明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

員弁組門徒推進員会20周年記念行事、上越北信の聖人遺跡を訪ねて・・11

2012-10-31 23:58:09 | Weblog
樹齢900年といわれる神代杉で有名な戸隠中社。

この中社に、親鸞聖人の御旧跡があります。武井旅館です。明治までは、行勝坊という立派なお寺でした。よく見れば、お寺の本堂をそのまま使用している宿坊・旅館も存在しています。この武井旅館もその一つ。

山門の向こうの建物が、親鸞堂です。ここには、行勝坊時代の数多くの仏像がご安置。その一つが親鸞聖人のお木像。

私達は、旧行勝坊時代の親鸞聖人伝説を聞かせていたく為に、昼食を兼ねて武井旅館にお世話になりました。武井旅館の主(あるじ)は、戸隠中社の神職さん。しかし、とても神職さんには見えない精悍な面構えです。それもその筈です。中社の大切なお祭りでは、山伏の作法にてお仕えしておられるとか。今も戸隠修験の伝統は守られていたのですね。私達にも、実に判りやすく親鸞伝説を説明していただきました。

旧行勝坊の本堂に、宝物を展示していただき説明です。

中でも、親鸞聖人が戸隠山中で感得されたという阿弥陀如来像の話は興味深く聞きました。聖人も、ブロッケン現象を見られたのかも知れません。学問的には、雲に乗られた来迎仏なのですが・・・・

私達が、説明を受けた場所は旧本堂です。今でも、お寺の本堂の名残が残っています。特に、黒ずんだ鴨居(かもい)に注目です。

私達は、食堂にて有名な戸隠の新蕎麦をいただきました。美味しかった事。皆さん賞賛の声しきり。でも、余りの美味しさに食べてしまって写真はありません。昼食の後は、付近を自由散策。戸隠は、蕎麦と共に竹細工が有名です。私は。ここで箒(ほうき)とごう掻きを購入。皆さん、思い思いにお買物です。

私達は、善光寺に向かいます。
次回が、最終回で「善光寺とお手紙編」です。






祝120000人 員弁組門徒推進員会20周年記念行事、上越北信の聖人遺跡を訪ねて・・10

2012-10-31 05:54:23 | Weblog
戸隠中社に入る前に、戸隠修験のお話をしましょう。戸隠は、修験道の聖地でありました。平安末期、後白河法皇によって編纂された歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひょう)』に、「四方(よも)の霊験所」のひとつとして「信濃の戸隠」が登場しています。これが、都まで鳴り響いた戸隠修験の登場の場面です。
 鎌倉時代の頃には、戸隠は、高野山、比叡山に匹敵する一大霊場に数えられたといわれ、天台密教や真言密教と神道とが習合した神仏融合の戸隠山勧修院顕光寺として全国にその名を知られ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と呼ばれるほど多くの修験者や参詣者を集めました。
 室町期には、戸隠信仰は善光寺信仰とセット。多くの僧が戸隠、善光寺両方に参詣した道中記が残されています。親鸞聖人のご旧跡を参拝する江戸期に成立した「二十四輩巡回図絵(全10巻)」にも、その様子が克明(こくめい)に記されています。
写真・・二十四輩巡拝図絵(全10巻)中社の武井旅館【旧行勝坊(蔵)】←(この原本欲しいのですが?)

江戸期には、将軍家により手厚く保護され、全国に戸隠講が組織されて全盛期を迎えといわれています。参拝者のために、宿坊が軒を連ね門前町が整備されたのもこの頃です。
 明治時代に入ると、神仏分離令や修験宗廃止令が次々と出され、その結果廃仏毀釈(はいぶつきゃく)運動が起きたため、戸隠山顕光寺は寺を分離して神社となり、宗僧は還俗して一部は神官となりました。 その為に、戸隠の寺院に奉られていた仏像などは散逸してしまいました。存在すれば国宝・重文級の法物が多数存在していたであろう事は容易に想像できます。残念でなりません。尚、最近整備された中社の宝物館にてその一部を見ることができます。
戸隠古絵図・・・宝物館蔵

戸隠山勧修院顕光寺の仏具の一部が、大和長谷寺に伝来(宝物館蔵)

さて、修験道(しゅげんどう)とは、一体どんな教えなのでしょうか。修験道とは、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の宗教であるといわれています。日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって超自然的な能力を得て、衆生の救済を目指す実践的な宗教。このような山岳修行者のことを、修験者、または山に伏して修行する姿から山伏と呼ぶのだそうです。
勿論、私は他力を旨(むね)とする浄土真宗の僧侶のはしくれですから、修験道の奥義なぞ理解できる筈はありませんが、そこはそれ、ガキの頃からの山好き。深山幽谷とはいいませんが、それなりの山に登っておりますし、遭難寸前も何度か。ある意味共鳴を覚えるものです。「他力とは、如来の本願力なり」をいただく浄土真宗の僧侶が、何をホザクのかという事になるのですが、親鸞聖人も9歳から29歳まで20年間、比叡山のご修行がある事を忘れてはなりません。その上での他力浄土門であるのです。
ともかくも、修験道にとって絶対不可欠なものは山岳であります。しかも、厳しければ厳しい程よいのです。その意味で、戸隠連山は最適でありました。なぜならば、全山これ岩山なのです。まるでノコギリの鋭い歯を連想するような山なのです。これ程、修行に適したお山はないでありましょう。
奥社から撮影。

戸隠山から、高妻山の奥にある両界山付近までが修験の地であったといわれています。現在でも登山道は、一不動、二釈迦、三文殊などと巡って行くようになっていますが、うかつに登れば致命傷。戸隠連山は、上級者用の登山コースなのです。クサリ場が、各所にもうけられており、とてもクサリなしには登る事はできません。

特に、蟻(あり)の門渡りは、文字通り必死の覚悟。両側は、切り立った断崖。幅、20cmから30cmの尾根道なのです。それが、5メートル以上続くのです。恐怖のあまりに立ち往生する登山者も。では、どのように渡るのか。写真のように、またいでわたるのが一番安全なのです。(インターネットにより複写)

ここですら、熟練の修験者は風のように走り渡ったといわれています。まさに、恐るべしです。このような修行の末に、今で言うブロッケン現象により、雲中(うんちゅう)に仏を感得(かんとく)したと称しても誰が笑えましょうや・・・・・・
山中のブロッケン現象写真(インターネットにより複写)



古くから、日本では御来迎(ごらいごう)、山の御光、仏の御光とも呼ばれてきました。これは、阿弥陀如来が『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』で説かれる空中住立(じゅりゅうくうちゅう)の姿を現したと考えられていたためといわれています。槍ヶ岳開山を果たした播隆(ばんりゅう)上人の前に出現した話が有名です。私も上記のような写真のブロッケン現象を2度程みましたが、それはそれは神々しいものでした。
修験道の紹介が、単なる山の紹介に終わってしまいましたが、修験道と山岳は密接不可分である事を理解していただけばと思います。
このブログの訪問者が、120.000人(正確には、120154人)を超えていました。いつも訪問いただき有難うございます。





員弁組門徒推進員会20周年記念行事、上越北信の聖人遺跡を訪ねて・・9

2012-10-30 00:15:07 | Weblog
「でだち」も無事終わらせていただきました。「でだち」、結婚式前の大きな区切りの行事です。前日・当日の張り詰めた緊張感の後には、やはり虚脱感が来ました。気力が萎えてしまうのです。今日(10月29日)午前中は、本堂・書院の後片付け。なかなかやる気が起こらずダラダラと・・・・
気がつけば、数通お手紙の返事も全く書いていません。「これはいけません」と、今夜一通だけは完成させました。明日は、これに専念する必要がありそうです。
そして、「上越北信の聖人遺跡を訪ねて」も暫く停止したまま状態。「これもいけません」という訳で、戸隠編を投稿します。
10月17日午前9時に赤倉ホテルを出発。信濃町を経由して、バスは黒姫山の麓を過ぎ戸隠高原に入っていきます。景色もしっかり秋モード。

バスは、奥社の手前で停車。戸隠古道(旧越後古道)の大きな看板があります。この近くに親鸞聖人縁の念仏池もあるのですが、時間たらずで説明のみ。戸隠古道を是非歩いてください。自然を満喫できるルートです。

大きな看板から、数分で念仏池があります。真新しい念仏池の説明看板。よく見ると熊さんの爪の後も・・・・・熊出没注意なのです。

写真・・念仏池

実は、この周辺の沼地は水芭蕉の群落地なのです。5月上旬の戸隠は、水芭蕉の別世界なのです。

奥社駐車場にてバスを下車。奥社までは、時間不足で到底無理ですから随神門(旧仁王門)までミニトレッキング。奥社の入口。(今年、5月撮影)

ぞろぞろと私たちは歩きました。明治維新の廃仏毀釈までは、この両側には、数多くの寺院群が立ち並んでいたのです。今では、想像すらできません。

奥社の参道は、一足早い秋。見事な紅葉が随所に見られました。



私たちは、随神門を超えて、樹齢400年の杉並木を見学し、バスの待つ駐車場へ。幼稚園の子供たちは奥社の本殿へ。この場所から、徒歩40分~50分余り。元気な子供達、青息吐息の私達。

子供たちは、元気です。「コンニチハ」とのご挨拶もなかなか感心・・・・

そして、大きな落葉を集めて、天狗の団扇を・・・・

子供達は、奥社の本殿めざして歩いていきました。奥社本殿に通じる杉並木は見事なのです。今回も、時間が取れれば是非とも散策して欲しかった場所・・・このあたりは、明治までは戸隠修験道の総本山ともいうべき戸隠山勧修院顕光寺があり、全国にその名を知られていました。

奥社本殿に至る胸突き八丁の坂。このあたりで、大抵皆さん息があがっています。背後には、戸隠連山の岩山が見えます。

ここが、奥社本殿。まさに神域の雰囲気です。

戸隠奥社はこんな素敵な所です。私達は、これを見ずして戸隠中社へ・・・・続く

本日は、でだち

2012-10-28 08:06:06 | Weblog
「でだち」、聞きなれない言葉です。自房のある地元では、娘の結婚に先立ち地元のご親戚の皆様に結婚を披露する行事を「でだち」と呼びます。
「でだち」に際して、阿弥陀様に娘の結婚を報告するために本堂にてお勤めをします。そこで、京都から息子が昨日呼び戻されました。二人して、昨夜はお勤めの練習となりました。
考えてみれば、父親と弟のお勤めですから、娘は幸せ者と思います。雨女の娘らしく、今日は雨となりましたが、やはり親としては晴れて欲しかったです。今の心境は・・・・
「娘の嫁ぐ日は、めでたくもあり、めでたくもなし」という複雑なもの・・・・・

第7回自坊定例法座と団扇(うちわ)つくり

2012-10-26 20:34:19 | Weblog
昨日(10月25日)、午後2時から第7回定例法座がありました。心地よい秋風に誘われてか、20数人の方がお参りとなりました。「正信偈」の導師は、自坊の門徒推進員さん。

テーマは、「山伏・弁円(べんねん)の懺悔(ざいげ)」でした。粗筋は、以下の通りです。「常陸国笠間郡一帯に大きな勢力をもっていた山伏・弁円。しかし、親鸞聖人がお念仏のみ教えを広められると、弁円に頼る人々が少なくなりました。危機感を覚えた弁円は、板敷山にて聖人を襲う計画をたてて待ち伏せをしました。しかし、聖人を襲う機会はなかなか訪れません。」
写真・・関東絵伝(板敷山(いたじきやま)にての待ち伏せの場面)
関東絵伝とは、親鸞聖人の直弟子のお寺のなかで数ヶ寺が、親鸞聖人20年間の関東でのお念仏布教のエピソードを絵伝にまとめたもの。だから、同じ場面でも描き方が多少違う事になります。
関東絵伝A

関東絵伝B

現在、板敷山の麓には大覚寺(浄土真宗本願寺派)があります。ブルー大屋根のお寺。背後の山が板敷山。いつも、大勢の参拝の皆さんで賑わっています。

山伏・弁円像(大覚寺蔵)

弁円所有の薙刀(なぎなた)と伝えられています。(大覚寺蔵)

今井雅晴先生を囲んで、ご住職一家と私たち。(平成24年7月下旬撮影)

「焦った弁円は、それならばと親鸞聖人のお住まいである稲田草庵を襲撃したのです。
写真・・・稲田草庵(現在は、別格本山西念寺となっています。)

親鸞聖人は、なんら怯(ひる)むことなく庭に降りられ、弁円と対されました。その後、驚くべき事が起こったのです。
覚如上人作の『御伝抄(ごでんしょう)』には、『すなはち尊顔(そんがん)にむかひたてまつるに、害心(がいしん)たちまちに消滅して、あまつさへ後悔の涙禁じがたし。』とあります。つまり、聖人を襲う覚悟が消えうせてしまい、なんでこのような尊き人を襲おうとしたのかと後悔の涙を流したのです。
写真・・弁円が後悔の涙を流した場所(回心(えしん)の場所ともいいます)。稲田西念寺境内にあります。

そして、『御伝抄』は続きます。『ややしばらくありて、ありのままに日ごろの宿鬱(しゅくうつ)を述(じゅ)すといへども、聖人またおどろける色なし。たちどころに弓箭(きゅうせん)をきり、刀杖(とうじょう)をすて、頭巾(ときん)をとり、柿(かき)の衣(ころも)をあらためて、仏教に帰しつつ、つひに素懐(そかい)をとげき。不思議なりしことなり。すなはち明法房これなり。』。山伏・弁円は、聖人に日頃の思いを話ましたが、聖人は一向に驚く表情もありませんでした。そのような聖人を見て、弁円は山伏の衣を脱ぎ捨てて、聖人のお弟子になったのです。聖人は、大変喜ばれ明法房という法名をお与えになりました」という話です。尚、頭巾(ときん)と柿(かき)の衣(ころも)とは、山伏の衣装の事です。
今回のテーマは、「弁円の懺悔(ざんげ)」です。何故、急に弁円は後悔の涙を流したのかという事と深く関係します。一挙に心の大転換が起こったのです。ここをお話しました。この部分は、次回に回します。長くなりますので・・・・・
次回の第8回定例法座は、11月29日(木曜日)午後2時からです。テーマは、「恵信尼様と回心について」

さて、午後7時からは団扇作りです。昨日(10月24日)の午後に引き続きです。今回で、4回目の団扇作り。



今日は、110本の団扇が完成したとの事で、合計350本の団扇を仕上げていただきました。目標は、700本です。半分が完成したことの事になります。・・・・仕事が終わってから参加していただく方も複数あり、ただただ感謝あるのみです。
この完成した団扇は、糊付けのために乾かす必要があります。そこで、考え出されたのが矢来に丈夫な紐(ひも)を通して結びつける方法です。「何とか上手い方法はないものかと一晩考えて思いついた」のがこの方法だそうです。私には、到底及ばぬ思考方法です。

夜の部の参加された方のうち2名は、昼の定例法座の参加者でもあります。合計5時間以上明源寺に滞在となります。さすがに私も心配になり「お家は、大丈夫ですか」と声をかけました。「お寺に寄せていただいているのですから、全く問題なし」との答えが返ってきました。本当に有難く思いました。心のなかで合掌したことです。

員弁組門徒推進員会20周年記念行事、上越北信の聖人遺跡を訪ねて・・8

2012-10-26 00:04:59 | Weblog
10月16日(火曜日)午後5時30分、赤倉ホテルに到着。歓迎のたて看板が目に飛び込んできました。

マスコットの熊さんも、法被(はっぴ)姿でお出迎え。

赤倉ホテルは、妙高赤倉高原の一角に位置し、赤倉スキー場が目の前。冬季インターハイがここで開かれ、三重県選手団の責任者として2週間余り滞在した思い出の地でもあります。霧のなかを自由滑走。崖がある事を知らずして空中に飛び出し、そのまま5メートル弱落下。後は、新雪のなかで身動きできず。3時間余りの格闘戦の末に、ようやくゲレンデに。しかし、生徒の試合は終わっていたという苦い思いでが頭をよぎります。勿論、滑走禁止のたて看板もあったのですが、霧の為に見えなかったというアホな言い訳・・
さて、赤倉ホテルはこのブログでも度々登場。理由は、ただ一つ。ロビーに立派なお仏壇のあるホテルなのです。
写真は、10月17日午前6時30分に撮影。椅子がお仏壇の方に並んでいるのは、午前7時30分から員弁組門徒推進員さんのお勤めが予定されている為・・・・

皆さん、お元気なのです。各自の部屋で深夜まで話が弾んでいたようです。私も、午前2時まで「あれやこれや」と話。でも、何を真剣に話していたのかは記憶が曖昧となります。完全に寝不足。しかし、午前6時起床で5階の展望台へ・・・妙高赤倉の素晴らしい景色が飛び込んできました。
写真・・赤倉岳の山頂は紅葉しています。今は、全山が紅葉の最盛期の筈。

女性陣は、朝早くからお買物(午前7時過ぎ)。本当にご苦労様です。

そして、員弁組組長(そちょう)さんのお導師のもとで、定刻通りに午前7時30分より「正信偈」のお勤めが始まりました。心配していましが、全員出席の「正信偈」。流石は、門徒推進員さんの研修旅行です。



お勤めの後、赤倉ホテルの社長さんから「お念仏と共に生きる赤倉ホテル」と題してお話がありました。

赤倉ホテル出発は、10月17日午前9時。出発間際に記念写真を撮影。
員弁組二十五日講の門徒推進員さんと共に

自坊の門徒推進員さんと共に

私たちは、親鸞伝説の戸隠へ・・・続く

気がつけば秋本番近し・・・・・・

2012-10-24 22:18:24 | Weblog
朝夕の冷え込みが厳しくなっています。気がつけば秋本番近しです。紅葉前線の先陣を切るのは、自坊ではドウダンツツジです。見事な色づきとなりました。しばらく楽しめそうです。



境内では、今日も大工さんが作業中です。来年(平成25年)、4月14日(日曜日)修行予定の法要(親鸞聖人750回大遠忌法要・本堂修復慶讃法要)懇志板の設置作業なのです。
10月22日の作業風景・・・なかなか大規模なもの。平成12年修行の蓮如上人500回遠忌法要に順じて設置いただいています。

10月24日の作業風景・・・完成まじかです。柱は檜。横板は、米ヒバを使用しています。

そして、午後3時過ぎに完成。いよいよです。これが設置されますと、法要が次第に近づいている事が・・・・改めて気持ちが引き締まる思いです。

一方、本堂では午後1時から自坊仏教婦人会有志の皆さんにより、菩提樹団扇(うちわ)作りが進められています。

皆さん真剣に作業中。一口に団扇といっても、大きさは様々だそうです。頭を悩ました大きな原因でしたが、ある方の発案にてA型・B型・C型等に型を作り、それに基づいて紙を切断。その後、極めてスムーズに作業が出来るとの事。やはり、「三人寄れば文殊の智慧」です。

それにしても、お忙しい中での参集です。心から御礼申し上げます。明日は、午後2時より第7回定例法座です。テーマは、「山伏・・弁円の懺悔」です。そして、午後7時より団扇つくりが予定されています。



員弁組門徒推進員会20周年記念行事、上越北信の聖人遺跡を訪ねて・・7

2012-10-23 22:49:01 | Weblog
浄土真宗本願寺派国府別院、ここは親鸞聖人が越後での生活7年間のうち6年間を過ごされた場所。竹ノ前(たけのはな)草庵跡とも呼ばれていますし、小丸山草庵ご旧跡とも呼ばれています。
写真・・竹ノ前草庵の生活を描いた関東絵伝。竹で編まれた粗末な小屋である。奥に親鸞聖人、前方には京都から聖人とともに下ってきた弟子の性信房と西仏房を描く。周囲には、雪が積もり寒々とした雰囲気が漂っている。しかし、凛とした聖人の尊顔を見るとき、一筋の光明を見る思いがします。絵伝の中でも、白眉の場面です。

現在の国府別院。中央に、イチョウの木。地元の人が銀杏を拾いに・・・・・

別院職員の方から、別院の由来を聞きました。実は、この日(10月16日)は別院の定例法座の日なのです。そして、午後4時からは東海教区三重組の参拝が入っていました。そこで、別院にご無理をお願いし午後3時から。本当に有難うございました。

説明される別院職員の方。なかなか流暢な説明です。特に、片葉の芦(あし)の説明に皆さん聞きほれて・・・・・現物を見せての説明は説得力満点。

国府別院お参りの後は、親鸞聖人の妻である恵信尼様の廟所(上越市板倉区)へ。午後4時到着です。あいにく隣接する資料館は火曜日で休館。そこで、親鸞聖人750回大遠忌法要の記念事業にて建立された恵信尼会館に。係りの方の勤務時間は午後4時まで。ここでもご無理をお願いして会館を開けていただきました。
写真・・・真新しい恵信尼会館。しかし、その後の高架は建設途中の北陸新幹線。何と興醒めなと思うのは私一人でしょうか?

写真・・・会館内部。ここはのお内陣の荘厳は、全国でただ一つなのです。中央に阿弥陀様。右手に親鸞聖人像。そして左手には恵信尼様像。つまり、ご夫婦で仲良くです。左右の壁には、恵信尼様の象徴である「コブシの花」が。シンプルオブザベスト。ここの会館のお荘厳は大好きです。余分なものは本来要らないのです。寺院化される前の真宗道場の内部はこんな感じであったと思われます。

会館にお参りした後は、恵信尼の五輪塔がある恵信尼廟所へ。皆さん、何故かここで拍子抜けされるのです。理由は、ただ一つ。余りにも近代化された廟所なのです。人の息吹が全く感じられないのです。果たして、これでよいのか?と強く思う事です。

私が、初めて恵信様の廟所を訪ねたのは40年ほどまえ。その時は、側に大きなコブシの木があり、周囲は田圃。田舎の田園風景が広まっていました。物凄く五輪塔とマッチしていました。ここで、恵信尼様はご苦労されたのかと思わず感動の涙を流したものです。ところが、都会的センスで恵信尼のお墓は大きく様変わり。感動もヘチマもありません。あるのは無表情に変わり果てた五輪塔のみです。ともかくも、記念写真と夕日の中で全員集合です。

私たちは、宿泊の地である赤倉ホテルへ・・・続く

員弁組門徒推進員会20周年記念行事、上越北信の聖人遺跡を訪ねて・・6

2012-10-23 18:39:43 | Weblog
「竹ノ内草庵」から、バスの駐車場へ。目の前にあるのが居多(こた)神社です。そこには、親鸞聖人像があるのです。

事前研修が無かったなら、皆さん一応にビックリ仰天された筈。なぜならば、親鸞聖人のみ教えは神祇不拝(じんぎふはい)と強調されています。ですから、今では神社の境内に親鸞聖人像とは想像もできない事なのです。尚、神と親鸞聖人については、明源寺ブログの平成24年3月25日をご覧下さい。
地元伝説では「承元元年(1207年)、越後国府に流罪となられた親鸞聖人は居多ヶ浜上陸、そして居多神社に参拝したと言われています。参拝後に「すゑ遠く 法を守らせ 居多の神 弥陀と衆生の あらん限りは」と詠われました。不思議や不思議です。境内にあった芦が一夜のうちに片葉になったと言います。」これすなわち越後七不思議の一つ「片葉の芦」です。
写真・・・片葉の芦(あし)・・中央の芦が片葉であるのがよく判ります。

又、居多(こた)神社には親鸞聖人の「日の丸名号」が伝来しています。次のような話です。「親鸞聖人は居多(こた)神社に参拝後、日本海に沈む夕陽を観て感動し、日の丸の地に南无阿弥陀仏の名号を書き付けた」との事です。
写真・・居多(こた)神社蔵の「日の丸名号」。日本橋三越 親鸞展にて

真偽は別にして、茜色に空を染めて日本海に沈んでいこうとする夕日。神々しいまでのその姿は思わず西方極楽浄土を連想してしまいます。そんな光景を表現したのが、この「日の丸名号」なのではないでしょうか?
私たちは、お約束の時間である午後3時を気にしながら国府別院に・・・続く




119000人 員弁組門徒推進員会20周年記念行事、上越北信の聖人遺跡を訪ねて・・5

2012-10-23 10:39:33 | Weblog
五智国分寺境内に位置するの現存の竹ノ内草庵は、明治6年に地元の皆さんの懇志により建立されたもの。その後、小学校としても利用された時代がありました。

草庵に安置されている親鸞聖人のお木像は、39歳の建暦元年11月(1211年)に流罪の罪が許されてご赦免となった記念に、剃髪して裏の鏡ヶ池にご自分の顔を映して、みずからの像を刻んで残したものと伝えられてきました。これを「御自刻の御真影」と呼んでいます。今回は、訪れませんでしたが、近くの光源寺さんにも「流罪直面満悦御影」というのが伝わっています。
写真・・「御自刻(ごじこく)の御真影(ごしんねい)」

さて、私は「御自刻の御真影」を前にして、全く違う話を皆さんにしました。「全真宗門徒の信仰の原点は西本願寺の御影堂(ごえどう)にご安置されている親鸞聖人御真影様です。本来は、親鸞聖人のお墓を守る目的で建立された大谷廟堂(おおたにびょうどう)に納められたものです。ご存知のように本願寺は大谷廟堂から発展したものです。最初に、大谷本廟に納められた親鸞聖人像は下野国(しもつけのくに)に高田の顕智(けんち)上人等が中心になって納めたものでした。」
参考資料・・『善信聖人親鸞伝絵(ぜんしんしょうにんしんらんでんね)』(高田専修寺本)に描かれた大谷本廟に安置された親鸞聖人像・・・顕智上人等が納めたと思われる親鸞聖人像が描かれています。この親鸞聖人像は、永仁3年(1295年11月28日)に親鸞聖人の祥月命日にあわせて大谷本廟に納められたといわれています。両手を合わせた合掌する形。竹ノ内草庵の親鸞聖人像も合掌する親鸞像です。現在の御真影様の両手の形とは大いに違います。

「上記場面が描かれている写真の高田専修寺本の『善信聖人親鸞伝絵』は、現存する最も古い物です。本願寺第三代宗主(しゅうしゅ)である覚如(かくにょ)上人が親鸞聖人を追慕のために描いたのが『善信聖人親鸞伝絵』、永仁3年(1295年)10月12日に完成したものです。高田専修寺本は、同年の12月13日に覚如上人より出されたものですから、最初の永仁本が消失していこうは高田本が最古の『善信聖人親鸞伝絵』となる訳です。その高田本に描かれている親鸞聖人像が、合掌する形なのです。ですから、当初の大谷本廟の親鸞聖人像もおこらくは合掌する親鸞像であった筈なのです。
では、合掌する親鸞聖人像は一体はどうなったのかが問題となります。それは、大谷本廟の留守職を覚如上人と争った唯善という人物が、持ち逃げしたとされているのです。これが世にいう「唯善事件」です。延慶2年(1309年)の事です。そして、ながらく不明となっていましたが、現在では、唯善の子孫のお寺である千葉県の常敬寺蔵の親鸞聖人像こそがそれであるとされています。(日本の美術1 NO488中世真宗の美術)
写真・・常敬寺蔵の親鸞聖人坐像(これが、当初の大谷本廟の親鸞聖人像?)

写真・・五智国分寺境内の竹ノ内草庵親鸞上人坐像

作風も非常によくにており、13世紀末の造立とみなされています。つまり、現在、竹ノ内草庵に安置されている親鸞聖人像は、13世紀末から14世紀初頭にかけて関東の親鸞聖人のお弟子達が造立したものであると推測されるのです。そして、何故ここに親鸞聖人像が存在するのかについては、それこそ親鸞聖人越後流罪の聖地である竹ノ内草庵跡に、聖人追慕の思いからご安置されたのではと考える事ができます。丁度、私たちが750年の時をこえて竹ノ内草庵をお参りしたように、今も昔も親鸞聖人を慕う気持ちに何ら変わりはないのです。」このような事を説明しました。
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