親鸞聖人にとって「六角堂の夢告」は、人生の大きな転換点になった出来事。聖人29歳の時である。比叡山の修行に行き詰った聖人は、今後進むべき道を求めて聖徳太子建立とされる京都六角堂におもむき、ご本尊・救世(くせ)観音菩薩の夢告を受けるべく百日間の参籠(さんろう)をされた。
そして、95日目のあかつきに夢の告を受けたという。親鸞聖人の一代記である「ご伝抄」第三段に詳しく書かれている。
「上人(親鸞)夢想の告ましましき。彼(か)の『記(き)』にいわく、六角堂の救世菩薩(くせぼさつ)、顔容端厳(げんようたんごん)の聖僧(しょうそう)の形(かたち)を示現(じげん)して、白衲(びゃくのう)の袈裟(けさ)を着服(ちゃくぶく)せしめ、広大の白蓮華(びゃくれんげ)に端坐(たんざ)して、善信(親鸞聖人の事)に告命」されたという。(浄土真宗聖典註釈版1044頁)
写真は、聖僧の姿にて白衲の袈裟を着服された救世観音菩薩と夢告(むこく)を聞く親鸞聖人が描かれている。(ご絵伝第一巻第三段より)
この部分を、恵信尼消息第3通からみてみよう。以下、珍しくもながながと原文を引用するが、ある目的があっての事。最後までお付き合い願いたい。
「山(比叡山のこと)を出(い)でて、六角堂に百日籠(こも)らせたまひて、後世(ごせ)をいのらせたまひ
けるに、95日のあか月、聖徳太子の文を結びて、示現(じげん)にあづからせたまひて候ひ
ければ、やがてそのあか月出でさせたまいて、後世のたすからんずる縁にあひまゐらせんと、たづねまゐらせて、法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日籠らせたまひて候ひ
けるやうに、また百ヵ日、降る日も照る日にも、いかなる大事にもまゐりてあり
しに、ただ後世のことは、よき人にもあしき人にも、おまじやうに、生死(しょうじ)出づべき道をば、ただ一すぢにお仰せられ候ひ
しを、うけたまわりさだめて候ひ
しかば「上人のわたらせたまはんところには、人がいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世世生々(せせしょうじょう)にも迷ひ
ければこそありけめ、とまで思ひまゐらする身なれば」とやうやうに人の申し候ひ
しときもお仰せ候ひ
しなり」(浄土真宗聖典註釈版811頁~812頁)と書かれている箇所が「ご伝抄」第三段に相当し、それだけでなくその後の聖人の動きを大いに補強してあまりある部分なのである。
鎌倉時代の文章は難しい。なんとなく判るが意味不明の箇所も多し。そこで、今井雅晴先生の「親鸞と恵信尼」(45頁~46頁)より現代訳。
「あなたの父親鸞は比叡山で修行し、悩みが多くて山を降りて、六角堂に参籠されました。すると95日目の暁に聖徳太子を念ずる文章を称え終わったとき、観音菩薩があらわれて教えを授けられました。その直後に六角堂を出て、来世で極楽浄土へ往生できる縁を得たいと法然上人を訪ね、また百日通いつめ、善人も悪人も救われる道を授けられました。親鸞聖人は法然上人に感動し、たとえ地獄であってもついていこうと決心しました」となる。
この文章により、聖人は六角堂にて百日の参篭を企て、95日目の暁に救世観音より夢の告げを受けた。そして、新しい道を求めて法然上人を訪ね、百日間の法然上人の話を聞きぬき、これしかないと人がどんな事をいっても法然上人と共に歩んでいこうと決意された事がわかります。ここには、自力の仏教から他力の仏教にと大きな聖人の転換点が書かれていたことになります。そういった意味でも大変重要なお手紙です。写真は、龍谷大学蔵の恵信尼様を複写
実は、恵信様と聖人との出合いというものが書かれているのです。ここからが、本日の核心部分なのです。
鎌倉時代は、過去を語る場合でも、人から聞いた事を書く場合と、自分が経験した場合とは文法上明確区別して違った単語を使用したのです。(上記の「親鸞と恵信尼」45頁より引用です)この文法の原則を、恵信尼様もきちんとまもっておられました。
それは、過去を示す助動詞の「き」と「けり」で区別したといわれています。過去をかたる話のなかで、助動詞に「~き」とあれば「私はこんなことをしました」という自分の過去体験の内容。「~けり」とあれば、「こういうことを人から聞きました」という意味になるそうです。上記の原文の赤字の部分が「~けり」の部分。細かくかけば「けり」は「けり、ける、けれ」と活用します。それに対して、自分が体験した「~き」は、「き、し、しか」と活用されるのです。青字の部分です。
これを、恵信尼消息にあてはめると、(原文をよく見てくださいね)
①親鸞聖人が、比叡山で修行したことをしめす文章は、「けり(ける)」で結ばれています。
②六角堂の参籠も「けり(ける)」で結ばれています。
③95日目の暁の示現も「けり(ける)」で結ばれています。
ですから①~③は、恵信尼様が人から聞いた話となります。人とは、勿論の事ですが親鸞聖人から聞いたという事です。
ところが、親鸞聖人が法然上人のところに行く場面になりましと、表現がガラリと変わって、「き(し)」になります。また、親鸞聖人が法然上人のからこのような教えを聞いたところも「き(し、しか)」です。つまり、親鸞聖人が法然上人のもとに通われたことを、恵信尼様は自分の目で見ておられたという事になります。そして、教えの内容も恵信尼様が、じかに聞いていたという事になります。
恵信尼様と聖人は、法然上人のもとで出合われた事になります。おそらくは、恵信尼様の方が早くから法然上人の吉水の禅坊にお念仏の教えを聞きに通われていた。そこで、親鸞聖人と出合われたという事になるのでしょうか?
男女には、必ず最初の出合いがあります。恵信尼にとって、聖人との最初の出合いは一生の宝物であったに違いありません。忘れる事なぞ絶対に出来ない出合い。生涯にわたって大切にされた出合いです。これを、娘の覚信尼様から親鸞聖人ご往生を聞かれた時、その返事の手紙に書かれたという事になります。こんなに深い愛情の表現があるのでしょうか・・・・皆さんも、思い出してください。最初の出合いを・・・・・
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