日本は、世界一の長寿国。しかし、生きているという事は、死のとなり合わせである事は何ら解消された訳ではない。生と死は、まさに隣合わせの存在の筈。
釈尊は、人間の実相をいみじくも『生・老・病・死』の四苦(しく)と看破した。日本の平均寿命が50歳を突破したのは明治以降。それまでは、死との隣合わせの生活であり、日常生活の中でも、心のどこかに死に対する意識が存在した。極端にいえば、明治以前の人生とは生と死が直結していた。故に、死の問題は考えずにはおれなかった。生死を超える教え、そして往生浄土を説く念仏門には輝きがあった。
しかし、現代社会は生と死の間に、老と病が大きく割り込み、死の存在は遠く先延ばしとなっている。そして、具体例を示すまでもなく「地獄の沙汰も金次第」の言葉が輝きを増す社会となってきた。自己啓発セミナー等は押すな押すなの盛況である。人は、それを価値観の多様化という。
一方、現代社会の持つ闇の部分も深刻さ増している。意外の思われるかも知れないが、現代社会程いのちが軽くなっている社会は存在しないと思う。尊厳である筈の人の死が、あまりにも軽いのである。
無縁社会からくる孤独死・年間3万人を超える自殺・後をたたない陰湿ないじめ・親が子供に対する虐待・子供がいとも簡単に親を殺す等である。このようなニュースが、途切れる事なく連日報道されている。何かがおかしい。何かが狂ってしまった。しかし、このような事を聞かされても、感覚が麻痺してしまっているのかさほどに驚かない昨今である。
一方、仏法の話を一度として聞くことなく、老後をむかえる人も今後は益々増えてくるであろう。
では、どうするべきか。私達は、説き続けなければならない。何を説こうとするのか。それは、「ニ河白道(にがびゃくどう)の物語」である。写真は,ニ河白道の物語の絵図。明日は、「ニ河白道の物語」・・・続く
釈尊は、人間の実相をいみじくも『生・老・病・死』の四苦(しく)と看破した。日本の平均寿命が50歳を突破したのは明治以降。それまでは、死との隣合わせの生活であり、日常生活の中でも、心のどこかに死に対する意識が存在した。極端にいえば、明治以前の人生とは生と死が直結していた。故に、死の問題は考えずにはおれなかった。生死を超える教え、そして往生浄土を説く念仏門には輝きがあった。
しかし、現代社会は生と死の間に、老と病が大きく割り込み、死の存在は遠く先延ばしとなっている。そして、具体例を示すまでもなく「地獄の沙汰も金次第」の言葉が輝きを増す社会となってきた。自己啓発セミナー等は押すな押すなの盛況である。人は、それを価値観の多様化という。
一方、現代社会の持つ闇の部分も深刻さ増している。意外の思われるかも知れないが、現代社会程いのちが軽くなっている社会は存在しないと思う。尊厳である筈の人の死が、あまりにも軽いのである。
無縁社会からくる孤独死・年間3万人を超える自殺・後をたたない陰湿ないじめ・親が子供に対する虐待・子供がいとも簡単に親を殺す等である。このようなニュースが、途切れる事なく連日報道されている。何かがおかしい。何かが狂ってしまった。しかし、このような事を聞かされても、感覚が麻痺してしまっているのかさほどに驚かない昨今である。
一方、仏法の話を一度として聞くことなく、老後をむかえる人も今後は益々増えてくるであろう。
では、どうするべきか。私達は、説き続けなければならない。何を説こうとするのか。それは、「ニ河白道(にがびゃくどう)の物語」である。写真は,ニ河白道の物語の絵図。明日は、「ニ河白道の物語」・・・続く