者が、96000人(正確には、96160人)を超えていました。いつも訪問していただき有難うございます。

承元の法難(弾圧)・・・⑩比叡山修学の巻

2012-04-21 14:00:40 | Weblog
顰蹙(ひんしゅく)をかっております。連載をしていた筈の「承元の法難」が、3月27日を最後に完全にストップ。投稿していた本人も、どこまで書いたのか判らない始末。親友より「お前、承元の法難は辞めたのか」とのメール。「そんな事はないのだけれど、なかなか書けずに・・・・・。」
このブログは、順調に訪問者を迎えております。96000人を、今日超えていました。どんな人達が、定期的に読んでいただいているのかを想像してみますと、勿論自坊の門徒の方もおられるのは事実ですが、どうやらお寺関係、門徒推進員関係、中央仏教学院関係の方が多いように思えるのです。そして、有縁の門信徒の皆さん。一日のアクセス数は、130~150前後のアクセスです。(多い日には200人を超える時もありますが)その内、40㌫前後はお寺関係ではないかと思います。ですから、親しきが故に上記のお叱(しか)りメールをいただく事となります。
という訳で、暫くの間は「承元の法難シリーズ」に専念します。でも、すぐに脱線する事は間違いないのですが・・・・・・
さて、3月27日の「承元の法難」⑨は、幼き法然上人(幼名・・勢至丸)が故郷を離れて比叡山に登り、西塔の源光(げんこう)上人の弟子となり修学を始めたところで終了しています。ところが、2年後の久安3年(1147年)、源光上人(勢至丸15歳の時)は勢至丸を当時比叡山において学徳兼備で名をはせていた東塔西谷の皇円上人のもとにおくり、皇円上人のもとで出家・受戒をしたとされているのです。この際、源光上人は「自分は、愚鈍(ぐどん)であるから、このような優れた少年を導く資格はない。だから碩学(せきがく)に教えを受けて、天台宗を極めなさい」といったと伝えられています。
皇円のもとでの修学は凄まじく、天台宗を開いた中国の天台大師・智(ちぎ)の著作である天台三大部(『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観(まかしかん)』)の60巻を3年で読破したと言われています。これなど一生かけても理解できない僧侶多数。伝記通りであれば、法然上人の天才ぶりが際立ちます。
別冊太陽・・法然(29頁より複写)四十八巻伝 巻3段5の場面
左側の人物が法然上人

皇円は、法然の非凡な才能に感激し、「学道をつとめ、大業をとげて、円宗の棟梁と成りたまえ」と励ましたとされている。円宗の棟梁とは、天台宗の頂点にたつ天台座主の事です。つまり、「皇円は法然にしっかり勉強して天台座主になりなさい」と話した訳である。しかし、法然は18歳になる久安6年(1150年)に突然皇円のもとを去り、比叡山麓黒谷の叡空のものとに飛び込むです。
めまぐるしく師匠が変わっていきます。普通は、こんな事はありえません。何故なのだろうかと考えてしまいます。以下は続きます・・・・・

ビックリしました

2012-04-18 22:55:06 | Weblog
昨日(4月17日)、金剛組名古屋支店の営業担当さんから電話があった。「明日、上司とご挨拶に伺いたいたいがご住職のご都合はどうですか?」私「明日は、一日中裏庭の掃除です。いつでもどうぞ」と回答。今までの名古屋支店長さんが転勤され、新支店長さんが赴任されたと聞いていましたから、その方がご挨拶に来られるのかと想像していました。
本日の午前11時。「金剛組さんが来られましたよ」との呼び声。名刺をいただいてビックリ仰天。金剛組大阪本社の新代表取締役社長の刀根健一さんなのです。「本社の社長さんが、なんでまたわざわざ三重県最北端の自坊まで来られたのか?」と私の脳みそはフル回転。でも、疑問符?お話を聞かせていただき納得。
「この明源寺さんの本堂修復工事、及び耐震工事は金剛組が総力をあげて担当したと聞いています。ですから是非とも拝見したかった」との話。この嬉しいお言葉を、私はご門徒の皆さんにも是非とも聞いてもらいたかったと思いました。今回の修復工事は、混迷をきわめる経済状況にもかかわらず、明源寺有縁の門信徒の皆さんが苦しい中で総力を結集。その懇志により実現したもの。ですから、懇志を生かすも殺すも担当していただいた金剛組さん次第です。修復工事終了後に、新社長さん自らが自坊に足を運んでいただいた。この事は、「責任ある仕事をしました」というメッセージに他なりません。住職として、金剛組さんにお願いして本当に良かったと実感した瞬間でした。全てのご門徒の皆さんに、お伝えしたいメッセージです。

左から2番目が、金剛組新代表取締役社長(刀根健一さん)
右端が、金剛組新名古屋支店長(重村良一さん)
左端が、金剛組名古屋支店営業担当(堀さん)

春風に乗って・・・・・

2012-04-17 23:30:09 | Weblog
今日(4月17日)は、穏やかな一日。春風に乗って満開の桜の花も散り始めました。お昼過ぎの事です。四日市から2人の若い男女が自坊を突然訪問されました。
2人は、自坊ブログの読者。この突然の訪問に驚いていると、『阿弥陀様のご動座法要のご縁にと思っていたのですが、どうしても来れなかったので今日来ました』との事。そこで本堂に案内。両手を合わせていただきました。その後、思ってもいない展開となったのです。「雑巾を持ってきたのですが、本堂のどこかを掃除させていただけませんか?」と雑巾を出された。「本当にいいの」と私。「やるき満々です」と若い2人。そこで、本堂の雑巾掛けをしていただく事に。

「すごく楽しいです。阿弥陀様のお家のお掃除をさせていただいている感謝で一杯です」と彼女の言葉。「させていただく」という表現。すごく良い言葉です。しかし、なかなか使えない言葉です。「してやる」・「してあげた」が最近の風潮。だから、自分の意にならないと必ず批判の言葉が。そうではなくて、「させていただく」は春風のようなさわやな言葉です。しかも、真宗の教えである「報恩・感謝」に裏づけされた信仰の持ち主だからこその言葉。「阿弥陀様に呼ばれて、お掃除をさせていただいた」、これが彼女の心境なのでしょう。この若い2人、中央仏教学院(通信制)で浄土真宗のみ教えを本格的に勉強を考えておられます。できる限り応援しようと思っています。
境内の見れば、今年も源平桃の花が満開。しばらく楽しめそうです。





春爛漫。上石津町の時集落の桜のトンネル・・・・・

2012-04-16 22:06:24 | Weblog
実は、昨日の本堂大掃除とご動座法要に愛知県からも4名の方が参詣していただきました。浄土真宗の教えを学ぶ中央仏教学院(通信)の生徒さん達です。当初は、掃除にも参加したいとの事でしたが、予定より1時間も早く掃除等が終了しため自坊に到着された時は、正信偈の勤行の最中でした。しかし、折角来たのだからと掃除もお手伝いしたいとの事で書院のガラス拭きをしていただきました。
写真 ご動座された阿弥陀様をバックに

色々なお話を聞かせていただきながら、遅いお昼を共にいただく事になりました。そこでの話題は、やはり中央仏教学院の進級試験の事。3年次には、法話演習もあります。「原稿を見てはいけないよ」との試験官の一言で、頭のなかがパニックになり散々な法話となったとの話。法話の中味は、「当てにならないものを当てにしている人間の愚かさを、真宗の教えにより目覚めさせていただいた」というもの。その方曰く、「結局、この散々の法話を通じて、一番当てにならないものは自分であったと気づかされた」との話。成程と一同納得。
「帰りは、関が原から帰られたら」と提案。理由は、上石津町はおそらく春爛漫の桜ロードになっている筈です。期待に違わずに、桜は今は盛りと春爛漫。満開の桜並木が続きます。

そして、桜のトンネルです。でも、不思議なのはこれだけ素晴らしい桜であるのに誰も見学者がいないのです。途中通過した藤原町白石公園の桜は黒山の人だかり。午前中、自坊に来ていただいたご門徒さんとも大勢出会いました。後少し、時の集落まで車で走れば桜を堪能できるのにと思った事です。

お勧めの桜の木で記念写真。

最後は、上石津町の名刹である唯願寺さんにお参りしました。そして。関が原駅から帰路に。遠方、ようこそお出でいただきました。