明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

しんしんと雪が降る

2010-12-31 20:47:26 | Weblog
今日は、12月31日大晦日。期待にたがわず朝から雪。視界に入るもの全てが雪化粧です。道路は真っ白。快適に、スタッドレスタイヤがきしみます。この日の為に、つけたようなもの。

勿論、鈴鹿の山も雪化粧です。

雪は、昼過ぎに一旦止みましたが、午後5時過ぎからまた降りだしました。たえまなく降り積もっています。しんしんと雪が降っています。午後7時からは、除夜会。こんな雪降りに、お参りの方があるのだろうかと思いましたが6名の方が。全員で、正信偈。庫裡が、本堂代わりの道場。なんか違和感がありますが、お内仏の阿弥陀様に今年一年を感謝の合掌です。でも、本堂と違い暖かなのです。皆さん、ゆったりモード。
住職の法話は、やはり親鸞聖人750回大遠忌法要の事。いよいよ目前のカウントダウン。そして、名古屋の高島屋の親鸞展の話でした。まずは、名古屋の親鸞展にと法話は締めくくりました。
今も、しんしんと雪が降っています。後、2時間と少しで除夜の鐘です。今年は、雪の中の除夜の鐘となりそうです。写真は、除夜会終了直後の午後8時30分に撮影。





祝 34000人 名古屋にて親鸞展が・・・②

2010-12-30 16:50:22 | Weblog
名古屋高島屋の親鸞展の続編です。会場出口にて、多くの親鸞グッツが販売されています。名古屋限定で、親鸞聖人福袋も販売されていました。お値段は、一万円と少し。さすがは会場が高島屋です。でも、普通の福袋と違うのは中味が明示されている事です。私の目の前で、福袋が二つ売れていきました。私が、購入したのは前回紹介した品と、今回の品です。
まずは、親鸞マグネット。何故か、気がつけば購入していました。

そして、親鸞香。どこにでも行けば、仏様のお土産にとお香を買う習慣が定着している私です。思わず購入・・・親鸞香。どんな香(かお)りがするのでしょうか?????

最後に、親鸞絵葉書。数種類です。絵葉書は、購入しましても肝心の年賀状が未だ存在していません。年賀状の作成は、明日の夜です。除夜の鐘が鳴り終わる頃からの作成となります。お許し下さい。

総額・・・前回・今回あわせて6450円の買物となりました。高額か、それともこんなものか・・・疑問の残るところです。しかし、良い記念となりました。
このブログの訪問者が、34000人(正確には、34116名)を超えていました。いつも訪問いただき有難うございます。10通+1通(恵信尼様)も越年です。
今年一年、本当に有難うございました。少し早いのですが、来年(平成23年)もよろしくお願い申し上げます。合掌。

大掃除と初雪

2010-12-30 16:24:26 | Weblog
今日は、年末恒例の大掃除。通常ならば、仏様に正月にお供えするお鏡餅さんのお餅つきの日。でも、今年はなし。なぜならば、平成23年2月からの本堂工事に備えて、仏様・仏具は全て運び出し。だから、今日は朝から仮本堂になる書院・庫裡の大掃除。
特に、庫裡は法座も開かれる場所。念入りに掃除をしました。勿論、家族総動員です。

明源寺の庫裡は、本堂より古くて築180年余り。この3室が続く広間にて法座が開かれます。明日は、12月31日。午後7時からの除夜会から仮本堂の機能が動き出します。
一方、境内は昼過ぎから待望の雪が降りだしました。(雪国の方はゴメンナサイ)初雪です。待望と書いたのは、雪は降らずとも連日の強風。杉の葉が、境内に散乱状態。これを隠してくれるからです。でも、期待するほどの積雪では今のところありません。これからどうなるのでしょうか・・・・期待半分・不安半分です。

一方、阿弥陀様がご動座された書院では、出来る限りの荘厳にて阿弥陀様を仮安置です。平成24年2月まで、ここで私達を見守っていただきます。でも、阿弥陀様が近くで拝見できると評判でもあります。



名古屋にて親鸞展が

2010-12-29 09:19:30 | Weblog
親鸞聖人750回大遠忌法要記念企画として、名古屋の高島屋10階にて親鸞展が12月28日から始まりました。写真は、会場内で販売されているシートカバー。

会場は、この年末にもかかわらず物凄い人の波。人々の親鸞聖人によせる関心の深さを物語っています。時代が閉塞するが故に、人々は心の灯を求めているのでしょうか?これが、宗教の原点なのですね。嬉しく思うと同時に、その期待に答えきれていない自分自身が恥ずかしくもなります。
この『親鸞展』、随所にコンピュターを駆使して、よりリアルに見学できるように工夫されています。親鸞様も恵信尼様も、まるで側におられるようです。人々の生活が、当時の風景が身近に感じる工夫がなされていました。写真は、『親鸞展』の冊子。

この企画、親鸞聖人の誕生からご入滅までが実に判りやすく再現されています。特に、比叡山20年のご修行、つまり20年の苦悩にも力点をおかれてあり、非常に好感をもつ事ができました。千日回峰行者が、等身大に再現されておりこれは圧巻。
写真は、大津からみる比叡山の遠望。

午前11時からの今井雅晴先生のトークも大好評。私は、残念ながらご挨拶をさせていただいただけに終りましたが、会場には多くの知り合いの顔もチラホラ。彼らが、口をそろえて言うには『これぞ親鸞展だ。自力修行を、単に切り捨てるだけでなく、その苦悩ならの解放をめざされた聖人の歩みが実によくわかる』でした。
とにかく行くべし。何かを感ずべし。・・・・・来年の1月16日までの開催です。




10通+1通…⑪

2010-12-28 01:50:13 | Weblog
今日は、お仏壇の入仏法要。家の新築(素晴らしい和風建築)に伴い、お仏壇も新しく求められ仏間には真新しいお仏壇が。このような法要は楽しい。だからではありませんが、午前9時に寄せていただき、自坊に帰ったのが午前11時50分。車で、10分程度の距離。いったい何をしていたのか?????あれこれと話していた。午後は、法要予定がないという安心感・・・・田舎のよい所でもあります。
さて、この年末は北日本の日本海側を中心にして、大雪になっています。特に、新潟県と福島県の県境の福島県の西会津町では猛吹雪のために自動車350台以上が立ち往生。ニュース等で報道されていました。写真は、福島日報より複写です。

この多数の車が立ち往生した国道49号線。普段は、風光明媚な国道。非常に運転しやすい山岳道路です。車で走行したしたことのある国道ですから、新聞の写真にも関心大となります。今夜中には、全車を救助という事でまずは一安心。
自坊と遠い親戚にあたる禅宗のお寺があります。この10月末に、ただ一人でお寺を守っておられたお婆ちゃんが亡くなられました。先日、娘さんがご挨拶にこられました。話の中で、私が「今は、どなたも住んでおられないのですか」とお聞きしましたところ、このような返事でした。「いや私が一人で住んでいます。家族は、今までの家に残してきました」との事。ビックリして、「山の中のお寺。一人で寂しくありませんか」と聞きました。娘さんは「母親が、長年一人で守ってきたお寺です。娘としての責任ですし、私の生まれ育ったお寺ですから寂しくありません」とのお答えでした。
私は、このお話を聞かせていただき、「アッ」と思った事があります。それは、晩年恵信尼様が、聖人と生活を別にされ越後で暮され、生涯を終られた事に関してです。その理由について、様々な理由が議論されてきました。越後に所領のあられた恵信尼様が、所領管理のために越後に行かれた等です。これらは主に経済的理由です。しかし、私は何故か納得しずらいものがありました。勿論、所領管理等の経済的理由もあるのでしょうが、やはり越後は生まれ故郷であった、だからお帰りになられた。娘さんの話から直感として思ったことです。中央貴族の三善家の娘さんであるならば決して晩年越後には行かれないであろうと思うです。なぜならば、故郷は京都であるからです。



10通+1通…⑩

2010-12-26 17:41:31 | Weblog
昨日は、教え子の結婚式。元教師としては、教え子の結婚式に列席できること程教師冥利に尽きるものはない。まして、彼女が自分と同じ教員の道を歩み、結婚相手も教員とくればなおさらの事。名古屋にての披露宴は、色々な趣向をこらした結婚披露宴。当然、大変な盛り上がり。少しアルコールが入り過ぎました。二人の前途に幸多かれと祈る。

しかし、アルコールは結婚式だけではありませんでした。夜は、忘年会。こうなれば、ブログ投稿なぞは出来る筈もなく完全にダウン・・・・
さて、恵信尼様のお話。
一般的には余り知られていない書物があります。『口伝抄(くでんしょう)』と云います。親鸞聖人の一代記である親鸞伝絵(でんね)をあらわされた本願寺第3代覚如(かくにょ)上人が、元弘元年(1331年)に、弟子の乗専(じょうせん)に口伝し筆記させた本。21か条からなります。江戸期までは、よく読まれた本ですが、明治以降は『歎異抄』等に押され読まれる事が少なくなりました。しかし、この本は教義においても真宗史においても大変重要な本です。
この『口伝抄』に、実は恵信尼様の事がキチット書いてあるのです。『口伝抄』第12通(題名は、聖人(親鸞) 本地(ほんぢ)観音の事)です。
「かの夢想(むそう)ののちは、心中に渇仰(かつごう)のおもひふかく年月を送るばかりなり。すでに御帰京(ごききょう)ありて、御入滅(ごにゅうめつ)のよしうけたまわるについて、『わが父はかかる権者(ごんしゃ)にてましましけると、しりたてまつられんがためにしるしまうすなり』とて、越後の国府よりとどめおきまうさるる恵信御房(ごぼう)の御文(おふみ)、弘長3年春のころ、御(おん)むすめ覚信(かくしん)御房へ進(しん)ぜらる」(浄土真宗聖典註釈版894頁)とあります。
現代訳は、「恵信御房は、親鸞聖人の本当の姿(越後から聖人と共に念仏布教の旅にでられて、常陸国下妻の坂井の郷にて彼女がみた夢の話。この夢にて、恵信尼は夫の親鸞は観音菩薩の生まれ変わりであると確信した)
写真は、当時の水郷地帯の面影を残す鬼怒川の河川敷。

この下妻の坂井の郷の近くに、関東最初の草庵といわれる小島草庵跡があり、写真左後方に常陸の象徴である名峰筑波山がみえる。

そして、「自分の夫のことであるので、はばかってお話になりませんでしたが、恵信御房はこの夢をご覧になってからは、心中に聖人を深く尊敬して、歳月を送っておられました。聖人が、京にお戻りになられて、もはや亡くなられたことを伝え聞かれたとき、当時越後の国府においでになった恵信御房は、ご息女の覚信尼御房に、『私の父はこのような観音の生まれ変わりであったと、知っておかれるようにと思って書き記すのです』というお手紙を書き送られたのでした。弘長3年(1263年)の春のころです」となります。写真は、恵信尼絵巻の下妻の坂井の郷にて巻。恵信尼様が、聖人に坂井の郷の夢の話を語る場面である。象徴的に光明(こうみょう)と菩薩の姿が描かれている。

この第13通にても、恵信尼様は弘長3年には越後におられ、娘の覚信尼様に大変重要なお手紙を書いておられた事が確認できます。それどころか、この『口伝抄』は覚如上人が、如信上人(本願寺第2代目)から故親鸞聖人の物語を聞いたという形態をとっていますが、おそらくは『恵信尼消息』10通(特に、第3通・第4通)にもとづいて、『口伝抄』の第11通・第12通を書かれたと推測できる程にうり二つの文章なのです。ですから、『恵信尼消息』第3通第4通は『口伝抄』の第11通第12通と照らし合わせて読むと理解が進みます。
10通+1通を要約しますと以下のとおり。
①恵信尼様は、京都の中級貴族三善家ゆかりの女性である。
②仮名文字等を駆使して日記をつけるなど極めて教養の高い女性であった。
③恵信尼様の宗教的境地も、無量寿経を暗記するなどすこぶる高い女性であった。
④親鸞聖人の吉水入門を自分の目で直説見ていた女性であった。
⑤越後から、聖人に同行し関東における聖人の貴重な記録を恵信尼消息して残された。
⑥そして、関東から聖人とともに京都に帰られ、健長6年(1254年)前に越後に戻られた。恵信尼様70歳から73歳の頃である。
⑦では、恵信様と聖人はいつ結ばれたのかというと京都の時代であろうと私は思います。この京都の時代とは、聖人29歳から35歳まで法然上人のもとでお念仏の勉強をされていた吉水(よしみず)の時代という事です。恵信尼様の年齢では、20歳から26歳です。とにかく、京都に恵信尼様はこの時代おられた。そして、二人は結ばれたと考えます。
明日以降の展開・・・・
1)お二人は京都にて結ばれた。なぜ、それが言えるのか。
2)そして、恵信尼様はどこのお生まれなのか。
3)なぜ、晩年越後に帰られたのか。
一応、1から3に区別しましたが複合的に関係しますから、区別無く投稿していきます。
続く・・・・・

10通+1通…⑨

2010-12-23 22:41:35 | Weblog
12月23日、世のなかは天皇誕生日。しかし、私は午前9時から5軒のご門徒宅にて報恩講参り。帰宅は、午後3時過ぎ。
一方、自坊では午後1時過ぎから金剛組から依頼された職人さんが、屋根にかかったトユの点検掃除。午後より急速に冬型が強まり、ミゾレ混じりの時雨模様。風が強く、体感気温は、非常に寒く感じます。そんな滑りやすい中で、トユにつまった落ち葉等を除去していただいた。寒い中で黙々と作業をされる職人さん。本当に有難うございました。

さて、恵信尼様の事。晩年、恵信尼様は親鸞聖人と離れて、越後の「とひたのまき」にお住まいとなられた。(現在の新潟県上越市板倉区と推定されている)これは客観的事実である。しかし、いつからとなると話は別。その説明は様々である。第1に、どこで聖人と生活を別にされたのかすら明確でありません。
大きく二つの説があります。
①関東から、聖人(60才前後)が京都にお帰りになられた時、恵信尼様は同行されずに関東に残られ、やがて所領のある越後に帰られたというもの。
②聖人が、関東から京都に帰られた時に同行され一旦は京都へ。その後、越後におもむかれたという説。私は、この説を支持します。
これには、大きな理由があります。それは、『恵信尼消息』の第4通に「またあの御影(ごえい)の一幅ほしく思ひまゐらせ候ふなり」(浄土真宗聖典註釈版815頁)とあるからです。あの御影とは、どのような御影なのでしょうか?前後のお手紙・文章から、弘長2年(1262年)に往生された夫の親鸞聖人の御影でありましょう。故大谷嬉子前お裏方様の『恵信尼公の生涯』では、第4通の現代語訳にて「例の、殿の御影一幅ほしく存じます(156頁)」と聖人の御影と断定しておられます。親鸞聖人の御影といえば、『鏡の御影』・『安城の御影』・『熊皮の御影』の3御影が有名ですが、おそらく『鏡の御影』の事ではないかと思うのです。

『鏡の御影』は、不明確な部分が多いが一応70歳前後の聖人のお姿とされている。恵信尼様は、9歳違いの61歳前後。
もう一つ有力な候補としての『安城の御影(みえい)』は、健長7年(1255年)に専信房専海の願いにより描かれた当初から聖的色彩が強い公式の御影。聖人83歳の時のお姿である。恵信尼様は、この時は74歳前後。

しかし、この『安城の御影』は否定されなければなりません。なぜならば、恵信尼消息第2通は、健長8年=康元元年(1256年)9月15日に越後からだされている。この手紙に、追伸として、「一昨年その事は申し上げて・・・・云々」と書かれた箇所がある。(10通の手紙・・恵信尼文書28頁)一昨年とは健長6年(1254年)であり、この年には恵信尼様は越後にお住まいであった事がわかる。だから、健長6年(1254年)以前に越後に戻られたと考えられる。恵信尼様72歳から73歳前後である。だから『安城の御影』をご覧になる機会はなかったといえる。
とするならば、現在知られている御影は『鏡の御影』しかないわけで、この御影の存在を知っておられるという事は、京都に関東から聖人と同行で帰られていたという事になります。これが、私の考えです。だから、②の考えに賛成なのです。
明日は、恵信尼様とは越後の女性であるという私の説の紹介・・・続く

10通+1通・・・⑧

2010-12-22 20:31:29 | Weblog
仮本堂の阿弥陀様もようやく落ち着かれたご様子。まじかに拝見すると、すこぶる眉目秀麗の阿弥陀様。お参りされたご門徒がしきりに感心される。このような阿弥陀様にお仕えする事は責任重大・・・・・

ところで、今日は12月22日冬至です。我が国では、昔からこの日に柚子(ゆず)湯に入り南瓜(かぼちゃ)を食べると風邪を引かないという伝えがある。そこで、先日ご門徒からいただいた「獅子(しし)柚子(ゆず)」をお風呂に入れた。写真の通り、通常の柚子の数倍はある。この「獅子柚子」は、ご門徒の家で生ったのだそうだ。効能は、確かに体がポカポカ。しかも、長続きする。当分、風邪はひかない。そんな気がする。(単純という陰の声あり)当然、明日も入れよう。

さて、恵信尼様の続き。恵信尼様のお父様は、京都の中級貴族である三善為則が有力と書いた。そして、彼は越後国の国司の経験もある。国司等は、権力が集中しないために四等官の制度が徹底しており、国司も4人いたことになる。為則は、上からニ番目の介(すけ)という国司であった。一番上は、守(かみ)。この守・介という立場の国司は、すべて中央貴族から任命されている。しかも、三善家は三代にわたって介の立場で越後国司を勤めている。だから、越後には三善家の地縁・血縁があってもおかしくありません。晩年、恵信尼様が越後の板倉にて住まわれた事、そして多数の下人を支配しておられた事等を考えても、越後の上越市周辺に支配する土地があったと考える事ができます。下人については、恵信尼消息第1通・第2通が深く関係するが、浄土真宗聖典註釈版では残念ながら収録されずに810頁の解説に少しふれられている程度。
写真は、豊かな穀倉地帯である越後上越市の頚城(くぎきの)平野の秋の実り。

しかも、三善家は浄土信仰が極めて篤い家柄であった。特に、三善為則(ためのり)の先祖と考えられる三善為康(みよしためやす)は熱心な阿弥陀信仰の持ち主。自らが、『拾遺往生伝(しゅいおうじょうでん)』・『後拾遺往生伝』等をあらわし、浄土信仰を鼓舞した家柄なのである。ですから、恵信尼様が浄土信仰を持たれていても何の不思議もないという事になります。そして、法然上人に帰依されてるのも当然の事となります。ですから、吉水禅坊に恵信尼様が法然上人の法話を聞きに訪れられても、これまた当然の事なのです。ここらへんの事は、今井雅晴先生の書かれた『親鸞と恵信尼』(自照社出版)が極めて説得力がありますので、是非一度お読み下さい。
では、恵信尼様は京都の三善家の娘であると断定してよいのかとなると、実は私はそうではないのではと考えているのです。そのように考えるようになった根拠は、やはり晩年越後に下られ、そこで亡くなられたという事実からです。
続く・・・・・



10通+1通…⑦

2010-12-21 19:10:46 | Weblog
本堂仏具をお運びする事は想像以上に大変な重圧でした。疲れましたというのが実感。
でも、遠方より友来る。大学時代の山岳部の仲間。しかも、今から37年前の大学4年生最大の思い出、死の山行寸前となった山形の月山登山の同志ともなれば、理屈抜きで嬉しいものがあります。当然、アルコールが入り二日酔いで昨日はあえなくダウン・・・・・
さて、10通+1通の続きです。
⑥では、恵信尼様は法然上人の吉水禅房(よしみずのぜんぼう)にて初めてお会いされたのではと書きました。
写真は、吉水の禅坊跡といわれる安養寺。現在は、時宗である。

当時の吉水禅坊は円山公園一帯に新旧の坊舎が点在していたという。

写真は、吉水禅坊にて、専修念仏を説く法然上人。当時の吉水禅坊は、僧侶も貴族も武士も庶民も男女の区別無く人々が押し寄せ、法然上人の説法を一声でも聞こうとした。当時の繁栄ぶりを、ご伝抄では「貴賎、ながえをめぐらし、門前、市をなす」(浄土真宗聖典註釈版1048頁)と記されている。

では、なぜ恵信尼様は吉水禅坊に出入りする事が可能であったのでしょうか?それは、恵信尼様とはどのような人であったのかと深く関係します。そして、いつお二人は結婚されたのかの問題とも関連します。
現在、恵信尼様の出身は越後豪族三善家の娘説(晩年、越後で過ごされた事、それから山寺薬師の関係・・・後に詳しくふれます。)と京都の中級貴族である三善家の娘説の2説があります。現在は、京都の貴族三善家の娘説が有力となっています。
①恵信尼様は、女性文字と云われた仮名文字にて日記をつける習慣があった。これは、貴族の娘の習慣である。
②恵信尼消息の中で、聖人の事を殿と呼び、覚信尼様のお子様を公達(きんだち)と呼んでおられる。そして、比叡山とことを山と呼んでおられるなど、京都の貴族文化を深く理解し極めて教養が高い女性であった。
以上、①・②から恵信尼様は京都の貴族の娘であったという説が有力しされているのです。
では、なぜ三善家の娘であったといわれるのか。それは、天文10年代(1541年~1550年)に作成されたと云われる本願寺系図に、聖人と恵信尼様のお子様達の母として三善為教(ためのり)と書かれている事が大きな理由です。
そして、三善為教とは摂政(せっしょう)九条兼実(かねざね)の日記『玉葉(ぎょくよう)』に出る越後介三善為則(ためのり)と同一人物というのが一般的。(主として今井雅晴先生の説)
そして、この三善為則は九条兼実の家司(かし)であった。家司とは、上級貴族の家老のようなものだそうです。九条兼実と言えば、法然上人に深く傾倒した最大の支援者です。法然上人の主著といえば『選択本願念仏集』です。この本制作のきっかけは九条兼実の要請によるもの。如何に、法然上人と九条兼実の結びつきが深いかが分かろうというもの。
明日に続く・・・・


祝33000 10通+1通…⑥

2010-12-18 22:44:56 | Weblog
親鸞聖人にとって「六角堂の夢告」は、人生の大きな転換点になった出来事。聖人29歳の時である。比叡山の修行に行き詰った聖人は、今後進むべき道を求めて聖徳太子建立とされる京都六角堂におもむき、ご本尊・救世(くせ)観音菩薩の夢告を受けるべく百日間の参籠(さんろう)をされた。



そして、95日目のあかつきに夢の告を受けたという。親鸞聖人の一代記である「ご伝抄」第三段に詳しく書かれている。
「上人(親鸞)夢想の告ましましき。彼(か)の『記(き)』にいわく、六角堂の救世菩薩(くせぼさつ)、顔容端厳(げんようたんごん)の聖僧(しょうそう)の形(かたち)を示現(じげん)して、白衲(びゃくのう)の袈裟(けさ)を着服(ちゃくぶく)せしめ、広大の白蓮華(びゃくれんげ)に端坐(たんざ)して、善信(親鸞聖人の事)に告命」されたという。(浄土真宗聖典註釈版1044頁)
写真は、聖僧の姿にて白衲の袈裟を着服された救世観音菩薩と夢告(むこく)を聞く親鸞聖人が描かれている。(ご絵伝第一巻第三段より)

この部分を、恵信尼消息第3通からみてみよう。以下、珍しくもながながと原文を引用するが、ある目的があっての事。最後までお付き合い願いたい。
「山(比叡山のこと)を出(い)でて、六角堂に百日籠(こも)らせたまひて、後世(ごせ)をいのらせたまひけるに、95日のあか月、聖徳太子の文を結びて、示現(じげん)にあづからせたまひて候ひければ、やがてそのあか月出でさせたまいて、後世のたすからんずる縁にあひまゐらせんと、たづねまゐらせて、法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日籠らせたまひて候ひけるやうに、また百ヵ日、降る日も照る日にも、いかなる大事にもまゐりてありに、ただ後世のことは、よき人にもあしき人にも、おまじやうに、生死(しょうじ)出づべき道をば、ただ一すぢにお仰せられ候ひを、うけたまわりさだめて候ひしかば「上人のわたらせたまはんところには、人がいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世世生々(せせしょうじょう)にも迷ひければこそありけめ、とまで思ひまゐらする身なれば」とやうやうに人の申し候ひときもお仰せ候ひなり」(浄土真宗聖典註釈版811頁~812頁)と書かれている箇所が「ご伝抄」第三段に相当し、それだけでなくその後の聖人の動きを大いに補強してあまりある部分なのである。
鎌倉時代の文章は難しい。なんとなく判るが意味不明の箇所も多し。そこで、今井雅晴先生の「親鸞と恵信尼」(45頁~46頁)より現代訳。
「あなたの父親鸞は比叡山で修行し、悩みが多くて山を降りて、六角堂に参籠されました。すると95日目の暁に聖徳太子を念ずる文章を称え終わったとき、観音菩薩があらわれて教えを授けられました。その直後に六角堂を出て、来世で極楽浄土へ往生できる縁を得たいと法然上人を訪ね、また百日通いつめ、善人も悪人も救われる道を授けられました。親鸞聖人は法然上人に感動し、たとえ地獄であってもついていこうと決心しました」となる。
この文章により、聖人は六角堂にて百日の参篭を企て、95日目の暁に救世観音より夢の告げを受けた。そして、新しい道を求めて法然上人を訪ね、百日間の法然上人の話を聞きぬき、これしかないと人がどんな事をいっても法然上人と共に歩んでいこうと決意された事がわかります。ここには、自力の仏教から他力の仏教にと大きな聖人の転換点が書かれていたことになります。そういった意味でも大変重要なお手紙です。写真は、龍谷大学蔵の恵信尼様を複写

実は、恵信様と聖人との出合いというものが書かれているのです。ここからが、本日の核心部分なのです。
鎌倉時代は、過去を語る場合でも、人から聞いた事を書く場合と、自分が経験した場合とは文法上明確区別して違った単語を使用したのです。(上記の「親鸞と恵信尼」45頁より引用です)この文法の原則を、恵信尼様もきちんとまもっておられました。
それは、過去を示す助動詞の「き」と「けり」で区別したといわれています。過去をかたる話のなかで、助動詞に「~き」とあれば「私はこんなことをしました」という自分の過去体験の内容。「~けり」とあれば、「こういうことを人から聞きました」という意味になるそうです。上記の原文の赤字の部分が「~けり」の部分。細かくかけば「けり」は「けり、ける、けれ」と活用します。それに対して、自分が体験した「~き」は、「き、し、しか」と活用されるのです。青字の部分です。
これを、恵信尼消息にあてはめると、(原文をよく見てくださいね)
①親鸞聖人が、比叡山で修行したことをしめす文章は、「けり(ける)」で結ばれています。
②六角堂の参籠も「けり(ける)」で結ばれています。
③95日目の暁の示現も「けり(ける)」で結ばれています。
ですから①~③は、恵信尼様が人から聞いた話となります。人とは、勿論の事ですが親鸞聖人から聞いたという事です。
ところが、親鸞聖人が法然上人のところに行く場面になりましと、表現がガラリと変わって、「き(し)」になります。また、親鸞聖人が法然上人のからこのような教えを聞いたところも「き(し、しか)」です。つまり、親鸞聖人が法然上人のもとに通われたことを、恵信尼様は自分の目で見ておられたという事になります。そして、教えの内容も恵信尼様が、じかに聞いていたという事になります。
恵信尼様と聖人は、法然上人のもとで出合われた事になります。おそらくは、恵信尼様の方が早くから法然上人の吉水の禅坊にお念仏の教えを聞きに通われていた。そこで、親鸞聖人と出合われたという事になるのでしょうか?
男女には、必ず最初の出合いがあります。恵信尼にとって、聖人との最初の出合いは一生の宝物であったに違いありません。忘れる事なぞ絶対に出来ない出合い。生涯にわたって大切にされた出合いです。これを、娘の覚信尼様から親鸞聖人ご往生を聞かれた時、その返事の手紙に書かれたという事になります。こんなに深い愛情の表現があるのでしょうか・・・・皆さんも、思い出してください。最初の出合いを・・・・・
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追伸・・・このブログは、ちょうど2年前の12月中旬より本格的に始まりました。まる2年で33000人の訪問者。始めた当初は、想像もできない数字です。本当にありがとうございます。
続く・・・・・