明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

親鸞聖人750回忌記念事業「真宗の教え 北陸布教の道」調査報告会を聴講する・・・4

2012-01-31 16:22:36 | Weblog
今、最大級の寒波が到来しています。日本海側の各地、信越の境辺りは記録的な豪雪となっています。東日本大震災の翌日、M6.8~9の地震により痛めつけられた長野県栄村の惨状は、東日本大震災に隠れて余り報道される事はなかったがそれは酷いもの。昨年の9月に栄村を通過していますが、地震のつめ跡がくっきり残りそれはそれは大変な状況でした。その栄村にも豪雪が襲いかかっています。積雪は、3mを超えるのではないか。その栄村で、豪雪の為に橋が落ちたとういう報道がありました。住民の方のご苦労を思うと言葉にはならないものがあります。諏訪邦彦先生の『北越雪譜』の現代語訳を思い出します。19世紀の越後長岡地方・十日町地方の雪の苦労が語られている『北越雪譜』。ダウンロードしたものを読んでみました。今と昔、大きく違う点に気がつきました。それは、昔は雪国程共同作業で人々は支えあっています。でも、今は過疎地です。ここに一層の悲劇が。雪降ろしで、この一月で50人以上の方が亡くなっているという。大半は、65歳以上。限界集落・過疎地を襲う豪雪。是非、このブログを見られた訪問者の皆さんも、豪雪と戦う雪国の人達を考えて欲しいものです。又、このブログコメント欄の諏訪先生「北越雪譜」を開いて欲しいと思います。下写真は、1月27日夜の多賀サービスエリアの雪。越後周辺とは比較もできませんが、それでも皆さん慎重な運転でした。

さて、話は変わります。大桑先生の基調報告の中でも、越中(富山県)に進出した初期真宗門流の話がありました。坂東(ばんどう)報恩寺を頂点とする横曽根(よこそね)門徒と、井上善性(いのうえぜんしょう)を開基とする磯部(いそべ)門徒(門流)の活動の跡が見られるとの話でした。

中でも、自分が注目している水橋門徒は、磯部門徒の流れを汲むのではないかと富山県史を参考資料として話されました。この流れは、関東を起源とし、長野北部に広く展開し、戦国後期には新潟県にも進出した流れです。(註 新井別院の投稿でも触れました。)
でも、私は水橋門徒とは長野県南部の飯田周辺に展開していた寂円の流れを汲んでいるのではと思うのです。趣味で研究している新潟県北部の太子信仰を調べている時から、そのように思うようになりました。下写真、一番右の白枠集団が水橋門徒の推定位置。富山県東部の常願寺河河口付近にある。

水橋門徒を有名にしているのは、北陸における最古参の本願寺系の門徒集団として位置づけれているからです。その根拠になるのが有名な『存覚(ぞんかく)袖(そで)日記』です。「延文6年(1360年)4月に、越後柿崎の尼教存が本尊に存覚上人が「越中水橋門徒」と署名した」と書かれています。そして、『調査報告書』を読んでいきますと、14頁には一応『富山県史通史編490頁』を引用して水橋門徒の起源は寂円の流れを汲んでいる説もあると紹介されてはいます。だから、私の考えも全くの思いつきではない訳です。その理由を富山県史は、尼教存の家系図に注目しています。夫にあたるのが寂円とされており、しかも家系図には「寂」の文字を共有している事によると述べられています。「寂」の文字を法名に使う初期真宗教団は,三河国和田道場の流れを汲んだ門徒の可能性があります。ここに、14世紀の中頃飯田周辺から姿を消した寂円の集団が浮かび上がってきます。
思いつき1・・・1360年に尼教存が京都・本願寺にあがったのも、昔夫の寂円が本願寺第3代宗主覚如上人と親しかった故事に基づくのではないのでしょうか?夫の寂円が飯田の寂円ならば、観応2年(1351年)12月に88歳で亡くなっています。「講座蓮如第6巻66頁」。夫の菩提を弔う目的もあった。これは直感的な思いつきでが・・・・
思いつき2・・・越中の水橋門徒でありながら教存尼の家系は越後の上越は柿崎にあり、「親知らず子知らず」の難所を超えて越後・越中を自由に往来しています。この事は、農民ではないことを意味しています。水運に携わる者でありましょう。おそらく、ワタリと呼ばれた「川の民」である筈。故に、飯田の寂円の関係者と思うのです。飯田は、山国ですが側を天竜川が流れています。寂円の家系は「川の民」であったと思うのです。
でも、現在残された法物類からは大桑先生のお話のように、水橋門徒は磯部門徒の流れを汲む可能性大となります。難しいところです。私の意見、証明するものがない以上単なる思いつきで終わるのでしょうね・・・・・・涙・・・・
最後に、この『調査報告書』は現在のところ大変貴重品なのです。理由は、会場でも50部のみが2000円で販売されました。だから、早い者勝ち。売り場に聴講者が殺到。私は手元にあります。何故、手に入れる事ができたのか?それは、最後尾の席に陣取った成果が出ているのです。


親鸞聖人750回忌記念事業「真宗の教え 北陸布教の道」調査報告会を聴講する・・・3

2012-01-29 22:22:26 | Weblog
親鸞聖人没後(1262年以降)、関東の有力弟子達はそれぞれ集団を形成した。○○門徒(例・高田門徒・横曽根門徒)と呼ばれる事が多い。そして、彼らを初期真宗教団とも総称される。
聖人没後、関東発生の真宗を中部地方・近畿地方・信越地方・中国地方に拡大していったのは、その担い手は彼ら初期真宗教団の人々であった。この時代(13世紀後半から14世紀)は、本願寺はまだまだ蚊帳(かや)の外の状態。本願寺第3代宗主・覚如(かくにょ)上人の必死の努力にもかかわらずである。
関東を起源とする初期真宗教団は、三河でまず繁盛する。この三河の中心が和田門徒。その中心が和田道場。この道場を率いたのが信寂(しんじゃく)という人物。そして、寂静(じゃくじょう)という人物。この人物は、大谷廟堂(本願寺の事)の留守職を巡る覚如と唯善(ゆいぜん)との骨肉の争いにも、覚如側に立って大きな働きをした当時の地方教団の最有力者。
それが為か、この騒動が一段落した元応元年(1319年)に、覚如上人は子供の存覚(ぞんがく)上人を伴って三河に下向している。(講座 蓮如第6巻88頁 平凡社)その後、覚如上人一向は信州南部の飯田付近の門徒集団を形成していた寂円(じゃくえん)を訪ねるのである。(講座 蓮如第6巻66頁 平凡社)これは余談であるが、寂の字を使っているところから三河の和田門徒の流れを組むものであろう。三河岡崎から南信州に至る道は、矢作川に沿って上流に至る道である。この道、整備が進んだ現代でも厳しい山岳道路が続く道である。私も、不思議な縁があり、幾度もこの道を歩んだ。30数年前のこの道は、文字通りの深山を越えれば深い谷が連続する道でもあった。だから、この道は私の青春の道。今でも、本当に大切な道なのである。700年昔、覚如上人一向はこの道を歩まれたのである。覚如上人を巡る当時の状況から想像すると、なみなみならぬ決意のもと悲壮感漂う旅であった筈。そのように思うのである。そして、寂円は紆余曲折はあったが、覚如上人の一代記である『慕帰絵』に、弟子の伝記が記載されているのは寂円ともう一人だけ。これは、覚如上人にとり寂円はよき協力者・理解者であった事を意味している。
ところが、この寂円率いる門徒集団は、応安4年(1371年)の記事(註 本願抄の奥書)を最後に消滅するのである。一体どこに消えてしまったのかが問題となる。私達は、お寺とは一箇所に定住していると思い込んでいる。それは、近世に入ってからの話。それまでは、真宗の寺院・道場は各地に移動しているのである。それは何故か。真宗を信仰する特定の人々は、定住が必要な農民ではなかったという事になる。各地を移動する人々。そのように考えた時、寂円門徒が飯田周辺から消えた事も説明がつく。では、どこに消えたのであろいうか?私は、越後上越から越中水橋ではないかと思うようになっている。
下写真は、大桑斉先生の基調報告の際に使用された、越中水橋門徒等を示す真宗門徒集団分布図。

次回を、この地図を使っての水橋門地あれこれ・・・続く。

親鸞聖人750回忌記念事業「真宗の教え 北陸布教の道」調査報告会を聴講する・・・2

2012-01-29 11:54:22 | Weblog
さて、龍谷大学アバンティ響ホールはアバンティの9階にある。ここに行くのに難行苦行。9階という事で、エレベーターに乗ったらこのエレベーターは8階まで。9階に行くには、反対側にあるエレベーターを利用とあった。泣く泣く1階まで逆戻り。安心したのは、自分だけではなかった事。同じエレベーターに乗り合わせた人の中でも、自分と同じ行動をしている人がチラホラ。お互い苦笑する以外はないのですが・・・・・
定刻の午後1時30分から、「真宗の教え 北陸布教の道」調査報告会が開催。会場は、約200人程度の聴講者で満員。私は、いつもの指定席である最後尾の席で聴講。舞台は、そうそうたる出席者の顔ぶれが並んでおられます。東西本願寺・北国新聞社の共同主催という事で、浄土真宗本願寺派総長・真宗大谷派宗務総長・北国新聞社=富山新聞社の3名の方です。



真宗合同調査団団長の大桑斉(大谷大学名誉教授)先生から、それぞれの関係団体に調査報告書が50部ずつ贈られました。

下写真が、今回の調査報告書(現在のところ大変貴重な報告書なのです。訳は後半)

とにかく、今回の合同調査団メンバーは真宗史の権威者が並んでおられます。団長には、大桑斉(大谷大学名誉教授)先生。副団長には、金龍静(本願寺史料研究所客員研究員)先生。メンバーには、木越祐馨(輪島市・七尾市文化財保護審議会委員)先生。青木馨(同朋大学仏教文化研究所客員所員)先生等々です。
そして、いよいよ真宗合同調査団団長の大桑斉(大谷大学名誉教授)先生の基調報告が始まりました。

私は、今回の「真宗の教え 北陸布教の道」調査報告会で、以下の2つの事に関してどうように話されるのか興味津々で聞かせていただきました。
①本願寺北陸進出以前の初期真宗門徒の動き。中でも越中水橋門徒について?
②中世(13世紀から14世紀)、真宗を受容した北陸の人達とは一体どのような人達であるのか。?
続く・・・・・・


親鸞聖人750回忌記念事業「真宗の教え 北陸布教の道」調査報告会を聴講する

2012-01-27 22:38:37 | Weblog
財団法人北国総合研究所から、一通の案内が届いていた。それが、見出しの調査報告会聴講を呼びかける案内。この調査報告会は、750回忌記念事業として、東西本願寺と北国新聞社が主催した画期的な調査報告会。調査内容は、北陸地方における本願寺第8代宗主蓮如上人以前の浄土真宗の伝播(でんぱ)の歴史調査。北陸は、真宗王国と呼ばれる程に真宗の教えが生活の隅々まで浸透していた地域。その成果は、蓮如上人の吉崎布教に求める事が多いが、その前史があるというのが調査の目的。
その調査報告会が、1月29日(本日)の午後1時30分から京都駅裏の龍谷大学アバンティ響ホールで開かれた。京都にて種々の所用もあり、出席の返事は出していたものの出発寸前まで迷っていました。理由は、この雪。東北・北陸地方で記録的な雪が降っています。自坊の地域も、そこまでは行かないが1月27日から雪が断続的に降っています。結局、誘惑に負けて自坊を出発したのが午前7時40分。雪道を慎重に運転。
写真は、岐阜県大垣市上石津町の国道。完全にアイスバーン状態。この道を名神高速関が原インター目指しました。

名神高速に入ったものの大垣から彦根間は雪の為に完全な交通規制。道路公団の除雪車が先頭を走っているのですから50キロ以下のノロノロ運転。道路公団の車を先頭に大渋滞。しかし、スリップ等の重大事故を思えば我慢・我慢です。皆さんおとなしく運転しておられます。

ようやくにしてご本山・西本願寺に到着したのが、午前10時50分頃。ご本山は、親鸞聖人御正統(1月9日~16日)も修了し、いかにも閑散とした風情。冬景色も影響していると思いますが・・・・・

御影堂にお参りしようと思いましたが、現在は大遠忌法要で増設した部分の解体作業中。3月16日?まで立ち入り禁止。しかたなく阿弥陀堂にてお参りしました。上山記念に携帯にて写真撮影。誰かに頼もうにも、ご本山の白洲には誰もいないのですから依頼しようもありません。

法衣店等を訪ねて所用を済まし、その後龍谷大学アバンティ響ホールに向かいました。明日に続く・・・・・

84000人 従兄弟のお見舞いにく?

2012-01-25 21:54:26 | Weblog
今日の午後、桑名市多度町の病院に従兄弟のお見舞いに行った。昨日が、手術の筈。経過は如何にと心配したが、思いのほか順調の様子。明日退院という。それはそれで良いのだが、今度の土曜日に年忌法要に行くという。思わず「アホな事いうたらアカン。今度失敗すれば致命傷になるよ(従兄弟は、前回も同じところを手術)」と話したが、どうなのであろうか?このお見舞いで不思議な事があった。従兄弟に代わってお葬式にいった家のご夫婦と偶然にもバッタリ遭遇。従兄弟のお見舞いに来られた帰りだそうだ。偶然とは言え、不可思疑なご縁にお互いにビックリ。お葬式に行かせていただいたのも余程のご縁であろと思う。
実は、このお見舞い下心があった。病院の近くにある木曽三河公園の展望塔に登りたかったのある。この展望塔、長島デルタの輪中にあって、海抜56mの高さを誇る。

予想される東海三連動の巨大地震の被害予想図は、東日本大震災の影響で最近大きく見直された。当然、巨大津波は伊勢湾の奥深く侵入する。木曽三河の下流域の輪中地帯は、津波の脅威にさらされる地帯となるであろう事は容易に想像がつく。その前に、写真に納めたい場所があった。そうである。天正3年に、織田信長のジェノサイドにより、4万人とも呼ばれる一向宗門徒が皆殺しにあった長島一向一揆の牙城長島願証寺跡(註 河川改修工事により願証寺跡は長良川の川底に沈んでいるのだが)を撮影したかったのである。
下写真は、展望塔最上部の展望室から見た揖斐川。そして、養老山脈南端の多度山の山麓。遠くに鈴鹿山脈が見える。その背後には、白く雪雲が。

展望台から、揖斐川の上流を見る。背後の山系は養老山脈。

手前が、高須輪中と長良川。晴天であれば、この方角に白山と御岳が見える筈。今日は、雪雲に覆われている。

手前が、長良川。向こうが木曽川。名古屋の方角。恵那山も、雪雲の下。

千本松原を挟んで、右が揖斐川。左が長良川。長良川の屈曲部あたりの川底が旧願証寺跡と推定される場所。ここを写真に納めたかったのである。

公園には、パンジーの花とチュリュプの花が北風に揺れていました。伊吹おろしが、今日は一段とキツイです。コートを着ていても寒さが堪えます。



私が、車を停めた場所は陽だまり。そこには先客がいました。猫のご一家。数匹の猫の一家が日当ぼっこ。


この猫のご一家。私が側にいてもそ知らぬ顔。人に馴れているのでしょうか?でも、道路は車がビュンビュン走っています。車に注意して、子猫も大きくなってくださいね。
このブログの訪問者が、84000人(正確には、84147人)を超えていました。いつも訪問していただき有難うございます。





本堂足場の解体始まる

2012-01-25 11:49:17 | Weblog
本堂修復工事に伴い設置されていた足場の解体が始まりました。今まで、本堂修復工事の全てを支えていた足場。この足場は、昨年の4月23日から設置されたもの。実に9ヶ月ぶりにその役割を終了し、今日から3日間かけて解体されます。考えて見れば、この足場あるがゆえに本堂小屋組解体・再建・耐震・屋根瓦等の工事が無事見事に終了したようなもの。文字通り「縁の下の力持ち」の存在。感謝してもしきれるものではありません。
写真は、足場に掛けられていた安全ネットを外した状態。本堂の全景が浮かんできました。

4人の職人さんが手際よく解体していかれます。



職人さんの技でしょうか。一本のパイプの上を自由に往来して、足場を解体していかれます。

そして、修復工事が完成寸前(90㌫)の本堂が青空の下にその姿を現しました。思わず目頭が緩む瞬間です。






ゴメンナサイといわねばなりません。

2012-01-24 13:57:47 | Weblog
昨日は、お葬式であった。しかし、自坊ご門徒宅のお葬式ではありませんでした。それなのにお葬式の導師をしました。実は、私の従兄弟のお寺のご門徒。本来ならば、従兄弟の住職が導師を勤めるのが筋。しかしながら、手術が必要な緊急入院。そこで、従兄弟から「何とかして助けて欲しい」との依頼。事情が事情であり、これは助けなければならないと判断し引き受ける事となりました。お通夜(1月22日夜)葬儀式(1月23日)と自宅にて無事修了。でも、全く面識のないお宅での葬儀です。本当に疲れました。こんなにも疲れるものかという程に疲れました。
しかし、桑名市多度にてのこの葬儀、ビックリする事がありました。お通夜・葬儀式・還骨法要・初七日法要とお勤めがありましたが、導師の私に合わせてお参りの方の「南無阿弥陀仏」との称名念仏の声が高らかに聞こえるのです。その家全体に響き渡る程の称名念仏の大合唱でありました。このような高揚感を久しぶりに体験させていただきました。お念仏の声が生きているのです。まるで海鳴りのような心を揺り動かすお念仏の響きでありました。
前回の「信心参り」にて、お念仏の声が聞こえなくなって久しいと書きましたが、これは「ゴメンナサイ」と素直に謝罪しなければなりません。誠に申し訳なかったと書かねばなりません。「井の中の蛙、大海を知らず」です。この言葉、狭い世界に閉じこもって、広い世界のあることを知らない。狭い知識にとらわれて大局的な判断のできないたとえです。

結局、自分のお育て・ご教化が悪いという事に他なりません。色々と考えさせられるお葬儀となりました。

信心参り・・・⑥

2012-01-22 15:38:11 | Weblog
無事に門徒総会は終了。午後7時からはお通夜。つかの間の時間にブログを投稿。
1月15日の信心参り。
この日は、信行両座の場面。お勤めは、正信偈と和讃(浄土和讃・・大経意 善知識にあうことも・・以下6首)。
「信行両座」の場面とは、どのような場面なのでしょうか。この段の物語は、法然上人の教え(専修念仏)を聞こうと、上人のおられる吉水禅坊(よしみずのぜんぼう)は身分に関係なく集まり門前市をなす有様である事から始まります。当時、都における法然上人の人気ぶりが判ります。そして、上人の側には常にお弟子達380人がおられ、ねんごろに法然上人の教えを聞かれていたと書かれています。
ところが、本当の意味で法然上人の説かれる専修(せんじゅ)念仏が理解できていたのは数人であったと言うのです。その例として紹介されるのが信行両座の場面。ある時、善信(親鸞の事)が法然上人にある提案をされたというのである。提案の中味は次の通り。「お浄土に、本当に往生できる信心を持っておられるか外見からは理解できない。そこで、誰が浄土に往生できるのか試したい」と提案されたというのである。法然上人はこの事を了解されたというのであるが、この提案はあまりにも人をくった提案であると私は思うのですが・・・・・恐らく、外れを引く事になった大勢の弟子と善信(ぜんしん)との人間関係はズタズタになったであろうと思われます・・・・こんな事が、浄土宗側の記録に親鸞聖人の事が全く残っていない原因かもしれません。それでも専修(せんじゅ)念仏運動の理想に直走(ひたはし)る青年親鸞聖人(善信)の面目躍如というべきなのでしょうか?

場面設定は、信不退(しんふたい)と行不退(ぎょうふたい)の座を設定し、どちらかに座(すわ)れという。信不退とは、阿弥陀様の願い(本願)信じお念仏申せば必ず浄土往生をとげる事ができるというもの。それに対して、念仏を数多くとなえなければ浄土往生はできない(行不退)というもの。このどちらかに座れという提案である。写真右には、提案する善信とそれを聞き入る法然上人の姿が描かれています。浄土真宗は、信心正因(しんじんしょういん)・称名報恩(しょうみょうほうおん)の考え方。だから、口先だけの念仏では、真実浄土には往生できないという立場。蓮如上人も、「それ、人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうに思へり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。」(浄土真宗聖典註釈版1198頁)と念を押されています。そして、他力の信心とは、「南無阿弥陀仏の6つ字のこころをよくしりたるをもって、信心決定(しんじんけっじょう)すといふなり」(浄土真宗聖典註釈版1198頁)と説かれます。親鸞聖人のお言葉を引用すれば「仏願(ぶつがん)の生起本末(しょうきほんまつ)を聞きて疑心(ぎしん)あることなし」(浄土真宗聖典註釈版251頁)となります。何れも、阿弥陀仏の願い(本願)に対する絶対的信なくして浄土往生はありえない、又、口先だけの念仏は浄土往生はできないとなります。これはこれでよく理解できるのです。ですから、法然上人も信不退の座にお座りになったと結ばれています。上の左側の場面は少数派が信不退の座。多数派が行不退の座です。信不退の座が、やはり親鸞聖人を初めととして極少数であった事がわかります。
しかしです。現実・現状はどうなのか。信どころか「南無阿弥陀仏」というお念仏の声すら聞こえなくなりました。両手を合わせ、合掌はされるのですが、お念仏の声はなかなか聞こえてこないのです。自坊のご門徒だけの話ではない筈。ずっとこの事で悩んでいました。今風に、皆さんにわかるように上記の事をどのようにお話すればよいのかと悩んできました。
結論は、先ずは「南無阿弥陀仏」と声を出してお念仏を申す事。そこからしか始まらない。歌声運動では無いのですが、先ずは「お念仏の声ありき」、次に「お念仏とはなにかを考える」、そして「お念仏は、本願力回向の念仏である事を知る」、このプロセス以外ないのではないかとお話しました。

時間との競争と・・・・

2012-01-21 23:14:09 | Weblog
明日(1月22日)は、自坊の門徒総会である。宗教法人でもある明源寺ですから、1年の行動スケジュールは全て提案し承認が必要。その為に、欠かすことのできないのが門徒総会に提案する議案書。何分(なにぶん)、今年は予算・計画等の提案事項が多く議案書も両面刷りで16頁に及ぶ。誰が作成するのか。住職である私である。ところが、なかなか思うように制作できないのである。時間がたらないのである。
理由は、お葬式と法要。法要は、予め予定されているのであるが、お葬式は突然。でも、お葬式は最後の舞台。厳粛(げんしゅく)な儀式。だから自分なりに最高の儀式をと勤めている。しかし、そうであるが故に疲れるのである。なかなかパソコンに向かう気力が残っていないのである。文字通り時間との競争となる。ようやく総会議案書の印刷が先ほど修了した。議案書作成の為に徹夜(昨日)に近い状態。午前4時就寝。午前7時起床。午前9時30分からご門徒宅で年忌法要。でも、意外な程に元気。その理由は、下の写真と思われる。

蜜柑(みかん)ではありません。(勿論、蜜柑も大好きではありますが。)写真の果実は、金柑(きんかん)です。先日、ある人からいただいた。私の好みをよくご存知です。
金柑をこのところ食べているのである。
金柑は、昔から民間治療では風邪予防等の万能薬と言われてきた。事実、・ビタミンC・ビタミンPをふくむ。そして、免疫力を高め血液をさらさらにする効果があるという。タバコを未だに吸っている私としては最適の果実である。更に、「リモニン」効果が最近言われている。「リモニン」は、金柑の果皮に存在。発ガン物質を解毒する効果があるといわれているのである。つまり、時間との競争を金柑(きんかん)パワーで乗り切ったようなもの。金柑、お疲れの人にお勧めである。

虹粱(こうりょう)を治していただいた。

2012-01-20 16:07:12 | Weblog
その時、偶然にも私は見ていました。昭和58年の58豪雪の時。藤原町も、58豪雪の時には、積雪1m以上が降り積もった。4日間、雪が降り続いた。後にも先にも、あれ程の積雪となった事はない。結果、2月下旬になり本堂屋根の雪が融けて、物凄い音と共に屋根の雪が一挙に下に雪崩落ちた。その時である。本堂左側の濡れ縁上の虹粱(こうりょう)が、重みに耐えかねて一部が下にさがったのである。以来、そのままの状態となっていました。下写真の大工さんの頭上の虹粱(こうりょう)が、一部が突き出しれおり,完全におかしくなっているが分ります。この部分を、最終仕上げの一環としてもとの状態に治していただいた。(1月19日)これかなりの難工事。

3人の大工さんが、半日を費やしての作業。



下写真の虹粱(こうりょう)の上の斗組(ますぐみ)も手直しの必要もあり、3人掛りの大仕事。

でも、流石は寺社建築専門の大工さんです。ご努力もあり無事に以前の場所に戻る事ができました。下写真は、ピタリと元の場所収まっています。