今日は、午前10時30分より員弁組門徒総代の研修会が湯ノ山希望荘であった。午後、尾張旭にて百日法要がある。そこで、適度の時間に退出する為に、自分の車にて自坊の総代さんと共に出席。
さて、この研修会の空き時間に、希望荘周辺の山道を歩いていると、道端に名前も知らない山野草が咲いていた。普通なら、誰も見向きもしない山野草である。
しかし、写真の山野草にもいのちがあり子孫繁栄の為に花を咲かすのである。よくよく考えてみれば、「見向きもしない山野草」とは、すべてが私達の都合で勝手に決めているに過ぎない。山野草の立場にたてば、あずかり知らぬ人間の一方的論理となろう。この事は、私達の日常生活でよく耳にする「今日は、縁起(えんぎ)が悪い」とかの言葉も同じ事です。縁起(えんぎ)は、かつぐものではありません。したがうものなのです。もともと縁起(えんぎ)には、よいも悪いもありません。すべて、私達が自分にとっての都合で決めているだけの話。
縁起(えんぎ)とは、したがうものなのです。したがわざるをえないものなのです。釈尊(お釈迦様)の悟りの内容は、これずばり「縁起の法」でありました。縁起とは、因縁生起(いんえんしょうき)の略の言葉。一切のものごと、できごと、成り行きは、まず因(原因の事)があり、そこにさまざまな縁(条件の事)がつながり、ひろがって果(結果の事)が出る。つまり、因(原因)・縁(条件)・果(結果)の法則が、縁起の法なのです。これを簡単にいえば、自業自得(じごうじとく)の論理ともいえます。自分にふりかかる出来事は、よいわるいは別にして、その原因は全て自分にあるという事です。だから、したがわざるをえないのです。釈尊の仏法の根本がここにあります。なかでも大切な事は、縁(条件)なのです。すべての出来事、成り行きは条件により刻々と変化するのです。因(原因)はひとつでも,縁(条件)が変われば、果(結果)が変わるのです。よく考えたら当たり前の話。だから、流動的なのです。これを諸行無常と呼ぶのです。明日に続く
さて、この研修会の空き時間に、希望荘周辺の山道を歩いていると、道端に名前も知らない山野草が咲いていた。普通なら、誰も見向きもしない山野草である。
しかし、写真の山野草にもいのちがあり子孫繁栄の為に花を咲かすのである。よくよく考えてみれば、「見向きもしない山野草」とは、すべてが私達の都合で勝手に決めているに過ぎない。山野草の立場にたてば、あずかり知らぬ人間の一方的論理となろう。この事は、私達の日常生活でよく耳にする「今日は、縁起(えんぎ)が悪い」とかの言葉も同じ事です。縁起(えんぎ)は、かつぐものではありません。したがうものなのです。もともと縁起(えんぎ)には、よいも悪いもありません。すべて、私達が自分にとっての都合で決めているだけの話。
縁起(えんぎ)とは、したがうものなのです。したがわざるをえないものなのです。釈尊(お釈迦様)の悟りの内容は、これずばり「縁起の法」でありました。縁起とは、因縁生起(いんえんしょうき)の略の言葉。一切のものごと、できごと、成り行きは、まず因(原因の事)があり、そこにさまざまな縁(条件の事)がつながり、ひろがって果(結果の事)が出る。つまり、因(原因)・縁(条件)・果(結果)の法則が、縁起の法なのです。これを簡単にいえば、自業自得(じごうじとく)の論理ともいえます。自分にふりかかる出来事は、よいわるいは別にして、その原因は全て自分にあるという事です。だから、したがわざるをえないのです。釈尊の仏法の根本がここにあります。なかでも大切な事は、縁(条件)なのです。すべての出来事、成り行きは条件により刻々と変化するのです。因(原因)はひとつでも,縁(条件)が変われば、果(結果)が変わるのです。よく考えたら当たり前の話。だから、流動的なのです。これを諸行無常と呼ぶのです。明日に続く