明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

深正寺さんの桜とはいかないが

2010-03-30 23:42:55 | Weblog
一昨日、「ふるまご」さんがコメントを寄せていただいた。その中に深正寺さんの桜の話が。このお寺は、拙寺の親戚のお寺。しかも、真宗高田派のお寺。拙寺の親戚は、ほとんどお寺であるが本願寺派(西)のお寺が圧倒的。だから大切な存在のお寺。このお寺の参道は、見事な桜並木。満開の時にはさぞかし素晴らしいだろうなと思う。花見の宴が開かれたのもわかろうというもの。それに反して、拙寺は2本の桜の木しかない。貴重な一本が下の駐車場にある。
今日は、風は冷たいものの日差しは暖か。午後からの草取りにも勢いがつく。勢いがついたのは草取りばかりではない。桜の花も、昨日までの足踏み状態から一気に花が咲き出した。勿論、満開には程遠いが待ち焦がれた桜の花が一斉に咲きだした。この分では、4月11日の降誕会法要の時も桜の花が咲いていてくれるのではと密かに期待している・・・・取らぬタヌキの皮算用の可能性が?????

寒かった

2010-03-30 00:45:49 | Weblog
今日は、3月29日の筈。にもかかわらず午後3時過ぎから雪が降りだした。ちょうど裏庭の草取りの最中。4月11日には、親鸞聖人の降誕会(ごうたんえ)法要が拙寺でつとまる。だから、その準備に入っている。その第1段は草取り。ここ最近草取りばかり。写真の手前の方は、草取りが大変だからと自発的にお手伝い来られたご婦人。本当に有難い。なかなか、最近は天気が安定せずに草を取れる日が限られている状態。そんな中での応援であるから涙が出るほどに嬉しい出来事。このご婦人、午前中は朝から藤原岳に登っておられた。山頂付近は猛烈な雪であったそうだ。それにしても、午後からの草取り作業。雪は降るは、寒風は音をたてて吹き荒れるで真冬の寒さ。実に寒かった。

すみれの花さくころ

2010-03-30 00:27:50 | Weblog
すみれの 花咲く頃 始めて君を知りぬ
君を思い 日ごと夜ごと 悩みしあの日の頃
すみれの 花咲く頃 今も心奮(ふる)う
忘れな君 我らの恋 すみれの花咲く頃
この歌、宝塚歌劇を代表する歌。実は、拙寺の裏庭には、このスミレの花が咲く場所がある。今年も、うすいブルーの花が咲き出した。このすみれの花、注意しないと頭上の桜の蕾に目がいって見落としてしまう。今年は、寒さのために裏庭の桜の開花はなかなかの状態。フト、足もとをみたら「すみれの花」が。私を、忘れないでねと小さな花を咲かせていた。。

祝 13500人 足もとに

2010-03-28 22:51:03 | Weblog
今、拙寺の境内には野生化した小さなパンジーの花が点々と咲いている。紫と黄と白の花びらを持つ可愛い花である。時は、4月目前。花冷えと称する寒さの為に、桜の花も一気に開花とは行かない足踏み状態が続いている。しかし、春本番ともなると私達の目線は、一斉咲く桜等の花々に気を取られ、どうしても目線が上に行くケースが多い。でも、地上で花を咲かしている小さなパンジーの花等もあるのです。拙寺にお参りの際には、足もとにも注意しておこし下さい。そうすれば、可愛い花々が出迎えてくれる筈です。
尚、拙寺ブログの訪問者の方が、昨日で13500人(正確には13549人)を超えていました。いつも有難うございます。

夢告(九条兼実の場合)

2010-03-28 00:12:50 | Weblog
摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)という朝廷で最高位についていた九条兼実(くじょうかねざね)は、平安末期から鎌倉初期の人物。
私達が、九条兼実という人物を考える時、従来から聞かされて来たことは、法然上人を庇護(ひご)した最大のパトロンであり、法然上人の主著である『選択本願念仏集』も、もともとは九条兼実の要請により書かれた本であるいう事等をすぐに思い出します。又、『親鸞聖人正明伝』という本には、親鸞聖人と兼実の娘である玉日姫?との結婚も、九条兼実の要請があって法然上人が結婚を決めたとあります。このように、九条兼実は法然上人の教えであるお念仏の教えに深く帰依(きえ)した人物として理解しています。
しかし、これは彼の人生の後半部分。朝廷内の陰謀により、摂政・関白の地位から追い落とされ失意のどん底にあった時代に符合します。彼の前半生は、出世の階段を登っていく躍動の時代でした。
この時代、彼は日記をつけていました。この日記を『玉葉(ぎょくよう)』と言います。『玉葉』は、長寛2(1164)年より正治2(1200)年に至るおよそ36年に渡る記録。これは源氏と平氏の争いに重なる部分が多い。この源平合戦を書いた本としては『平家物語』が有名。この『平家物語』を補うものとして必ず利用されるのが『玉葉』。とにかく、兼実の有した情報網は多彩であった。平家一門・後白河院の周辺、藤原氏内部をめぐる政敵近衛家等の内情、鎌倉の頼朝や奥州藤原氏の動静にまで及ぶその記事の数々は、『平家物語』中のエピソードの多くを網羅し、事実関係の確認に欠くべからざる素材といえます。
この『玉葉』は、それだけではありません。実に、夢の記録が多いのです。源頼朝が、石橋山に挙兵した治承四年あたりから、平家が檀の浦に滅びた寿永四年あたりにかけての時期にほぼ集中しています。私は、直接に『玉葉』を読んだことはありません。他の本からの引用文のみです。それでも、源平の争いが頂点に達した時代に夢の記録が多いのは一種の異様さすら感じます。九条家は、摂関家(摂政・関白を出すことのできる藤原氏内部の最上級貴族の家を言う)の家柄でした。これと深く関係しているように思うのです。平家全盛の時代は、九条家から摂政・関白がでることはありませんでした。激動の時代、政治がどうなるのか読めない時代に身を置くものとしては、九条家の将来を真剣に考えざるをえませんでした。兼実が、この時代に夢を集中してみた事、それを日記に事細かく書いた事等を考え合わせると、九条兼実の危機意識が夢をもたらしたものと結論付ける事が可能であると思います。それにしても、夢を正夢(まさゆめ)として、夢に九条家の繁栄を願う兼実の執念は凄いものです。 


夢告(明恵上人の場合)

2010-03-27 00:12:29 | Weblog
法然上人と同時代を生き抜かれた明恵(みょうえ)上人。この方は、法然上人の浄土の教えとは対照的に華厳教(けごんきょう)の教えに基づきながら釈迦仏教の復興をめざした高僧である。京都、栂尾(とがのう)高山寺の明恵上人。彼が、松の木の上で座禅をくむ肖像画が余りにも有名。(写真参照・・インターネットよりコピー)
彼は、法然上人の著作である『選択本願念仏集』を批判し、弾劾(だんがい)の書である『ざい邪論(ざいじゃりん)』を書いた。彼にとっては、仏道の基本は悟りを目指そうというこころこそ大事なものであった。菩提心である。お釈迦様以来の仏道の基本であった。これがない仏道は、仏道とはいえないものであった。故に、法然上人の仏教(専修念仏)を菩提心なき仏教として厳しく批判した。明恵上人は、お釈迦様の最後を記された『遺教経』により宗教的転機を迎えた。お釈迦様のごとくに仏道を実践する。この仏道を行く者にとっては当然の批判であった。
後に、親鸞聖人はこの批判に答えるべく主著の『教行信証』に、浄土の菩提心について詳しく論述されたところである。
さて、この明恵上人には、『夢之記』がある。24歳から亡く58歳までの夢を丹念に記録されたのである。明恵上人が、おびただしい夢想・夢告等を経験していることは、『夢之記』を読めばうかがい知るところである。彼は、克明に夢の記録を残した。何故なのか?私達は、夢などは二日~三日で忘れてしまうのであるが・・・・
彼は、華厳宗の行者(ぎょうじゃ)であった。華厳宗の根本は、円融無碍(えんゆうむげ)の教え。以前にも書いたが、華道の一輪の花に、全宇宙を見る考えである。そうであるならば、おきている時の体験と睡眠時の体験(ゆめ)は途切れることなくお互いに関連している世界という事になる。明恵上人にとっては、夢もまた現実の世界なのである。夢は、上人にとっては、諸仏と交わる貴重なチャンネルであり、仏道修行の場であったといえる。彼は言う。『自分の思い通りに弟子に夢をみさせる事ができたなら、彼らの修行を早めることができるのに』という言葉すらある。
法然上人と共通する事がある。お互いに高僧であり、相容れない仏道であったが、ともに夢をもって自分の教説の正当性の根拠としている点が共通なのだ。法然上人の場合は、一昨日に書いた。明恵上人も、43歳の時に『菩薩たちの助けをかりて、弥勒の浄土である兜卒天に上昇していく夢を見ている。そして、「諸仏、ことごとく中に入る。汝(なんじ)今、清浄(さとり)を得たり」』と結んでいる。明恵上人は、夢の中で華厳教学の真髄に到達しているのである。夢とは、摩訶不思議なもの・・・・・

さくら咲く

2010-03-26 23:54:58 | Weblog
拙寺駐車場の桜が、咲いた(六分咲き程度)。蕾は大きくなっているのだが、なにせこの寒さ。一向に花は咲かず。昔から花冷えという言葉はあるが、今日の夕方には白いものが舞いだした。雪である。昨年の12月中旬よりスタットレスタイヤをはいていたが、もう4月も目前。今日の夕方に普通タイヤに交換した。4本とも新品。意気揚々と帰宅の最中に雪である。一体どうなっているのかと不思議に思うことしきり。春は目前。されど、楽しみはもう少し後という事か・・・・・

夢告(法然上人の場合)

2010-03-25 00:04:55 | Weblog
梅原猛先生は、その著『法然の悲しみ(上下)』の中で、法然上人を称して釈迦以来の大導師と言われているが、仏教を真実民衆のものにされたのは、ひとえに法然上人の功績である。しかし、私達は法然上人と言えば親鸞聖人の先生が親しみ易い。
親鸞聖人は、『親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人(法然上人)の仰せをいただいて、信じるほかに格別な理由があるわけではありません(歎異抄第2帖現代訳)』と法然上人を最後まで慕われた。この法然上人と夢告(むこく)を考えよう。
法然上人は、43歳の時に善導大師が『仏説観無量寿経』の解釈された『観経疏(かんぎょうしょ)』の一文により、数あるお釈迦様の教えの中から念仏一つを選びとられ、専修(せんじゅ)念仏の教えを確立された。これにより、広く仏教が民衆に開放されたのである。何しろ、阿弥陀様のみ名をこころから称えれば、必ず救われると説かれたのであるから、誰にでもできるやさしき仏教が誕生した。
これは、仏教史上まさに革命が起こったに等しい事であった。それまでは、厳しい修行・戒律をまもる・精心集中により、悟りの道をきわめるのがお釈迦様以来の仏道であった。しかし、この道は一部のエリート僧にしか実践できない道でもあった。では、他の人々の救いはどうするのか?法然上人の問題提起はここにあった。そして、回答は念仏申す事であった。これは革命であった。革命であるがゆえに、悩みがあった。それは、本当に自分のすすむるところの念仏の道が正しいのかという悩みである。何か、確証が欲しい。その確証は、夢の告げ(夢告)としてもたらされたのである。
ある夜、法然上人は夢を見られた。『・・・・やがて、この雲の中より、墨染(すみぞめ)め衣(ころも)をまとった僧が現れ、法然のところに降りてきた。よく見れば上半身は墨染めの衣をまとい、下半身は金身であった。法然は、合掌し、あなたは誰ですかとたずねた。僧は答えた。「我はこれ善導なり。汝(なんじ)、専修念仏の法をひろむる故に、証とならんが為に来たれるなりと。」』(法然上人御夢想記)と記されている。夢の中での、善導との対話が、法然上人にとって、念仏を教えの確かさの確証となっているのである。
それを物語るように、法然上人の主著である『選択本願念仏集』の末尾に、法然上人は次のように記した。『唐では、善導は阿弥陀仏の化身(けしん)であると言い伝えられている。そうであるならば、「観経疏」は阿弥陀仏の直説である』と述べている。つまり、法然上人は善導大師を阿弥陀仏の化身ととらえており、このことは、自分(法然)の念仏の教えとは
阿弥陀仏に裏づけられていたものだという事になる。このように解釈すれば、法然上人は夢の告げを通じて、阿弥陀仏⇒善導大師⇒法然と連なったことになり、まさにお念仏の教えの確かさの確証そのものを夢告により得たことになるのである。道を求め進む人には、このような夢告がもたられるのである。
写真は、以前にも使用した。法然上人が、夢の中で善導大師と会われた場面を描いたもの。左上の僧が善導大師、右下の僧が法然上人。全体の構図は、極楽浄土にて法然上人は善導大師と会われた場面になっている。

夢告(梁塵秘抄の場合)

2010-03-23 23:27:57 | Weblog
夢の告げ。私達も夢を見る。夢は、こころの願望の表れの場合もあるし、こころの奥底にあるものが突然表れる場合もある。現代心理学の説くところである。どちらにしても、私達は夢を大事にすることは普段はない。ろくな夢しか見ない事もあるが・・・・・・
しかし、昔の日本人は違っていた。自分の人生を左右する時は、神社・寺院にて、一定期間籠(こ)もり、神仏に必死に祈り、神仏のお告げを期待した。これを夢告(むこく)と呼ぶ。
梁塵秘抄(りょうじんひょう)という本がある。読まれた方もおられるに違いないが、この本の編集者は、平安末期の最大の権力者である後白河法要である。当時の今様(いまよう)と呼ぶ流行歌を集めた本。この中に、『仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあわれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見え給ふ。』という有名な歌がある。
後にもふれますが、親鸞聖人の内室と呼ばれる恵信尼様のお手紙にも、親鸞聖人が29歳の時に京都六角堂に参籠され、95日目の暁に観音様より夢のお告げを受けられたという真宗門徒であるならば一度は聞いた有名な場面が出てきます。 ここにも、『暁』という言葉が登場します。梁塵秘抄の先ほど紹介した有名な今様にも『暁』があります。『仏様は、人の声がきこえない暁に、夢の中でお会いすることができる』という意味になります。現代では、『暁(あかつき)』とは、少し明るくなってきた頃を表現しますが、平安の昔は違っていた。この時代、『暁』とは、真っ黒な時間帯、夜中の午前2時から3時をさしています。少し明るくなっていた時刻は、『曙(あけぼの)』という表現がありました。
昔、『暁』という時間帯は、神仏が出現して人々を導いてくれる時間帯。つまり、神仏が夢の中で出てきてくれるなら、この時間帯であると信じていたのです。つまり、『暁』とは、大変尊い時間帯。だから、梁塵秘抄も、恵信尼様のお手紙でも、『暁』に仏様・観音様があらわれて夢の告げをされたと書いているのです。
昨日、紹介の善導大師の夢の告げも、明日紹介する法然上人の夢の告げも、『暁』の時間帯であったでしょう。それほどに、夢の告げ、夢告(むこく)は、道を求める人には仏様からの証明にも等しいものでありました。必死に・真剣に・いのちを賭けて、仏道を求める人には、その必死さ故に必ず夢告はなくてはならないものであったのです。夢告すら受ける事のできない僧侶なんて、人々の話題にものぼらない程。故に、夢告を否定する事は、日本史を否定するに等しい暴挙であるともいえるのです。この事を、確認しておきましょう。
尚、梁塵秘抄は、五味文彦著、文春文庫『梁塵秘抄のうたと絵』(700円税別)、又は西郷信綱著 ちくま文庫『梁塵秘抄』(600円?・・・購入時が昔)が大変読みやすい。一度、読まれることをお勧めします。
写真は、昨日と同じ場所にて撮影。マンサクの花と木蓮の花

夢告(善導大師の場合)

2010-03-22 23:34:43 | Weblog
事実上、2月26日の続きである。この日は、浄土真宗の七高僧の一人である中国唐時代の僧である『善導(ぜんどう)大師』を扱いました。彼は、『仏説観無量寿経』を解釈されて、『観経疏(かんぎょうしょ)』4巻をあらわしました。なかでも『観経疏』の一つである『散善義(さんぜぎ)』において、以下のように力強く宣言します。『仏様のこころをうかがってみると、人々がただひたすらに弥陀の名号(南無阿弥陀仏)を称すること、このことこそが、今の時代の私達には唯一の救いである』と宣言したのです。
これは、実に大胆な宣言でした。なぜ、南無阿弥陀仏を称えたら浄土に往生できるのかの問いに、彼は、ただ一言『仏様(阿弥陀様)の願いがそうなっているから(散善義)』と答えている。物質文明、お金で全て解決ようという現代人には、容易に近づけない世界である。しかし、善導大師は、言われる。『お前は、何ものか。おのれのこころを深く見よ。お前のこころは何と偽善(ぎぜん)と悪性に満ちているではないか。迷えるあわれな者たちよ。罪の重い荷物を背負っていつまで闇(やよ)にさまようのか。おのれのこころを深く懺悔(ざんげ)せよ。そんなお前を救おうと言われたのは阿弥陀様以外にないではないか。他の仏たちはお前のような者を救おうとされてはいないのだ。』と私達に示されたのです。日本社会・日本人の現状をするどく指摘されたとも言える一言です。
そして、善導大師は『観経疏』の最後に、不思議な夢の告げを書くのである。善導大師は、『自分が書こうとするこの『仏説観無量寿経』の解釈本が、仏様(阿弥陀様)のおこころ通りであるならば、そのあかしとして霊夢をみせさせたまえと願い、阿弥陀経を3万回読み、阿弥陀仏を念ずること3万回をもって必死に祈られた。そうすると、夢の中に、一人の僧があらわれ、私(善導大師)に指南された。そして、出来上がったのが『観経疏』なのである。だから、この『観経疏』は、一字一句も間違えてはならない。これを写そうと思うものは、お釈迦様の説かれたお経のごとにせよ』と述べられている。これは、少なくてもこの『観経疏』の書かれた内容に関しては、阿弥陀様により説かれた『観経疏』であると善導大師は確信し、自らを聖なる使徒の自覚と信念を持って書かれた『観経疏』である事を見逃すべきではない。信仰における夢の告げとは、かくも大切なものである。
写真は、拙寺近くの梅林・木蓮林。本日撮影。写真の拡大は、右上の投稿日時をクリックすると比較的拡大されます。