明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

164000人 母親の嬉涙・・・・?

2013-09-30 23:20:40 | Weblog
今日(9月30日)午前9時頃の事です。郵パックにて届けられた物があります。見ますと受取人は母親の名前。
写真・・届けられた細長い品物。

「御婆さん(母親の事)、一体何を頼んだの?」と私。「わしは知らん」と母親。そこへ坊守が割って入ってきました。「お母さん、困ります。カタログにて勝手に注文してもらっては。こちらも予定がありますから」と坊守。まさに一発即発の怪しい雲行きです。ともかくも、中味を見てみようと外包みを外しますと・・・・

京都の「つえ屋」さんのパッケージが出てきました。「つえ屋」さんは、杖の専門店。一同「アレレ」状態です。手紙が同封されていました。京都に嫁いている娘からです。お婆ちゃん宛の手紙。それを読む母親は、先程の険悪ムードはどこえやらです。手紙を読むなり、うれし涙で目がたちまちに潤んできました。

敬老の日にと、孫から杖の贈り物だったのです。こうなるとハイテンション。足が痛い筈なのですが、得意げに杖を突いて室内をあちこち闊歩。

思わぬ贈り物です。嬉しかったに違いありません。母親の頭の中は、幸福の文字が飛び交い、秋風に吹かれるコスモスの花状態の筈です。

こうなると不思議なもので、90歳の母親はアドレナリンがみなぎり俄然やる気が起こったようです。4月14日修行の二法要の当日懇志の木札を突然の法則にて書き始めたのです。「わしが書く」と宣言したものの余りの多さに途中で中断していました。午後1時前に、自坊に戻ってきましたら木札は300枚を軽く突破。これにはビックリ。

門徒総代さんに連絡して木札を貼り出していただく日も近くなりました。
このブログの訪問者が、164000人(正確には、164036人)を超えていました。いつも訪問していただき有難うございます。

理想の葬儀式・・

2013-09-30 01:15:12 | Weblog
今回のブログに使用する写真は、9月27日(金曜日)午前11時より美濃加茂市にて厳粛に修行されました葬儀式の写真の一部です。ですから、お手次のご住職、会館・葬儀社、何よりも喪主の皆さんには事前に了解(ブログ投稿も了解)を得て撮影したものです。しかし、人生最後の厳粛な儀式である葬儀式の写真ですから、ご迷惑のかからないように最大限に配慮いたしました。
今、時代の流れのなかで葬儀も大きく変貌を余儀なくされています。それは、葬儀の簡略化と簡素化の動きと申して差し支えないと思います。そんな中でも、浄土真宗の教えに相応しい葬儀を修行する事は、住職として最大限に配慮しなければならい事であります。
岐阜教区東陽組光宗寺のご住職から、電話がありまりました。「9月27日に葬儀がありますから参考にされませんか」という中味でした。当日は、午後3時より名古屋にて法務がありましたが、幸いにして午前中は空白の時間でした。当日、午前8時30分に出発。
写真・・美濃加茂に向かう東海環状。風景は、地元の藤原町と余り変わりません。

実は東陽組(そ)では、組内(そない)の寺院、及び近隣の葬儀社が一同に会して、会館を借り切り浄土真宗本願寺派の葬儀を実際に研修されています。(地元新聞でも掲載されたとの事)この研修会は、葬儀式をそれぞれの場面にて意義等を説明しながらの実地研修であったと聞いています。実に画期的な企画です。羨ましい限りです。
この成果は、葬儀式当日の司会者(勿論、葬儀社の方と思われます。)の進行も、無駄が全くなく本願寺派の葬儀の流れを完全に理解され、そして教えに基づいた進行でありました。美辞麗句は、全くありません。司会一つでこんなにも葬儀の雰囲気が違うものなのかと感じいりました。つまり、葬儀式=葬場勤行は、故人を偲びつつ、故人が常日頃、念仏者として親交のあった手次寺住職・親族・知友と共に行う、最後の日常勤行なのです。したがって、この場合の勤行は、念仏者=故人が朝夕勤行してきました、浄土真宗で最も基本的な聖典である『正信念仏偈』が拝読されるのです。この事をおさえる事がポイント。そうでないと、葬儀式が告別式(お別れの会)になってしまいます。
写真は、葬儀会場。会場も、華美な荘厳は何一つありません。私も、出勤させていただきました。

そして、写真はありませんが、ご遺族全員が真宗門徒である証(あかし)である「門徒式章」をかけておられます。そして、会場にも「門徒式章」をかけた方がちらほら。今、員弁組が実施している「連続研修会」にて、第2回目のテーマ「葬儀」でした。担当した私が強調した事、「必ず門徒式章をかけましょう」を実践しておられるのです。上記の組研修会にて申し合わせをされたとか。
浄土真宗本願寺派の葬場勤行の作法に基づき、葬儀式は進行。
①出棺勤行
②転座(場所を変える事)
葬場勤行
③三奉請
④導師焼香
⑤表白
⑥正信念仏偈
⑦短念仏
⑧添引念仏
⑨添引和讃
⑩回向文
⑪出勤法中退席
ここでも、驚きでした。焼香順で名前を呼ばれるのはご家族のみなのです。後は、一切なし。全員が、その場の厳粛な雰囲気を壊すことなく粛々と焼香です。大勢の参列者にもかかわらず正信偈最中に焼香は終了。係りの方の見事な誘導でした。
ここからは、故人との最後のお別れ「告別式」です。僧侶は、退席しています。ここで、仏教賛歌「みほとけにいだかれて」が歌われたのです。写真右側に注目

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「みほとけにいだかれて」の生演奏で最後のお別れです。歌詞の通りに、大いなるものに抱かれて、浄土の旅に旅立つ故人。実に考えさせられる葬儀式を拝見しました。このような機会を与えていただき感謝申し上げます。又、私が出勤させていたく事を了解していただいた喪主様にも深く感謝申し上げます。
「み仏に抱かれて」の歌詞

       一、  みほとけに  抱かれて
           君ゆきぬ  西の岸
           なつかしき おもかげも
           きえはてし かなしさよ

       二、  みほとけに  抱かれて
           君ゆきぬ  慈悲の国
           みすくいを  身にかけて
           示します  かしこさよ

       三、  みほとけに  抱かれて
           君ゆきぬ  花の里
           つきせざる  たのしみに
           笑みたもう  うれしさよ

       四、  みほとけに  抱かれて
           君ゆきぬ  宝楼閣(たまのいえ)
           うつくしき  みほとけの
           なりましし  とうとさよ 
   







棕櫚(しゅろ)の木・・・・

2013-09-28 02:08:15 | Weblog
自坊の境内各所には棕櫚(しゅろ)の木が生えています。昨日(9月26日)、その内の一本を伐採していただきました。伐採した棕櫚の木は、本堂と書院の間の中庭に生えていたもの。ですから、人知れず生えていました。ただし、年代もので樹高5m余り。
棕櫚は、排水良好な土地を好み、土地条件を選ばず、耐火性も併せ持つ強健な樹種です。生育は遅く、管理が少なく済むため、手間がかからないのが特徴。
写真は、棕櫚の上部

そして、棕櫚の皮が利用度抜群なのです。古来から盛んに利用されてきました。その理由は、シュロ皮の繊維は、腐りにくく伸縮性に富むため、縄や敷物、箒(ほうき)などに加工されたのです。
写真は棕櫚皮

盛んに製作されたのが棕櫚(しゅろ)の箒(ほうき)。なぜなら、棕櫚の樹脂は床を磨く効果があるといわれているのです。つまり、使えば使うほどに毛先が柔軟になって使いやすくなり、床や畳にもツヤが生まれるそうです。普通に使っても20年は楽に持つのだそうです。自坊本堂にも棕櫚箒があります。
写真は、本堂の棕櫚箒。この棕櫚箒は、子供の頃から存在しています。

ところが、写真のように上部が勝ちすぎて、強風の場合は大きく左右に大揺れを起こしていました。いくら強健な樹種と言いましても、根本から折れる危険性もあります。そうなりますと屋根を直撃。「これではいけません」と伐採。といいましても、私には伐採技術が有る訳がありませんので、当然のごとくに作業を委託する必要があります。そこで、いつもご無理をお願いしている○○さんに依頼。強風のなかを伐採していただきました。
写真は、伐採後に中庭から棕櫚の上部を引っ張りだしています。

棕櫚は手間がかからないのが特徴であるために、どこでも見られる植物なのですが、お寺にはどうした事か棕櫚の木は必ず存在している筈なのです。その理由が下の写真。

伐採した棕櫚の上部を、一輪車にて運んでいる最中なのですが、背後の鐘楼堂(しょうろうどう)に注目してください。実は、釣鐘(つりがね)を打つ撞木(しゅもく)には棕櫚の木が最適なのです。先人は、この事を経験から判っていました。ですから、お寺には多くの棕櫚の木が植えられたのです。

第18回定例法座(白骨の御文章)・・今日は、秋本番?

2013-09-26 19:09:54 | Weblog
9月26日は、第4週目の木曜日。定例法座の開催日です。昨日までの蒸し暑さがウソのような天気となりました。大陸の秋の高気圧が張り出してきたのです。風も強くTシャツでは小寒い程でした。まるで秋本番の天気。これが困るのですね。こんなに気温の温度差があります体調管理も難しくなるというものです。
それでも、第18回目となる今日の定例法座には15名の皆さんが参加していただきました。

今年の4月からは、蓮如上人の『御文章=お文(ふみ)』を味わっています。今日は、『お文』のなかでも名文中の名文とうたわれる有名な「白骨の御文章(第五帖目第16通)」でした。「それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観(かん)ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。さればいまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。(略)」で始まる「白骨のお文」は、東西の浄土真宗門徒であれば必ず一度は聞かれた事にある「お文」です。
それでは、いつ聞かれたのでしょうか。それは、葬儀という儀式のなかで僧侶が拝読する「白骨のお文」を聞かれた筈なのです。斎場でご遺体が荼毘(だび)にふせられお骨となられて、自宅(又は、会館)に戻られて勤められる還骨(かんこつ)法要で拝読されます。つまり、葬儀のフィナーレを飾る「お文」なのです。葬儀とは、枕経からはじまり還骨法要で終わるのです。
ところが、会館葬が主流になりますと、すっかり還骨法要が抜け落ちて、会館に戻ればそく初七日法要と勘違いされている方が圧倒的に多いのです。もとより、初七日法要と葬儀とは全くの別物です。本来、初七日法要は別の日の筈。それを無理して、葬儀の後にくっ付けたものです。何故、こんなへんてこな話がまかり通ることになったのか?犯人は、葬儀社。そして、それを許している僧侶。葬儀の後に、初七日を勤める場合が圧倒的です。その場合の差定(進行表)は、還骨法要、そしてお蝋燭を変えて、初七日法要となります。この事を、強く抗議しない僧侶の罪は重大。葬儀社に流されて、還骨法要を勤めずに初七日法要に「白骨の御文」を拝読している場合もあると聞き及んでいます。ここまでくれば、語るに落ちた話。言語道断。野となれ山となれです。
さて、「白骨の御文」です。何故に還骨法要に際して、この「御文」を拝読するのか?遺族にとって、具体的にまざまざと白骨を目撃し、実感として死別の意味、無常の意味をそれぞれに解釈する唯一の機会なのです。だからこそ、せつせつと世の無常を歌い上げる「白骨御文」は素晴らしく美しいリズムで迫ってくるのです。これ程に流麗な文章は、他の御文には見られないほどです。人が、無意識のなかで感じている事、すなわち老少不定(死には、老いも若きも順番は決まっていないという事)の理(ことわり)が、華麗な言葉で迫ってくるのです。
だからこそ、蓮如上人は「誰のひともはやく後生(ごしょう)の一大事をこころにかけて」といわれるのです。「後生の一大事」とは、一大事のなかの一大事を言います。それは「生きているこの時にこそ、帰るべき故郷である浄土に必ず往生する立場になってくださね」という切なる願いの事です。すなわち、お念仏申す者に与えられる現生(げんしょう)十種の利益(この世で与えられる十種の利益)の一つ「正定聚(しょうじょじゅ)」の位につくこと。どのような人を「正定聚」の人というのでしょうか?それは阿弥陀様の本願(大いなる願い)を信じてお念仏申す人を言います。どうすれば「正定聚」の人になれるのか。それは、何ゆえに阿弥陀様は本願をお立てになられたのかを聞き取ることです。これを「聞法(もんぽう)=法を聞きぬく事」を呼びます。だからこそ各種の法座が開かれているのです。このようなお話をしました。
ところで、本日の本堂内陣のお花ですが、シンプル・オブ・ザベストで以下の写真となりました。
写真は、ご本尊前

これが大評判となりました。高田派真宗寺院に見られる「高田の一本松」にちなんで、「明源寺の黄金比婆」です。つまり、比婆の木が一本入れてあるだけなのです。それが形良く、あたかも立華のように見えるから不思議なのです。黄金比婆、一本300円なりです。
一方、境内の隅に目をやれば彼岸花の大群落が今が盛りを咲き誇っています。


そして、秋の花の代名詞、コスモスの花も咲きだしました。

秋は、そこまで来ています。

163000人 一気読みが出来る本・・・・

2013-09-24 23:32:13 | Weblog
六草いちかさんの注目の本、『それからのエリス・・・いま明らかになる鴎外「舞姫」の面影』を購入し読みました。「舞姫」の主人公であるエリスの生涯を描いた本。ブログで紹介した直後に、9月9日に通信販売にて購入。その感想を、すぐブログに投稿しよう考えていましたが、あれやこれやで遅れてしまいました。

393頁の新刊本を一気に読みました。まるでミステリー小説を読むようで非常に面白く、それこそ一心不乱に3時間程で読破。気がつけば徹夜に近い状態でした。今まで、多くの学者先生が追い求めてきたエリスというドイツの美しき女性とは誰なのか。諸説紛々で、エリスという女性は常に薄いベールに覆われて、その正体は謎のままで推移していたと言って過言ではありません。
若き時代、初めて「舞姫」という鴎外の作品を読んだ時、直感として「舞姫」は鴎外の至心懺悔の本であると感じていました。鴎外の人生とは、華麗は社会的外面とは裏腹にエリスの面影を求めた人生ではなかったのかと感じていたのです。
そして、鴎外との結婚を夢見て来日した乙女が、夢破れて傷心をいだきドイツに帰国し、どのような人生を歩んだのであろうかという事は、私ならずとも「舞姫」を読まれた読者の皆さんが一応に思いを抱く事です。
鴎外にとっては、エルスと結ばれなかった事は痛恨の極みであったに違いありません。筆者の六草いちかさんは、エリスと鴎外は遠く離れても生涯に渡ってお互いを意識し心で結ばれた存在であったと数々の証拠をあげて考えておられます。この結論を拝見し「ホッ」としています。運命の赤い糸は簡単には切れる筈はないのです。逆境にあればあるほどに、その糸は強く確かな糸として二人を結びつけていくのです。私は、そのように思っています。
六草いちかさんのエりス探しの執念には驚くほかはありません。執念という表現よりも、「私はここよ」というエりスの呼び声に導かれての不思議な調査であったと強く感じました。
それにしても、一気に読破できる本にめぐり合えて非常にラッキーでした。何日経過しても、一向に読めない本ばかりでウンザリしていましたから・・・
このブログの訪問者が、163000人(正確には、163146人)を超えていました。いつも訪問いただき感謝申し上げます。

深き古(いにしえ)の縁・・・

2013-09-23 22:33:02 | Weblog
昨日(9月22日)、秋田県の奥田酒造店(千代緑さん)からダンボール箱(20キロ)が贈られてきました。酒粕の袋が、ぎっしりと詰め込まれていました。

こんなに沢山の酒粕。大奥様の贈り物です。贈っていただいた酒粕は、正確に言えば「板粕」ではなく「練り粕」。「練り粕」は、「板粕」もしくは「バラ粕」を踏み込み、ひと夏(4ヶ月~6ヶ月)を越させて熟成させた酒粕なのです。ですから。この酒粕は、大吟醸の板粕から熟成し、「練り粕」が出来上がった直後に贈っていただいた事になります。その心遣いに感謝の言葉もありません。
最近、酒粕の効能が見直され人気に火がついています。人気商品なのです。何故なら、美白効果は勿論の事、数々の効能が発見されているのです。たとえば、酒粕の中には糖の吸収を抑える物質や、タンパク質の分解吸収を促進する機能性物質が含まれている為、糖尿病患者にとって酒粕は、願ったりかなったりの食品。 また、酒粕の中からは血圧の上昇を抑えるのに有効な物質が6種類も発見されており、様々な研究の結果、市販の高血圧の薬と同じくらい効くことが立証されているそうです。
大奥様の達筆のお手紙には、酒粕を使用するレシピも詳しく書かれていました。又、ブログでも紹介したいと思います。
お手紙には、レシピの他に意外な事が書かれていたのです。 このブログで、三回に渡り投稿した「親日の国 トルコ エルトゥールル号の奇跡」に関する件でした。お手紙を拝見に、重々に張り巡られた縁起の不思議さと深き古の縁の不思議さに唖然とするばかりでした。
昨年の11月12日、私達は奥田酒造店を訪問しました。その際、大奥様の見事なお手前にて抹茶をご馳走になっています。
写真は、茶室です。

写真は、チリ一つない茶道具一式。ピカピカに磨きあげられていました。

その時は、美味しく頂戴しただけなのですが、実は大奥様の茶道の流派は、茶道界の名門である宗徧流(そうへんりゅう)。その第8代家元が山田宗有(そうゆう)。この人は、「エルトゥールル号の奇跡」とも深くかかわった人物である事が書かれていたのです。このお手紙を拝見し、「ハッ」と気づく事がありました。『歴史街道3月号』に紹介されていた山田寅次郎です。
写真の紳士が、山田寅次郎さん。歴史街道3月号を複写。

明治23年9月16日、当時の日本人が経験した事がない海難事故である「エルトゥールル号遭難」の悲報は、新聞等で報道されました。日本人は、心ならずも異国の地で犠牲になったトルコ海軍の乗組員に哀悼の誠を捧げました。そして、その悲劇性故に多額の義援金が集まりました。なかでも、当時25歳の山田寅次郎は新聞社の協力を得ながら独力で義援金を呼びかけました。そして、政府の承認のもとに明治25年1月30日に、義援金とともに日本を出発。無事に、義援金をトルコ側に引き渡し、以降は日本とトルコの友好のために20年間トルコに滞在したのです。そして、日本帰国後に茶道惣徧流(そうへんりゅう)第8代家元を襲名、山田宗有(そうゆう)と名乗りました。つまり、快男子の山田寅次郎と家元山田宗有は同一人物だったのです。その茶道惣徧流の直伝の抹茶を、大奥様から頂戴していた事になります。これには、本当にビックリしました。目には見えない重々に張り巡らされた縁起の法を垣間見たような気がしています。この『親日の国 トルコ』は、書いたのでなく不思議な力により書かされたというのが実感です。




気がつけば秋がそこまで・・・・

2013-09-21 06:42:52 | Weblog
少し時間はさかのぼりますが、9月中旬に越後(新潟県)を訪れる機会がありました。まだまだ猛暑の影響を色濃く受けて服装はTシャツ。台風18号が、日本本土を狙っている直前でもあり天候が心配されましたが、不思議と雨にも遭わずに全行程を終わる事ができました。
北陸道の米山薬師サービスエリアにて撮影。穏やかな日本海を目の前にして、アクビが連発。かなりのお疲れ様状態。遠くにカップルの姿が見えます。羨ましい限りです。

自動車道の両側は、収穫前の稲が黄金色。風に吹かれて黄金色の穂が波打っています。これ全て「コシヒカリ」。今年も豊作なのでしょうか?

あちらこちらで盛んに刈りいれ作業の真最中。台風が接近しています。水につかれば今までの苦労が台無し。作業も時間との勝負・・(台風18号通過後、南魚沼郡の田圃の状況がニュースで放映されていました。水に浸かり収穫が見込めないと農家の方の苦渋の表情が・・)

でも、気になる事がありました。米どころ新潟県でさえというべきなのでしょうか?それは、稲に混じって雑草が生えているのです。自坊も田舎です。昔は、農家の方が田の草を盛んに除去されていたのを思いだします。文字通り「丹精込めて」という表現がピッタリの風景でした。しかし、ヒエだと思うのですが豊に稔った稲に混じっているのです。勿論、ヒエもイネ科の穀物ですから雑草とは違いますが。

明治までは、お米は大半は年貢として取られ、お百姓さんは「ヒエ」等の穀物を主食にせざるを得ない時代が続いていました。日本ではかつて重要な主食穀物であったのです。そんな、暗いイメージを持ってしまうのが「ヒエ」。しかし、昭和期に米の増産に成功した事で消費と栽培が廃れました。最近は優れた栄養価を持ち、また食物繊維も豊富な事から健康食品として見直されつつあるそうですが・・・・・・
しかし、この場合は別の話です。田圃にヒエが生えまくる姿は、日本農業のひずみのようにも思いました。PTPの結果、海外から安い農産物が流入してくれば、農家は両手を挙げざるを得なくなるのではないでしょうか?今後、起こるであろう事態を垣間見たような気がします。下の写真は、山間部の棚田。完全に放棄され杉とススキの原っぱです。深刻な現状。働き手がいないのです。農地の荒廃は着実に進行中。

でも、足もとを見ればそんな人間の思惑とは関係なしに彼岸花が。秋はそこまで来ているのです

そういえば、自坊(三重県北部の山間部)でも朝夕はめっきり涼しくなりました。Tシャッ一枚では寒い程です。








十五夜の月に思う

2013-09-20 18:10:26 | Weblog
昨日は中秋の名月でした。雲ひとつなく煌々たる月光のなかで、中秋の名月を堪能された方も多いと思われます。幻想的な月光にて、自坊境内の雰囲気も普段と違っているように感じました。観月会でもすればよかったです。
親鸞聖人の旅姿、十五夜の月光を浴びて・・・絵になります。

神々しい程の月光を浴びて、40年前の山形県は月山登山を思いだしました。記憶は、月光のなかで見事にフラッシュバックです。

40年前の11月1日、名古屋から3人の大学生が出羽三山の登頂目指して出発しました。その一人が、私(当時、某大学の山岳部)。新幹線・東北本線等乗り継ぎ、山形県は月山麓静のバス停に降り立ったのが11月2日早朝。その日は、月山のスキーハウスで宿泊。そして、11月3日早朝から本格的に月山山頂を目指しました。登山道は、見事な東北の紅葉。ナナかまど等が、深紅に染まっています。その艶やかさは口には表現できない程です。
紅葉の月山                    遠く鳥海山を望む

しかし、登りはじめて3時間ほどで天気は急激に悪化。山頂直下の山小屋にたどりついた時には、猛烈な吹雪になっていました。やむなく山小屋に無断で入り、山小屋にて吹雪をやり過ごすことになりました。(山小屋は、10月末で閉鎖)水筒の水が完全に凍ったのは、後にも先にもこの時ばかりです。それ程に、猛烈な寒さと雪でした。そして、4日後に月光のなかで下山できたのです。

この中秋の名月を眺めながら、上記の事を思いだされました。私達は月光に救われたのです。ですから、おろそかにはできません。そこで、秋の七草の一つであるススキにてお飾りしました。

しかし、最後は月見より団子です。頂戴した可愛い月見団子を美味しくいただきました。



親日の国、トルコ・・・③

2013-09-18 21:16:44 | Weblog
台風18号・葬儀等で、すっかりブログがご無沙汰状態。本日、秋晴れのもとで葬儀も無事終了。「ホッ」としています。しかし、台風で散乱した落葉の片付けも時間たらずで中途半端のまま。どちらかと言えば、自坊はまだ台風直後。明日からの、境内の掃き掃除を思いますとため息ばかり。
1週間以上の空白となり、「親日の国、トルコ」のモチベーションをあげるのに一苦労です。でも、何故トルコの人々が親日的なのか、その理由を書かねば片手落ちというものです。キーワードは、トルコ(当時は、オスマントルコ帝国)の軍艦「エルトゥールル号」の海難事故です。
写真・・歴史街道3月号より複写(紀州沖のエルトゥールル号)

明治23年(1890年)9月16日、紀州沖で台風に遭遇した「エルトゥールル号」は海難事故をおこし船は沈没。この大惨事に、地元(和歌山県串本紀伊大島)の人々は、自分のいのちの危険をおかして遭難者の救助にあたりました。そして、69名の乗り組み員を助けたのです。これが「エルトゥールル号」の奇跡と呼ばれている海難事故。でも、日本では地元の人々を除いて殆ど知る人はいません。一方、トルコでは今でもこの海難事故を知らない人はいないといわれています。この違いは、一体どうした事なのでしょうか?
実は、トルコでは「エルトゥールル号」の海難事故と、当時の大島の人達の示した「信じがたい程の決死的救助」の姿が、感動をこめて現在のトルコの小学校5年生の教科書に語られているのだそうです。それほどに、大島の人達が示した勇気とやさしさにトルコの人達は心を打たれたのです。そして、決して忘れてはいけない事として今に語りつがれてきたのです。
写真・・歴史街道3月号より複写(右下が、トルコの教科書。左上が、日本語訳だそうです)

「エルトゥールル号」は、答礼施設として日本を訪れてその帰路の海難事故。600名の乗り組み員のうち救助された69名を除いて、全員が死亡まはたは行方不明という大惨事の海難事故。その時、救助にあたった紀伊大島の人々の献身的な姿がトルコの人々の心をうったのです。明治天皇も、しらせを受けるや政府をあげての救援を命じられ、日本海軍を船2隻を出して生存者をトルコに送り届けました。この日本人の姿が、トルコの親日感情の源となったといわれています。そして、「エルトゥールル号」の恩返しとばかりにイラク・イラン戦争に際して救援機派遣となったのです。この事は、日本人として決して忘れてはならない事と思うのです。
最後に、紀伊半島大島の樫野崎には「トルコ軍艦遭難慰霊碑」があります。事故後、地元の人がトルコの海難遭難者を追悼している事も聞いた、トルコ共和国初代大統領のケマル・アタテュルクが国費を投じて昭和12年(1937年)に建立したものです。そして、地元の人々(特に小学生が清掃作業)が今も守り続けておられると歴史街道には書かれていました。これが、本当の意味の真心の交流であると思います。

台風余波・・あれこれ

2013-09-17 09:37:52 | Weblog
台風18号で、近畿東海を中心に大きな被害が出ています。京都嵐山の渡月橋の映像は衝撃的でもありました。何度も訪れた場所でもあり信じられない思いで映像を見ていました。写真は、共同通信社インターネット版ニュースより複写

しかし、この映像をみて思い出した事がありました。『平家物語』の巻1には白河法王(平安時代後期の11世紀中頃人物)の言葉として「賀茂河の水、双六の賽、山法師、これぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという話です。「治天(ちてん)の君(きみ)」として、絶対権力を欲しいままに操った法王ですら、上記の3つの事は思うままにはできないという意味なのですが、その冒頭にあるのが「賀茂河の水」ですから、古来氾濫を繰り返す暴れ川として知られていた賀茂川がもたらす水害はどうにもならぬと白河法王が嘆かれた訳です。京都は、古くは川の氾濫に悩まされてきた場所であったのです。しかし、度々の河川改修工事により水害とは無縁の古都と思っていましたが、歴史は繰り返すです。
京都にいる子供達が心配になり電話をしましたが、本人達は全くの脳天気状態。大雨特別警報の発令・避難指示等の情報すら知らずじまい。「テレビをつけろ」と怒鳴りたくもなります。
一方、こちらは14日~16日にかけてはびっしりと法務が予定されていました。それに追い討ちをかけたのが台風18号。16日午前にはご法話の御縁が予定されていました。暴風警報発令中でもあり中止の連絡と勝手に判断していましたが、決行だそうで半信半疑。お参りの方はあるのだろうかと思いましたが、昨年よりは流石に少なめでしたが30名ほどの皆さんがお参りでした。
そして、お葬式の訃報です。ヤフーの雨雲情報と道路情報を絶えず見ながら名古屋まで枕経・仮通夜と何度も往復・・しかし、仮通夜から帰宅する頃(午後6時過ぎ)には東海地方から台風18号の影響はほぼなくなり、第二名環から西の空(三重県の方向)を見れば、綺麗な夕焼けが見られました。

完全にお疲れさん状態です。
台風余波の追記・・自坊下の道路を見れば、お隣の栗の実が散乱しています。お猿さんが大喜びです。