昨日(2月27日)は、定例法座(毎月第4週木曜日午後2時)でした。雨でしたが、皆さん定刻よりかなり早くお参りです。何故か常連さんが3名ほど欠席でしたが、初回の方もあり10数名のお参りとなりました。でも、いつも参加していただく人の顔が見えないと「どうされたのだろうか?」心配になります。そこで、法座の後電話・・・・・そして、納得です。
定例法座は、和讃は繰り読みをしていますから、今回の使用和讃は『高僧和讃・・源信讃』より
「専修の人をほむるには
千無一失とをしへたり
雑修のひとをきらふには
万不一生とのべたまふ」
・・・以下5首でした。
さて、本日の法話は『末代無智の章』の「たとい罪業(ざいごう)が深重(じんじゅう)なりとも」がテーマ。
善鸞事件を例にあげました。善鸞は、聖人のご長男。この方が、聖人の名代として関東に赴き、結果として関東門弟集団が大混乱に陥りました。大混乱の原因が、我が子の善鸞の行動でした。事態収拾の為に、聖人が取られた行動は善鸞を義絶でした。世にいう善鸞事件です。聖人84歳の出来事でした。親を裏切り、そして結果として念仏の法を裏切った善鸞の行動は、聖人をどれ程悲しませたのでしょうか?
しかしです。聖人の思いは「阿弥陀如来の大悲の願いは、そんな善鸞にこそ向けられた願いであるぞ。気がついてくれよ」との悲痛な叫びであった筈です。なぜならば、真宗の肝要は「悪人正機」の教えであるからです。
本日使用の和讃のなかに、
「煩悩にまなこさへられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
常にわが身を照らすなり」
という有名な和讃があります。
この和讃の心は・・・・
常に照らしていただく大悲の光は、わが身をも照らしていただいているのであるが、自分勝手な自己中心で物事を判断(これを煩悩といいます)する私であるが故に、その光を見る事はできません。しかし、そんな私をも大悲の光は止むことなく照らしていただいているのです。それが「末代無智の章」では、「たとい罪業(ざいごう)が深重(じんじゅう)なりとも」と表現されているのです。こんな法話でした。
明日から、永代経法要です。(3月1日2日午後2時から)ご講師は、飛騨組神通寺住職の朝戸臣統先生です。また、3月1日午後7時から、自坊仏教婦人会の研修会が開催されます。是非、お参りいただければ幸いです。
このブログの訪問者が、196000人(正確には、196054人)を超えていました。いつも訪問いただき有難うございます。
定例法座は、和讃は繰り読みをしていますから、今回の使用和讃は『高僧和讃・・源信讃』より
「専修の人をほむるには
千無一失とをしへたり
雑修のひとをきらふには
万不一生とのべたまふ」
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さて、本日の法話は『末代無智の章』の「たとい罪業(ざいごう)が深重(じんじゅう)なりとも」がテーマ。
善鸞事件を例にあげました。善鸞は、聖人のご長男。この方が、聖人の名代として関東に赴き、結果として関東門弟集団が大混乱に陥りました。大混乱の原因が、我が子の善鸞の行動でした。事態収拾の為に、聖人が取られた行動は善鸞を義絶でした。世にいう善鸞事件です。聖人84歳の出来事でした。親を裏切り、そして結果として念仏の法を裏切った善鸞の行動は、聖人をどれ程悲しませたのでしょうか?
しかしです。聖人の思いは「阿弥陀如来の大悲の願いは、そんな善鸞にこそ向けられた願いであるぞ。気がついてくれよ」との悲痛な叫びであった筈です。なぜならば、真宗の肝要は「悪人正機」の教えであるからです。
本日使用の和讃のなかに、
「煩悩にまなこさへられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
常にわが身を照らすなり」
という有名な和讃があります。
この和讃の心は・・・・
常に照らしていただく大悲の光は、わが身をも照らしていただいているのであるが、自分勝手な自己中心で物事を判断(これを煩悩といいます)する私であるが故に、その光を見る事はできません。しかし、そんな私をも大悲の光は止むことなく照らしていただいているのです。それが「末代無智の章」では、「たとい罪業(ざいごう)が深重(じんじゅう)なりとも」と表現されているのです。こんな法話でした。
明日から、永代経法要です。(3月1日2日午後2時から)ご講師は、飛騨組神通寺住職の朝戸臣統先生です。また、3月1日午後7時から、自坊仏教婦人会の研修会が開催されます。是非、お参りいただければ幸いです。
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