明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

承元の法難(弾圧)・・・⑪3人の師匠(ししょう)

2012-04-24 12:05:23 | Weblog
今まで、法然上人の生涯の表面に過ぎませんが、『勅修御伝(ちょうしゅうごでん)』である『四十八巻伝』と呼ばれる『法然上人行状絵図』を基本にして書かせていただいています。勿論、親鸞聖人撰述の『西方指南抄(さいほうしなんんしょう)』も参考にはしていますが。この『四十八巻伝』は、法然上人の往生後、約一世紀を経て作られた浄土宗公認の法然上人伝です。だから、原本は浄土宗の総本山である知恩院あります。
それにしてもです。13歳、あるには15歳で比叡山に登られて、18歳にして比叡山山中の黒谷におられる叡空(えいくう)上人のもとに身を寄せられるまで、僅か数年、又は3年の間に師匠を源光・皇円・叡空と3人も師匠が変わっているのです。
自坊の裏庭に咲く山吹の花。法然上人も、比叡山で見られた筈です。

伝記では、それぞれにもっともらしい理由はつけられていますが。例えば、源光上人が皇円上人に勢至丸(せいしまる=法然上人)を預けるに際して、「自分は、愚鈍(ぐどん)であるから、このような優れた少年を導く資格はない。だから碩学(せきがく)に教えを受けて、天台宗を極めなさい」と言われたと伝えられているのですが、こんな事、学問の世界ではありえない事です。まして、戒律厳しい当時の仏教界においてです。つぎつぎと師匠を変えるようでは、前の師匠からは疎んぜられ、後の師匠からは重んじられません。例えば、親鸞聖人の出家得度(しゅっけとくど)の戒師になられたという慈円僧都(じえんそうず)。戒師になられるという事は、その門下に入るという事であり、一生涯に渡って師匠なのです。しかし、ご承知のとおり聖人は六角堂の夢の告(夢告)を経て、法然上人のもとに走られました。慈円僧都から見れば、これは明確な裏切り行為であり、けっして許す事は無かったでありましょう。その証拠に、承元の法難に際して、慈円僧都はまったく親鸞聖人を助けようとされた形跡は全くありません。それどころか・・・・(後に詳しく)学問の世界は、今も昔もよく似たものです。
写真・・裏庭にツツジの花。自然はサイクルを淡々と咲きます。

まして、愚かな師匠ほど優秀な弟子が入れば、手放すことをためらうものです。ですから、どのような事があろうとも、数年、又は3年の間に師匠を次々とかえる事は無理があるのです。では、これをどのように整理したらよいのでしょうか?続く・・・・