明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

無量の光を再度・・・③

2010-09-29 23:28:27 | Weblog
日本は、世界一の長寿国。しかし、生きているという事は、死のとなり合わせである事は何ら解消された訳ではない。生と死は、まさに隣合わせの存在の筈。
釈尊は、人間の実相をいみじくも『生・老・病・死』の四苦(しく)と看破した。日本の平均寿命が50歳を突破したのは明治以降。それまでは、死との隣合わせの生活であり、日常生活の中でも、心のどこかに死に対する意識が存在した。極端にいえば、明治以前の人生とは生と死が直結していた。故に、死の問題は考えずにはおれなかった。生死を超える教え、そして往生浄土を説く念仏門には輝きがあった。
しかし、現代社会は生と死の間に、老と病が大きく割り込み、死の存在は遠く先延ばしとなっている。そして、具体例を示すまでもなく「地獄の沙汰も金次第」の言葉が輝きを増す社会となってきた。自己啓発セミナー等は押すな押すなの盛況である。人は、それを価値観の多様化という。
一方、現代社会の持つ闇の部分も深刻さ増している。意外の思われるかも知れないが、現代社会程いのちが軽くなっている社会は存在しないと思う。尊厳である筈の人の死が、あまりにも軽いのである。
無縁社会からくる孤独死・年間3万人を超える自殺・後をたたない陰湿ないじめ・親が子供に対する虐待・子供がいとも簡単に親を殺す等である。このようなニュースが、途切れる事なく連日報道されている。何かがおかしい。何かが狂ってしまった。しかし、このような事を聞かされても、感覚が麻痺してしまっているのかさほどに驚かない昨今である。
一方、仏法の話を一度として聞くことなく、老後をむかえる人も今後は益々増えてくるであろう。
では、どうするべきか。私達は、説き続けなければならない。何を説こうとするのか。それは、「ニ河白道(にがびゃくどう)の物語」である。写真は,ニ河白道の物語の絵図。明日は、「ニ河白道の物語」・・・続く


無量の光を再度・・・②

2010-09-28 21:39:17 | Weblog
拙寺の周辺では、彼岸花が満開である。田圃の畔道等に赤い花が風に揺れる。秋は来たのだと実感する。




津本陽さんは、『無量の光(親鸞聖人伝)』上巻にて「世の中が穏やかで作物が豊かにとれている時は、庶民は死後の大切さを忘れがちで、つい現世の楽を求めるのであった」と記す。
そんな私達にも、この彼岸花は心の奥深くしまい忘れたものを「フト」思い出す機縁になる。
そもそも、彼岸花(ひがんばな)の名は秋の彼岸ごろから開花することに由来する。球根は有毒であり、死に至る場合も多い。この彼岸花は多くの別名がある。   この別名の一つが曼珠沙華(まんじゅしゃげ)。この言葉は、法華経などの仏典に由来することをご存知だだろうか。仏典では、"天上の花(曼珠沙華)”という意味であり、おめでたい事が起こる兆しに、「赤い花」が天からふってくるという説く。

そして、何より彼岸という言葉は、サンスクリット語(古代インドの言語)「波羅蜜多(はらみた))」の漢訳「到彼岸(とうひがん)」の略(りゃく)。通常、春分(秋分)の日の前3日と後3日の7日間(春・秋分の日も含む)が彼岸。
煩悩や迷いや悩みの多いこの世をこちら側の岸「此岸(しがん)」と言うのに対して、極楽浄土のことが、向う側の岸という意味で「彼岸」。この事から、あの世(彼岸)にいる先祖を供養する仏教行事となった。ゆえに、理由は分からずともお墓参りの習慣はお盆とともに盛大に行われている。
そして、彼岸が春分・秋分の日を中心としているのは、『仏説阿弥陀経』には西方の極楽浄土は西方十万億土(さいほうじゅんまんおくど)の彼方(かなた)にあると説く。つまり、太陽が真西に沈む彼岸は極楽浄土の方角がはっきりわかるから「彼岸」に法要が営まれるようになった。

人間には、二つの永遠の希望がある。それは、いつまでも長生きしたいという希望。そして、苦悩から解き放たれた光に満ちあふれた世界にあこがれる。この二つの願いが『阿弥陀如来』に込められていることを知らなければなりません。次に続く・・・・・

いただきもの

2010-09-28 17:10:34 | Weblog
今日の早朝は、昨晩からのが雨が続いていた。そして、午前6時頃には小止みとなった。「サア」お出ましです。裏山のサル軍団。そういえば、前回も雨が小止みになった早朝に登場でした。勿論、お目当ては隣の家の栗の実である。
栗の実は、極めて栄養価が高い実である。山栗ならば、動物達の最大のお目当て。熊も大好物です。写真は、お隣の栗。大粒のイガ栗が目に入ります。・・・・・

調べて見ると、栗にはカリウムが豊富に含まれているので高血圧予防や動脈硬化などに効果があるとされ、また血を作る葉酸も含まれていて、貧血予防や葉酸を多く必要とする妊婦の方にも最適とされる。これだけではない。食物繊維は、便秘改善に役立ち、ビタミンCは風邪予防や美容効果に効果大。そして、アンチエイジングという物質を含むことから老化防止にも優れているといわれている。あらゆる万能の実である。動物達が、来るべき冬に備えて栗の実を食べたい理由は分からないでもない。当然、人間に取っても同じ事。実を言いますと私の大好物でもあります。
そこで、栗の木をよく見てみますと、ありました。イガが弾ける寸前。大粒の栗の実が顔を出しています。まことに美味しそうです。こうなると、おサル達が必死の覚悟で山から出陣してくるのも分かろうというもの。



未練たらしく、一粒ぐらいは落ちていないかと探し回ったが、全くなし。見事に食べられています。残っているのはイガのみでした。

無量の光を再度・・・

2010-09-27 22:41:40 | Weblog
今日も、午後4時過ぎから雨。しかも、かなりの降り。午後からしていた外仕事を中止。空いた時間にて、8月5日にも投稿した津本陽さんの作品である『無量の光 上下巻』を読み直した。気になるところが有ったのである。

それは、今の浄土真宗の各教団・各寺院が抱えている根源的な問題に直結する箇所と思われる文章が端的に書かれているのです。少し、長くなるが津本陽さんの文章をそのまま引用。
『無量の光 上巻230頁~231頁』
「念仏によって極楽往生を望む者が増えるのは、飢饉で大勢の生き物が死に、あるいは疫病が流行して野山に屍があふれ、また戦乱で田畑が荒れ果てる世相の時である。そのようなときに人々の信仰心は高まる。
しかし、世の中が穏やかで作物が豊かに取れているときには、庶民は死後の大切さを忘れがちで、つい現世の楽を求めるのであった。人は、今にも命を奪われるかという不安のないときはまず金や物を欲しがる。
そのようなときには、我が身に幸運が巡ってくるか否かを教えてくれる呪いや占いを好む。占い師は客に対するとき、客の知りたいことをただちに喋るものはいない。まず、それとなくその者の生きてきた環境・家族関係とかそういったものを聞きだし、その上で占うのである。・・・・・(略)」

まことに、上記の文章の通りであるだろう。歴史に照らせば、浄土真宗の発展期には、その隣には戦乱と飢饉があった。親鸞聖人・蓮如上人・一向一揆の各時代が、いのちをやりとりする戦乱と飢饉の時代であった。江戸時代は、連続する飢饉と差別の時代でもありました。
今は、天下泰平平成22年。欲望が限りなく肥大化した長寿の社会。そして、お金があれば物質的には物が満ち足りた長寿の社会。種々の問題が複雑に入り混じった社会でもある。しかし、目の前の現実、現世の楽を最大限追求する極端な自力社会であることには変わりはない。
このような社会の中で、人々のこころに念仏往生の教えはなかななか入ることは難しい。一枚看板であった葬儀すら価値観の変化により大きく変貌を遂げようとしています。現にましまし、現にはたらき続ける他力の思想が最大限にピンチなのです。
では、どうすべきであるのか。勿論、私に回答などある筈はありせん。現実は現実として検証し、そこから出発する以外はないでしょう。・・・・・
ただ、上記の津本陽さんの文章の中で、「庶民は死後の大切さを忘れがちで」という言葉がヒントになると思っています。そして、津本陽さんの「無量の光 上下巻」は、浄土真宗の入門書として是非とも読んでいただきたい。
無量の光(親鸞聖人の生涯)上下巻 文芸春秋 各巻1714円+消費税
明日も続く・・・・

合計6時間

2010-09-25 22:55:29 | Weblog
拙寺の春を告げるのが、梅の古木。樹齢200年は経っています。でも、2月下旬に、元気に白い花を咲かせます。そして、境内に上品な香が漂います。これが、春の訪れです。写真は、今年の2月20日に撮影。

しかし、この時季(9月下旬~10月上旬)には困った問題が。新しい枝が四方八方に伸びているのです。職人さんに、入っていただければ解決するのですが、来年は拙寺本堂の工事期間中。ですから、職人さんに入っていただくまでもありません。となれば、自分で枝を剪定(せんてい)する以外はありません。この梅は古木。写真のように、幹の中は空洞。いわゆる洞(うろ)の状態。だから、支えての木で立っています。でも、古色蒼然(そうぜん)とした樹皮から水を吸い上げ至って元気。

しかしながら、この事が剪定作業をすこぶる困難に。何しろ、古木を持てばグラグラの状態。だから、キャタツと腕が伸びる剪定鋏(せんていばさみ)が必要となる。普通は、上から剪定していくのですが、とてもそんな状況ではありません。下から、一本一本と剪定作業。作業開始が、昨日の午後2時から。上ばかり見ているから、首が痛いこと夥(おびただ)しい。まるで、交通事故のむち打ち症状態。
写真は、今日の作業開始(午後2時)の状態です。上の方が手付かずの状態。これからが大変。

ただ、ひたすらキャタツの上にのり、しかもキャタツの位置を変えてチャレンジ。しかし、どうしても最上部の数本の枝を剪定する事ができません。

しかし、こうなるとこちらも意地。どうしても、最後の数本を・・・・・しかも、途中から一人ギャラリーあり。下から、「こうせい、ああせい」とやかましい事。母親である。本人は応援の積もりであるから始末に悪い。できるものならとっくにしております。

最後の手段と、キャタツから隣の木(金木犀)に飛び移り、高さを確保して最後の数本を目出度く剪定。執念の大勝利・・・・・

終了時間は、午後5時10分過ぎ。作業時間は、昨日からの合計で6時間以上。お蔭様で、午後7時からの法要は、首が痛くて痛くて、お経さんをいただくのが大変でした。ともかくも、無事終了です。






ここはどこ?

2010-09-24 19:16:33 | Weblog
ブログで、暑い・暑いとブツブツ言っていたら、昨日から天気予報通りに一気に気温が下がった。今日は、Tシャツ一枚でとても無理。突然に秋がきた。これだけ、気温の乱高下が激しいとなかなか大変。まだ秋物が、タンスから出ていないのである。大慌てで、秋物らしき物を引っ張り出す事となった。
さて、江戸後期の俳人に「小林一茶」がいる。彼は、信越国境の長野原上水内郡信濃町柏原の人。生涯、多くの俳句を作ったが、今の季節にピッタリの俳句がある。長野県(信州)の三大特徴を読み込んだ、次の俳句が有名。この俳句だけで、長野県の観光宣伝をしているようなもの。
「そば時や月のしなのゝの善光寺」の句。信州の特徴を実に旨(うま)くあらわしている。「そば」・「名月(千曲市姨捨山は有名)」・「善光寺」である。これだけで、秋の信州は見事に表現されている。
写真は、ソバの花(9月24日撮影)

見渡す限り一面のソバ畑

そして、昨日(9月23日)の名月。薄く雲がかかり、月は幻想的な光を放す。一昨日(9月22日)の中秋の名月は雨で見えなかった。



ところで、この写真はどこで撮影されたのか。一面のソバ畑も幻想的な名月も、信州ではありません。実は、拙寺から徒歩10分の場所。つまり、三重県いなべ市藤原町東禅寺地内の畑。名月はともかく、ソバはどうしたのかという事になる。実は、2年程前からソバ作りの流行に乗り、地元でもソバを作り出したのである。味は?というと、昨年ではこれからという話であった。ともかくも、一句。
「そば時や月のいなべの明源寺」。お粗末でした・・・・・



フト気がつけば

2010-09-22 21:24:13 | Weblog
今日も蒸し暑い一日。何故か、出だしの文字が「暑い」と同じ言葉ばかりが続きます。一体、いつになれば秋がくるのでしょうか。明日は、もうお彼岸(9月23日)です。
天気予報では、今日の午後遅く、前線が通過して激しい雨が降るらしい(草木は、待望の雨を待っています)。そして、秋が来るらしい?・・・・・
しかし、これは大変と予定を変更して今日一日を草刈にあてた。
理由は、簡単。雨が降れば、首を振って待っている吸血鬼がいるのです。ヒルです。ここ数年前から、拙寺の周辺でも山の動物が運ぶのか、裏山にはヒルが大量に生息。だから、雨が多い季節は、裏山等には余程の理由がない限りはいらないようにしています。
しかし、草が伸びれば、それがヒルの生息環境を生むことになります。綺麗に、下草が刈ってあるところは、ヒルは好みません。そこで、好天が続く日を選んで裏山の草刈。それでも、塩は必ず用意しています。今日は、その草刈に頑張った。流石に、ヒルも顔を出さずに安心して草刈。
草刈が、一段落してフト気がつけば、暑い中でも裏山には秋を告げる草花が咲いていました。そこで、カメラを取りに戻り撮影。
彼岸花

彼岸花Ⅱ

コスモスの花

コスモスの花(Ⅱ)

ニラの花

ヤブランの花

そして、なぜかナスビの花

秋は、そこまで来ているのですが?????そして、午後4時過ぎから雨模様となりました。



パンタカにもなれません

2010-09-21 23:10:30 | Weblog
今日は、火曜日。従がって、掃除の日。本堂・境内を黙々と掃除。しかし、今日も暑かった。9月も後半である。しかし、真夏のようなこの蒸し暑さ。「どこまで続くぬかるみぞ」という言葉があるが、「どこまで続くこの暑さ」という心境。
ところで、「お釈迦様」の弟子というと、舎利仏(しゃりほつ)に代表される優秀な弟子集団のようなイメージがあるが、「パンタカ」のような弟子もいたのです。
兄弟で、出家(しゅっけ)。お釈迦様の弟子になった。兄は優秀。はやくも、尊敬されるべき聖者(阿羅漢=あらかん)の地位にのぼった。しかし、弟のパンタカはまるで兄貴とは逆の人物。稀代(きだい)の物覚えが悪い愚かな人。お釈迦様の言葉が、まるで覚えられないのである。そこで、兄は「これでは、とても駄目(だめ)。お前は、家に帰ったほうがよい」と弟のパンタカに話した。
悲しみにくれるパンタカを見られたお釈迦様は、訳を聞かれ、「お前に一本の箒(ほうき)をわたそう。そして、「ちりをはらい。あかをはらい」と唱えながら、この箒(ほうき)で、ただひたすらお寺の境内を掃(は)きなさい。」と言われた。

掃き掃除に専念しているパンタカは、ある時「フト」気がついた。自分の掃いている箒(ほうき)が、毎日の掃除のために磨り減っている事を。つまり、存在する全ての物に永遠はなく、変化していくことに気がついたのである。(諸行無常)のことわりである。
そして、お釈迦様の言われた「ちりをはらい、あかをはらい」ということは、「人間の心をあらわしており、人のこころほど汚れやすいものはない。それを清く正しくする事は極めて困難。ちりをはらい、あかをはらいとは、人の心の汚れを清くすることを意味している。」と気がついたのである。だからこそ、人間は汚れた自分の心を清める事に専念しなければならない。それが、修行の目的であることに気がついたのである。パンタカは、お釈迦様の教えの真髄(しんずい)を会得(えとく)したのである。
下の写真は、今日購入した竹箒(左側)と、半年前に購入した竹箒(右側)。よく見比べると、使用してきた箒(ほうき)は磨耗し極端に小さくなっている。

私は、教師を辞めて今年で4年目。境内の掃除により、数本の箒(ほうき)をすり潰しました。でも、一向に悟りとは程遠い生活。どうやら、人物の力の違いのようです。明日も、境内の掃き掃除です。ひたすら、専念・専念。そこから見えてくる世界もある筈です。

お疲れさまのご様子

2010-09-20 23:04:20 | Weblog
今日の午前中は、菰野町のお寺さんにご縁あり。地区の老人会の追悼法要の講師でした。親鸞聖人750回大遠忌法要のお話と、浄土真宗のお念仏は仏説無量寿経のお念仏であることをお取次ぎ。
午後、二人のカップルが拙寺に来訪。名古屋から来られたとの事。なかなかの好カップル。お寺巡りが好きという事で、「来年、菩提樹が咲く頃に再び来たい」とのお話でした。
さて、私本人はいささかお疲れさん。この間の、強行日程が祟っている事はあきらかなのですが、今日の連休最後の高速道路の渋滞情報を見て、正直に「ホッ」と胸をなでおろしています。私が、新潟県から帰ったのは9月18日(土)。その日の夜は、午後7時30分から法要有り。その日も、かなり渋滞気味の箇所はありましたが、何とか強行突破して法要には間に合いました。でも、昨日・今日の渋滞状況ではとても無理というもの。
途中で撮影した写真を紹介。
米どころの新潟県。高速道路からの撮影(9月18日)ですが、周囲は全て黄金色の田園風景が広がります。山がなく、さえぎるものがない風景。私の在所の藤原町では考えられない風景。



一方、こちらは山村の風景。棚田で、稲刈りをして天日干しのために、杉と杉の間にロープを張り、稲束をかけていきます。昔ながらの生活の知恵。激しい雨の中で、ご夫婦での作業。息がぴったりと合っていました。懐かしい日本の原風景(9月17日)。

杉の間をよく確認してください。ロープが張られています。ここに、稲束をかけていくのです。

空を見れば、雨の中で虹がかかっています。これ程、色彩の濃いレインボーを見たのは初めて。感激の一瞬。この日(9月17日)は、長岡市では竜巻が起こる程の不安定な一日でした。

そして、山間のお寺へ。室町期に建立された禅宗様式の見事なお堂です。

このお寺は、ご住職がおられないお寺。檀家さんが守っておられる。この日も、地元のご婦人がお一人で事務所にて当番をしておられました。信仰のあり方(お寺と檀家の関係)を考えるうえでつくづくと参考なりました。もとは天台宗のお寺。激しい雨の中でしたが、行かせていただき本当に良かった。

そして、何よりの収獲は江戸前期の農家のきびしい現実を如実に知ったことです。やはり、文献資料だけでは無理なのです。北陸・東北の日本海側の民衆は、半年間豪雪に埋もれました。だから、お米等の生産活動もきびしい状況でした。写真は、江戸前期の実際の農家。

日本海側の各藩では、信じられないことですが「板の間禁止令」を出していたのです。農家一軒に、一間(ひとま)しか「板の間」を作れなかったのです。だから「板の間」は、その家の家長しか使えませんでした。写真の、米俵が置いてある場所が「板の間」。

そして、その他は囲炉裏(いろり)の周囲に藁(わら)を引いて生活をしたそうです。これが現実でした。NHKの朝の連続ドラマ「おしん」を思いだします。

私達が、調査資料を作成するにしても、このような厳しい現実を見据えて作成しなければならい事を改めて実感した事です。
一方、越後といえば豪農あり。映画・テレビの「蔵」の舞台も、今に残る豪農の屋敷でした。写真は、ある豪農屋敷。注目して欲しいのは、庇(ひさし)を支える一本の丸太。写真では、黒光りする左側の丸太。この丸太は、一本の杉なのです。長さは、30mになります。1883年に、福島県の只見川で伐採。阿賀野川を筏(いかだ)にてくだり、上陸してからは、通過するのに邪魔になる家を二~三軒動かして運ばれたもの。さすがに、皆さん「あぜん」という顔です。

最後に、記念撮影。






祝 26000 関東24輩の研修の旅(Ⅱ)・・・⑲

2010-09-20 13:34:04 | Weblog
いよいよ今回の研修目的地の最後、下総報恩寺さん(常総市豊岡丙)に向かう。妙安寺から車で15分程の近距離。
報恩寺は、関東24輩第一番のお寺。親鸞聖人在世の頃から、お弟子の中でも最重要人物である性信(しょうしん)房のお寺。写真は、性信房の像。「日本の美術488号より複写」

そして、このお寺は大きな勢力を誇った横曽根門徒の中心寺院でもあった。横曽根門徒は、飯沼湖の周辺だけではなく下総相馬郡・上野国・尾張国・近江国等にも進出した、親鸞聖人没後前後は最強を誇った門徒集団であった。写真は、報恩寺山門。そして案内板。



報恩寺と聞けば、浄土真宗の根本聖典である『教行信証』が頭に浮かぶ。性信房に、親鸞聖人から京都にお帰りになるにあたり授けられたものという。そして、親鸞聖人を箱根の山まで関東のお弟子の代表として送られたとも伝えられてもいる。写真は、箱根の山で、親鸞聖人に別れをつげる性信房。なごりおしく、振り返り振り返り別れを告げた性信房の心が見事に描かれる絵伝である。

しかも、親鸞聖人直筆の『教行信証』を伝えてきた。これを『坂東本教行信証』と呼び、現在は、東本願寺にあり国宝である。坂東報恩寺が伝えてきたものである。『特別展 親鸞 関東20年の軌跡より複写』

つまり、自筆本の『教行信証』が報恩寺に存在したということは、性信房が親鸞聖人からいかに信頼されていたのかという事を意味する。だから、親鸞聖人帰洛(きらく)後においては、親鸞聖人の教え守り、伝えるための関東における最大の拠点となったお寺であると言っても過言ではないでしょう。
ただ、現在二箇所の報恩寺がある。東京の報恩寺を、坂東報恩寺。常総市の報恩寺を、下総報恩寺と呼ぶ。『坂東本』を伝えてきたのは「坂東報恩寺」である。もともとは、現在の下総報恩寺の地にあった。しかし、戦国時代の荒波の中で、お寺が荒廃し、東京に本拠を移した。これが「坂東報恩寺」。だから、この時に、「坂東本」も東京に移動したのである。注意すべきは、浄土真宗の場合は、何らかの理由でお寺が移転する場合でも、本拠地を放棄する事なく、そのまま残し、新たに移動した場所でも同じ名前のお寺をつける特徴がある場合がある。⑱で紹介した妙安寺は、近隣に三箇所も同じ名前のお寺が存在するのである。この点に注意が必要と思われる。写真は、下総報恩寺の本堂。

私達は、親鸞聖人の信頼篤かった性信房の墓所を、今井先生の案内で参拝した。報恩寺からは、徒歩で10分程度。今は、報恩寺とお墓の間に人家が立ち並んでいるが、もともとは地続きであったとの説明があった。

今井先生は、この墓地(廟所)の一画にある石柱の説明をされた。「この石柱こそ、性信房を荼毘にした場所なのです」との説明。

730年の昔に、24輩筆頭にあげられる性信房の荼毘場所が、ここなのかと思うと実に考え深いものがありました。こうして、私達の研修は終了しました。私達は、昨年・今年も関東24輩の研修を実施しました。これで、25箇寺近くはお参りしたことになります。しかし、まだまだ終った訳ではありません。来年度の実施が期待されますが?
それにしても、今井先生には超多忙の中で、二日間本当に有難うございました。
尚、昨日でこのブログの訪問者が、26000人(正確には、26051人)を超えていました。いつも、ブログに訪問いただき有難うございます。