明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

京都に行くはずであったが

2011-01-31 23:55:47 | Weblog
今日は、京都に行く予定であった。でも、自坊周辺は昨晩から雪模様。道路事情を心配しながらも、午前9時前に元気に出発。しかしである。自坊から、関ヶ原までは完全は雪道。大型トラックが、小さな坂が登れずに道のど真ん中で立ち往生。横を無理にすり抜けて関ヶ原インターへ。・・(チェーンを着けないから。これが渋滞・事故の原因になるのです。)
ニュースでも報道されているように、北陸地方は記録的大雪。交通網は完全に麻痺状態。名神高速も、関ヶ原~米原間はチェーン規制の最中。そして、北陸道は長浜から先は通行止めの表示。名神を、除雪車を先頭にノロノロと走り、米原ジャンクションに来たときには午前10時40分。この時点で、帰りの事を考えて京都行きをあきらめた。米原にて下車し国道にて関ヶ原に向かった。しかし、関ヶ原に向かう国道も写真のとおり。

ノロノロと走り、ようやくにして醒ヶ井の道の駅に到着。しかし、駐車場は雪。積雪は、新雪が積もり30センチ程度。車を駐車させるのも一苦労の有様。下手に駐車すれば、今度はスリップして出れないことになる。



結局、自坊に帰り着いたのは午後1時30分であった。結構、疲れました。目的地の京都は、次回の機会という事に。結局、大雪の日には車にて長距離の行動・計画はするものではないという有り難い教訓。
近江商人と真宗は、明日・・・・


近江商人と真宗の信仰

2011-01-31 00:35:40 | Weblog
このブログを読まれている人の中でも、浄土真宗の教えは葬儀・死んでからの教えと思っておられる人も必ずおられる筈。しかし、親鸞聖人の開かれた浄土真宗の教えは決してそうではありません。その実例を近江商人に見る事ができるのです。
写真は、天秤棒を担いだ近江商人。

近江商人と言えば、天秤棒を担いで日本各地で商売を展開した。そして、海外にも飛躍した我が国最初のビジネスマンである。その歴史は、遠く鎌倉時代にもさかのぼる。幾多の激動の歴史も潜り抜けてきた。現代でも、近江商人の系譜を引く総合商社・老舗の店舗は数多いものがある。この近江商人を知ることは、不況に悩む現代の日本経済のなかで貴重ものとなるだろう。しかも、宗教音痴の現代日本人とは違い、強固な浄土真宗の信仰に裏打ちされた人々であったのである。
この近江商人の姿を、中公新書 末松国彦著「近江商人」から抜粋する。
全国をエリアとし、天秤棒を担いだ商人から、豪商にと成長した近江商人。彼らの商売の極意は、子孫に残そうとした遺言にこそある。
1.商売の心得・・・「近江商人187頁より」
先の見通しも持たずにただ目の前の利に気をとられて右往左往し、見切り時を誤まるようなことでは、「商人の器にあらず」と断定する。・・・取引に関して、自らの基本的姿勢を、「目先の利益に迷わず、遠き行末を見通すべし」と述べているのである。ドッシリと腹のすわった、少々の事ではビクつかない信念が、近江商人の心構えであったのである。
2.売って悔やむ・・・「近江商人189頁より」
顧客の望むときに売り惜しみせずに、その時の相場で損得を考えずに売り渡すことが、極意であるとする。つまり、これだけ人気のある商品を、こんな安い値段でうるのは悔やまれると思うような商売をせよと説くのである。これが、顧客を掴む極意。今でも、充分に通用する商売の基本であるだろう。
写真は、箱根の山を越えて江戸に向かう商人

3.深く驚くべからず・・・「近江商人192頁より」
堅実に商売していても、予想外の損失を受けるときがある。そんな時は、そうするのか。
一発逆転を狙って賭け事、相場に手をだしてはならないと説く。逆に損失を深めるだけであると警告する。大事なことは、戦線を縮小し、身をつつしみ、ひたすら時節の到来を待てとある。これが、現代人はなかなかできないことではと思う。
4.自覚をもつこと・・・「近江商人198頁より」
たとえ天秤棒を担いだような商人でも、自分のことばかりではなく、世の中の一員との自覚を持てと説く。「しまつしてきばる」という言葉がある。近江商人は、自身は倹約に勤め無駄を除き、懸命に働きく生活を第一とする。これを表現した言葉が、「しまつしてきばる」である。
5.浄土真宗の信仰こそ、行動の原点
上記、近江商人の「しまつしてきばる」の原点は、以外に思われるかも知れないが、強固な信仰心に裏打ちされたものであった。だから強いのであり。信仰心に裏打ちされてこそ勤勉、そして世間に対する奉仕・感謝が出てくるのであると、子孫に対する遺言で彼らは口をそろえていうのである。この信仰とは、浄土真宗のみ教えであった。
以下・・・明日に続く









ランチェスター(弱者の法則)・・・・その2

2011-01-28 23:31:47 | Weblog
サンアリックスは、①システム開発事業②映像事業③コンサルティング事業を展開するIC関連企業。この企業の歴史を見ると、上記の①~③の順番に事業を拡大している事がわかる。そして、この事業の根底には、ランチェスター(弱者の法則)が当てはまると、このDVDを製作した某プロダクションは見ているのです。
ランチェスター(弱者の法則)とは、もともとは軍事理論。これを、経営戦略にも応用する場合がある。具体的には、中小企業がとるべき経営戦略、営業戦略に応用したものをランチェスター経営などと呼ばれます。つまり、一つの特殊な分野に特化することで、そこまで手を回す余裕のない大企業の隙を突いて経営戦略を実施し、他企業より性能のよい武器(商品)を持ち、狭い戦場で、一対一で戦い、接近戦を行い、力を一点に集中させることであると説明されています。(もと高校社会科教師の解説です・・・私)
これを、サンアリックス事業にあてはめると、宗教法人用の水蓮過去帳シリーズの開発から始まり、社会福祉法人・公益法人のシステム開発。つまり、法人=組織には管理・運営するシステムが必ず必要となります。例えば、保育園の経理システム等がそうです。このソフトウェアを開発するのが仕事。でも、これはIC関連企業であればどこでも手がけている事業です。ここからが違うのです。写真は、サンアリックスを紹介するDVD。

「天の時」・「地の利」・「人の和」が、この会社の経営戦略の最大の特徴であり、これに基づいた商品開発・営業販売、きめ細かなアフターサービスの実施(私は、この恩恵にいつも甘えています)。これがランチェスター(弱者の法則)に結果として当てはまるとDVDは紹介しています。是非、一度DVDを見られると面白いと考えます。
皆さんは、お寺のブログになんで会社経営のノウハウなんてと思われるかも知れません。実は、このDVDを見て、江戸時代の近江商人のことを頭に浮かべていたのです。江戸期の近江商人といえば、熱心な真宗門徒です。阿弥陀様と共に商売したのが近江商人でした。この近江商人の経営戦略とサンアリックスの経営がよく似ていると思ったからです。以下・・・続く



ランチェスター(弱者の報告)の法則・・・・その1

2011-01-28 08:28:53 | Weblog
今年の冬は厳しい。雪が消えないのである。そして、葬儀に伴う七日仏事が続く。夜、雪の降る中での七日仏事は、頑張っていますが結構辛いものがあります。
そんな中で、先日(1月24日)あるご門徒の家にて七日仏事がありました。仏事修了後、書類をいただきました。このご門徒宅は、IC(コンピュター)関係の会社を経営しておられます。自坊のホームページ・ブログも、最初から管理・維持をお願いしている会社です。会社名を、サンアリックスといいます。
このサンアリックスは、社長(ご門徒)の独自の経営理念により、大きく成長している会社。IC(コンピュター)関係といえば、ひところは「花よ蝶よ」と時代の脚光をあびて、時代の寵児でしたが、そうであるが故に、浮き沈みも極めて激しいものがあります。その中で、企業として躍進目覚しいものがある。だから、注目されます。今から、紹介するのは、その躍進の秘密。
某プロダクションが、全国の躍進企業を取材し編集したDVD。このサンアリックスの紹介は、全国で25番目に紹介されています。あの北海道の某動物園も、勿論成功事例として紹介されていますから、全国で選びに選んだ成功事例という事になります。その、成功の秘密がランチェスターの法則なのです。以下・・・続きます。


北越雪譜に思う・・・とりあえず最終回

2011-01-26 22:04:30 | Weblog
昨日は、サッカー日韓戦の死闘を最後まで見ていて深夜便となりダウン。今日も、ニュース等で何度も放映。不思議なもので、また見てしまう。そんな繰り返しでした。
さて、中日新聞の五木「親鸞」も好調な出足です。でも、今日の「親鸞」で気に成る箇所がありました。それは、冬の雪で傷んだ家を直す場面です。文章は、次のようです。「豪雪の季節を耐えた建物や庭は、相当にいたんで手入れが必要だった」の箇所。冬型が強まり、自坊では今雪が降っています。先日の大雪は、日照不足から完全には融けいません。その上にうっすらと積もりだしました。明日の朝が思いやられます。
下の絵は、各種の親鸞聖人関東絵伝のなかでも、越後流罪を描いた名場面。親鸞聖人は、承元の法難により、越後国府(新潟県上越市)が配所。現在の直江津国分寺のあたりという。ここに草庵を構えたという。世にいう「竹ノ内草庵」である。竹で造られた草庵と雪がマッチしており、名場面の一つと考えています。「僧に非ず俗に非ず(非僧非俗)」と云われた聖人をあらわすように、有髪の聖人として描かれている。そして、厳しい越後の冬をあらわすように雪が降り積もっています。

下の写真は、越後国分寺境内に建つ竹ノ内草庵記念堂です。多くの人々が、今も聖人を慕いお参りされています。

私達は、上下2枚の竹ノ内草庵を比較すると、現代の感覚から下の写真を竹ノ内草庵らしき建物として認識してしまいますが、当時の建物は粗末な絵の方が正解でしょう。
参考になる文献が、上記の北越雪譜に「秋山紀行」として書かれている。舞台は、新潟県と長野県の県境、秘境の「秋山郷」である。今でも、「秘境」であり多くの観光客が訪問する。秋山郷は、昔はマタギのメッカでもあった。この秋山郷の一般的住居の様子が書かれてある。時代は、江戸後期(19世紀前半)
「基礎石のない掘っ立て柱に貫をば、藤つるにてくくりつけ、菅(すげ)をあみかけて壁」にする程の貧弱な建物であった。「戸口は、大木の皮の一枚なるをひらめいて横木をわたし、藤つるにてくくりしとめしきるもなくて戸とす。茅(かや)ふき・・・草屋」と記している。今でいえば、人が見向きもしないボロ小屋である。鎌倉時代、恐らく一般庶民の住居はこんなものであったであろう。上の絵柄を見てみると、菅で編んだと思われる壁が描かれており、この絵伝の作者はかなり事情通の人であったと思われる。こんな建物で、聖人の越後流罪は始まったものと考えられるのです。これをご苦労と呼ぶのだと思います。



しっかり読んでおられる

2011-01-24 23:22:37 | Weblog
さて、昨日紹介した親鸞聖人関東絵伝の最初の一コマの絵が下の絵。

この絵から、始まっているのです。そうです。この絵柄は、恵信尼消息第3通(浄土真宗聖典註釈版812頁・・・ここでは本来あるべき1通・2通が除かれ、整理番号で第一通となっている)に登場する常陸の下妻坂井の郷で、恵信尼様がみられた夢の告げの場面です。この夢告は、恵信尼様が聖人と共に越後を離れ、いよいよ常陸に入ろうとする時に見られた夢である。この関東絵伝の製作者は、恵信尼消息をしっかり読んでおられる。だから、常陸での第一歩を記す恵信尼様の夢告の場面から始まっている。場面は、伝説のなかにも歴史的史実をふまえて小島草庵の場面、雁島の場面、願牛寺建立の場面と続いていく。
とするならば、この関東絵伝の原画制作は少なくとも大正10年以降となる。なぜならば、西本願寺の蔵から恵信尼消息が発見されたのは大正10年である。だから、それ以降となります。そして、昭和40年代までは関東二十四輩の参拝も盛んに行われ、このような掛け軸を郷里のお土産に記念として買い求める習慣があったことを物語っています。
又、このような関東絵伝を通じて、聖人・恵信尼様のご苦労をご門徒と共に語りあえる絶好の教材として、今尚その輝きは少しも失っていないと私は強く思う事です。

祝 36000人 雁島の伝説

2011-01-23 23:36:08 | Weblog
今日は、午前8時からご門徒宅の報恩講。床の間に、親鸞聖人の関東でのご苦労を描いた関東絵伝が掛けてありました。昭和30年代に、関東24輩をお参りになった際に購入された掛け軸だそうです。
その軸で、注目される絵がありました。「雁島の伝説」です。

実は、昨年の9月16日のブログにて大高山願牛寺を紹介しています。その際に、「雁島の伝説」も紹介していますので、詳しくは昨年9月16日のブログを参照下さい。でも、私自身は「雁島の伝説」を描いた掛け軸は初めてです。下の写真は、現在の「雁島」に建つ案内板。ここの絵と比較すると面白いです。

そして、「雁牛寺」の建立をしめす絵柄も描かれていました。伝説の通り、願牛寺の建立に際して、どこからともなく不思議な牛が表れ、木材を運んだというストリーを見事に描いています。

そして、親鸞聖人関東絵伝と題するこの掛け軸の上部は、最上段に右には親鸞聖人、左には玉日姫を描き、その下には親鸞聖人のお弟子24人、すなわち関東24輩が第一番の性信房から順番に描かれています。

上記の玉日姫を拡大。玉日姫、これは関東の人々が聖人の内室をこのように呼んだのです。勿論、歴史上は恵信尼様です。

明日は、この関東絵伝の最初に描かれていた場面を紹介します。面白いです。
昨日、このブログの訪問者が36000人(正確には、36154人)を超えていました。いつも訪問していただき有難うございます。





北越雪譜に思う・・・・続編

2011-01-21 10:30:16 | Weblog
雪は、恐ろしいものである。しかし、人々は生き抜いてきた。『北越雪譜』に「雪こもり」の項目がある。そこには次のように書かれている。「およそ雪9月末より降りはじめて雪中に春を迎え、正、2の月は雪なお深し。3、4の月に至りて次第に解け、5月にいたりて雪全く消えて夏道となる。年の寒暖によりて遅延あり。4、5月にいたれば春の花ども一時にひらく。されば雪中にあることおよそ8ヶ月、一年の間雪見ざることわずかに4ヶ月なれども、全く雪中にこもるは半年なり。」と記している。『北越雪譜』は、江戸後期の越後の様子を記した本である。聖人の越後流罪の生活は7年に及ぶ。時代は鎌倉時代。想像を絶する世界がここにあるのである。1年の内で、雪を見ないのは4ヶ月に過ぎない事など、現代人の誰が思い浮かべる事ができようか。
4月5月に、北国にもようやく春の訪れがくる。一斉に花が咲く。新潟県上越市板倉区にある恵信尼様の五輪塔。その五輪塔の側には一本のコブシの大木があった。コブシの花は、北国の春を告げる花なのである。なんと象徴的なできごとであろうか。写真は、自坊裏庭にコブシの花

1年内で、8ヶ月は雪のある生活とある。そんな生活は、一体どのような生活であろうか?見る事、体験する事が一番でああるが、そんな訳にもいかない。そこで、一昨日岐阜県大垣市時山の集落に行ってきた。自坊からわずか1時間の距離であるが、そこは鈴鹿山脈の奥深く別世界が広がっている。近隣では、有数の豪雪地帯。
写真は、時の集落。時山は、正面の渓谷の奥にある。

写真は、時山に向かう道路。除雪された雪の壁と愛車を比較すれば、雪の深さがわかろうというもの。

時山集落の除雪された道路の終点。軽自動車と高くつまれた雪壁を比較すればよい。

越後の豪雪とはいかないが、家の半分は雪に埋もれている。

時集落の唯願寺を背景に記念写真。唯願寺(お東)は、時の名刹。長島一向一揆にも深く関係しているお寺。

この豪雪を、人々はいかにして切り抜けてきたのであろうか?ヒントが書いてあった。助け合いである。雪国の人は、情が濃いといわれる。そうであろう。となり近所助け合わなければ、とても雪下ろしなどできるものではない。地域が、助け合わねば、明日は我が身なのである。雪の重さに家がつぶれるのである。
雪下ろしは、共同作業が不可欠なほどの重労働であり、危険な作業なのだ。この共同体意識の崩壊した現代、今年の大雪で、雪下ろしで45人の人が亡くなっている。大半は、単独での作業中の出来事という。これにても、助け合い、相互扶助が雪の季節を生き延びるための必須有条件であった事がわかる。皆が同じ友なのだ。聖人の時代の冬の装束を彷彿(ほうふつ)させるのが、下の写真である。この写真は、「探訪 北越雪譜の世界」から複写したもの。昭和30年代の旧岩船郡朝日村三面(みおもて)のマタギの姿。「北越雪譜」に掲載されている冬装束と略同じである。

親鸞聖人も、越後7年の生活。この雪との戦いを、身をもって体験されたであろう・・何しろ、7年間は、84ヶ月である。その内、雪の生活が、56ヶ月(1年の内、8ヶ月は雪×7年)なのだ。この中から、生まれた言葉が、真宗教団が多用する御同朋の言葉ではないかと思うのである。同朋(どうぼう)と真宗教団は読むが、「お念仏で結ばれた友」という意味である。聖人も、関東のお弟子達に出された御消息(お手紙)の中でも、同朋という言葉を使用されている。浄土真宗聖典註釈版では、御消息第3通に2箇所(742頁)・第5通に1箇所(745頁)に見える。何れも、明法房往生の事がお手紙に登場する。明法房とは、聖人のおいのちを板敷山で狙った山伏・弁円(べんねん)の法名である。聖人にとり、同朋のイメージの原点は越後の冬の間、ともに助け合い、いのちをつなぐ越後の人々のイメージがあったとしても誤りでないだろう。


北越雪譜に思う

2011-01-19 23:56:28 | Weblog
マタギと呼ばれる人々が存在した。マタギは、東北地方・北海道で集団で狩猟を行う狩猟者集団。一般にはクマ獲り猟師として知られる。今は、特に青森県と秋田県のマタギが有名であるが、時代とともに減少している。その歴史は平安時代にまで遡るという。マタギの語源は諸説あって不明である。最も有力なものは、アイヌ語で「冬の人」・狩猟を意味するマタンギ・マタンギトノがなまったものだという説である。しかし、昭和50年代までは、上越地方でも多数のマタギが存在していた。写真は、『探訪 北越雪譜の世界』より複写・・・・松之山町にて撮影とある。





雪に半年近く埋もれる越後において、マタギ達が狩猟する動物のタンパク源は欠くことのできない食料であった。まして、鎌倉時代ともなれば現代と比較できない程の農業生産性も低かったに違いない。だから、越後流罪中の聖人夫妻の周辺にも、マタギと呼ばれる山の民の存在はごく普通の光景であった筈である。恵信尼様が、晩年をすごされた上越市板倉区は、写真の松之山町までは山続きなのである。
しかし、彼らは殺生を生業とする人々であった。そうであるが故に、殺生を禁じ卑しむ当時の仏教界からは見捨てられた存在でもあった。彼らの信仰は、聖徳太子信仰であったと言われる。その証拠には、新潟県・長野県にまたがる秘境秋山郷の『黒駒の太子像』、そして新潟県村上市(旧岩船郡一帯)に広がる木製の『聖徳太子像』がある。何れも、有力なマタギ集団が存在した箇所。写真は、現在禅宗寺院に伝来する聖徳太子像(旧岩船郡山北町で撮影)

親鸞聖人は、『屠(と)は、よろずのいきたるものをころし、ほふるものなり、これはれふし(猟師)といふものなり(略)れふし・あき人(商人)、さまざまのものはみな、いし(石)・かはら(瓦)つぶてのごとくなるわれらなり』(浄土真宗聖典註釈版708頁)と言われ、『われらなり』と限りなき共感を示されている。『われら』とは、この親鸞もあなた達と同類であるという意味になるであろう。そして、そんな石ころのような存在であるわれらを、『如来の御ちかひ(誓い)をふたごころなく信楽(しんぎょう)すれば、摂取(せっしゅ)のひかりのなかにをさめとられまゐらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまふ』(浄土真宗聖典註釈版708頁)と述べている。つまり、弥陀の救いの法である名号(南無阿弥陀仏)を、「我にまかせよ。必ず救う」との弥陀の呼びかけと受け取り、『ありがとうございます』の思いから、こころから弥陀の名号を称えれば(これをお念仏申すという)必ず救われ、仏様になることができるとされたのである。弥陀の願い(本願)とは、このようなあさましい我らのための願いであったのだと受け取る事でもある。生業には関係なく、年齢にも関係なく、信心ひとつで救われるとされたのである。この言葉・教えは,聖人の周辺に存在した山の民であるマタギ等の人々との交流の中から生まれた言葉と思う事である。
越後の厳しい冬を乗り切るのは、地元のことを知る人々の存在が不可欠であるし、彼らの協力なくしては生存することすら難しい。だから、思うのである。恵信尼様とは、決して都(京都の貴族)育ちではない。地元越後の女性であると。所領をも持っておられた事を考慮すれば、都の三善氏と血縁がある地元の豪族の娘であった思うのであるがどうであろうか・・・・・・明日に続く・・・



久しぶりの大雪で考えたこと

2011-01-18 23:02:46 | Weblog
とにかく久しぶりの大雪。しかし、除雪と日中が比較的暖かかった事もありメイン道路の雪はかなり無くなった。しかし、自坊は未だ白銀の世界。でも、太陽は雲がない限り平等に照りつける。そのお蔭で、庫裡(くり)の屋根から、物凄いごう音と共に大量の雪が下に落下(文字通り雪崩そのもの)。そして、落下した雪の為に『雪の万里の長城』ができた。写真は、落下した雪。高さは、1m20cm程もあり、延々と続く。この雪は、3月末まで消えないと思う。(後ろに見える山は、藤原岳)

さて、書斎と呼ぶのも嘆かわしい程であるが自分の勉強部屋が一応ある。そこから、見えるのが裏庭の風景。しかし、今は雪一色の風景である。

この雪に覆われた風景を見るにつけ、頭に浮かぶ事がある。それは、親鸞聖人と恵信尼様の事。承元の弾圧により、聖人は越後流罪となられた。越後での生活は、7年間に及ぶ。越後は、豪雪地帯。3m~4mの積雪もごく普通であった。こんな越後の冬を、どのように過ごされたのであろうかと思う。越後の冬は半年にも及ぶ。写真は、『探訪 北越雪譜の世界(上下2巻)』より複写。

しかし、各種の聖人伝を読んでも、余りこの事は出てこない。まったくふれられていない本もある。聖人の思想形成を考える時、この越後の雪は大きな影響を与えた筈であるのに・・・・・これでは、雪の恐ろしさをまるで知らないたわごとのような議論に成りはしないかと思うのである。
昔の越後の冬を知るのは、江戸後期の越後塩沢の人、鈴木牧之があらわした『北越雪譜』全7巻が一番よいとされる。

勿論、こんな貴重な本が手に入る訳がなく、昭和57年に角川書店より出版された『探訪 北越雪譜の世界(上下2巻)』しかありません。でも、この本でも、当時の価格で2万円もする高価な本でした。この本は、昭和50年代の冬の越後の人々の生活写真(今となっては失われた生活習慣も多数掲載)と『北越雪譜』の主な箇所を説明している力作。
その上巻の最初に、江戸期の越後の冬の装備一覧を『北越雪譜』から複写している箇所があります。

おそらく、聖人の時代と冬の装備は大きくな違わないだろうと思われ、この写真を今日はしげしげと見ていた。雪の上を歩くための装備であるワカンも、雪国の必需品。これなくしては雪国では生活できない程。だから、聖人もワカンを着けられ歩かれたであろうと想像するのである。そして、このような越後の冬のなかで、親しく人々とふれられて、聖人の思想は深化したと考えるべきであろう・・・・・明日に続く